泣きたいほどだったの

あなたはどんどん進んでいって
わたしはずっとここにいて


だけど泣けなかったの

わたしが泣いても
あなたは見向きもしないだろうから


これ以上 みじめな思いをするのは

もう いやだったの




ダム




ただ遠くから見つめるだけで、満たされていると思ってた。
市川コウキという名前は、いつだって鼓膜に、肌に、胸の奥に、ふんわりと浸透して心地よかった。

でも同時に、息苦しくもなった。

すれ違っても、わたしはあなたの瞳に映ることなんかできなくて。
それでもよかった。十分だった。だけど当たり前のように別々の高校になった。


同じ街に、いるはずなのに。
きっともう二度と、会うことも、すれ違うことさえ、ない。
すぐにあなたには可愛い彼女ができるんだろうな。
指先の震えはいつしか涙を誘い、あなたのやわらかな微笑みを想い出して、とうとうこぼれた。


遠くから眺めるだけで満たされていたのに。
満たされていたはずなのに。


卒業式の日、あなたを最後まで見届けたのはわたし。
たくさんの女の子が、あなたに駆けていった。わたしはそれさえも出来ずに、ただ立ち尽くしてあなたを目で追いかけていた。しなやかな歩みは誰が見ても振り返らずにはいられない。長い足が、大地を踏みつけにして、光の中へ溶けてゆく。
友達と一緒に楽しそうに話していたあなたは、今まででいちばん、輝いて見えた。

それが、わたしのあなたとの別れ。
あなたはわたしに出逢ってさえもいなかったから、あなたにはなにも関係ない話。


季節を六つ辿った、そろそろ夏が来るという頃にわたしはあなたに出逢った。『出逢った』という言葉が相互に意識がないと成立しないものならば、なんて言えばいいのだろう。

ワイシャツの袖を捲し上げて、軽やかな足取りであなたは歩いてきた。
目を逸らせなかった。胸の奥になにかが突っ掛かったような、感じたことのない感情が生まれた。

何食わぬ顔ですれ違った後、わたしは気付いたら振り返っていた。
――もしもあの人がここで振り返ったら、運命なのに。
愚かなことを想い描いて。
当然、あなたは振り返ることもなく歩いていった。すらりと伸びた後姿が、点になりやがて消えるまで、わたしはあなたを見つめ続けた。もうすぐ、夏が来る頃だった。目眩を覚えるほどの空が、わたしを見下ろしていた。


それから、わたしはおかしくなった。
喉の奥がからからして、瞳はいつのまにか潤い、足はおぼつかないし、何より胸の奥がダムになった。想いを吐き溜めるダムになった。
いつのまにかあなたのことばかりを考えてしまうわたしの想いの、ダムになった。

市川コウキという名前だと知った。
「そこまでかっこよくないじゃん」と言われた。
だけどそんな言葉わたしの耳を通り抜けてしまっていた。
あなたの眼鏡の奥の大きな瞳は、誰かを映しているのかな。彼のことを考えるだけで、そう、わたしは、満たされたのだ。
それ以上なんて思い浮かべることもできなかった。このままでいたいと頑なに願っていた。時々、見つけることができる距離で。すれ違った時に肩と肩が一瞬触れ合える距離で。


あなたが好き、とか愛してる、とかそんなつもりはなかった。
ただ純粋に、見つめていたいと想う。
あなたへの願いは、これだけだった。


だけどわたしの小さな願いは、やがて醜い嫉妬へと変わった。
あなたはどんどん背が伸びて、コンタクトにして、女の子はあなたをほっとけるわけ、なかった。

わたしがいちばんに見つけたのに。

それなのに。

たとえ同じクラスだったとしても、なにも出来るわけないのに。
わたしは嫉妬をした。あなたが好きだというまるで安っぽい気持ちを口にする人たちに。

わたしは、なにも出来ないのに。



そして、月日は流れ。
卒業式の日が、来た。

写真を撮りあったり、泣いて抱き合ったり、楽しく笑いあったり、最後の別れを惜しむ人ごみの中で、わたしはあなたを探した。

空虚な時間を過ごしていた。友達とベンチに座って、何気ない会話を交わす。同じ高校に行く友達だったから、目の前に広がる光景は文化祭のつまらない劇の一場面にしか見えなかった。
そしてとうとう、わたしはあなたを見つけた。

ボタンをくださいと言われるあなたを、少し離れた場所から眺める。
すっかり伸びた身長で、はにかんだ表情を見せるあなたに、今でもわからない感情が湧いたのを憶えてる。
三人組でボタンを貰いにいった女の子達は、学年でも可愛い方の子で。
だけどあなたに相応しくなどない。わたしは瞬きひとつせず、息をのんであなたを見つめた。

それから。

ひとつ。

またひとつ。

とうとうあなたの学ランのボタンはなくなって、友達の男子にからかわれていた。
わたしは見届けた。その一部始終を。余すところなく。すべて。
あなたはわたしに気付かない。


やがて、ついさっきまでざわめきでいっぱいだった学校に、人影はなくなった。
友達と、やっぱ市川はもてるねぇ、なんて笑い合った。
胸の奥のダムに、虚しく響く笑い声。

わたしはあなたが好きだったわけじゃない。愛していたわけでもない。

そう、想っていた。




fin.



040610