泣いてもいいって、

おねがいだれか言って。



ラビットボイス



「ごめん、おめーのこと、もう大して好きじゃねぇ」

自分勝手な彼はあたしにそう言った。あたしはこのときばかりは声を張り上げて怒ることなんてできなくて、ただ俯いた。

「オレ、リーのこと一番に考えるのとか、無理だし」

――だったらねぇ、
  一番じゃなくてもいいって言ったら、こんなこと言わなかった?

あたしはなんにも答えられなかった。泣くのはいやだった。こんなやつのために泣くなんて、いやだった。こんなやつ。こんなやつ。こんなやつ、が、あたし、は、大好きだった。ていうか、大好き。大好きなの。大好きなんだから、ひとりなんかにしないでよ。

「でもおめーは、それがやなんだろ?」

そんなの理由付けだ。だって、だって。彼はあたしなんかよりサッカーの方がよっぽど大事で、あたしなんか、別に、元々大した意味なんてなかったのだ。

――あたしがもしも、
  一番じゃなくてもいいって言ったって、適当にフッたでしょう?

「じゃな」

するりと身を翻して、彼は遠ざかって行った。緑のユニフォームなんて、かっこ悪い。背番号が、なによ。10番が、なによ。あたしよりもそんな布切れが大事なの。あたしは布切れ以下ってことなの。どうせ関係ないって言うんでしょう。あたしがひとりぼっちになろうと。

「リーとか、だったら、呼ぶなよ…」

利沙絵、というダサい名前が大嫌いなあたしを知って、『じゃあリーな!』とか、爽やかに彼は笑った。首から白いアディダスのタオルをぶら下げて。部活が終わったあとの、帰り道。毎日毎日二時間もあたしは待っていたのに。それなのに。何回かしか一緒に帰ったことなんてないじゃん。どうせ『待ってくれなんて言ってねーよ』なんて、言うんでしょう。悪かったわね、バカなのはあたしだわ。わかってるのよ。あんたが好きで好きでたまんないのよ。

「それなのに、なんでひとりにするのよ」

ぽつり。呟いた言葉が、安っぽい音を立てて床に転がっていった。からんころん。あたしはただただ、その場に立ち尽くした。不思議なくらい乾ききった瞳に、梅雨の生ぬるい風が沁みた。



『…つ、付き合っ…て……』

どきどきどきどきどきどきどきどき。どくんどくんどくんどくん。ぞくり。ごくり。どきどき。

『? いーよ』

――?、ってなんだよ。?、って…。
  間違いなく、今のあたしならこう思う。
  だけど、恋する乙女は限りなく一途であり、単純だ。

『ほほほほほほっほほおんと!!??』
『…別にいいけど』
『きゃーっきゃーっ! うれしー…!』

心は不思議なくらい溢れていたのに、このときだって瞳は乾いたままだった。眼科に行ったほうがいいかしら、なんて、考える余裕もなかった。


『ところで、おまえ、だれ?』


暑い暑い夏だった。ミーンミーン。蝉が鳴いてた。………泣いてた?
もうそろそろ一年だったのに。記念日だったのになぁ。あたしの誕生日、もうすぐなのになぁ。でもどうせ知らないだろうなぁ。ていうか知ってても、なんにもくれないだろうなぁ。彼はそぉんな人だったなぁ。

『は?』思わず素の声が出て、あたしは『え?』と言い直した。ナイキのタオルで髪の毛をわしゃわしゃ拭きながら、彼は何度も『あちー』と言った。わーわー。わー。グラウンドで部活動に励む健全な生徒達の歓声は、時に蝉よりも耳障りだ。あたしは思った。

『だからさあ、だれ?』

彼が苛立っているのは明らかで、このままじゃあ『やだ。やっぱやめた。』とか言われそうで、あたしは思わず叫んだ。世界で二番目にきらいな、自分の名前を。

『田中利沙絵です!!!』

おめーは一体いつの時代の人間だよ。と、彼が言いそうな名前だ。蝉とグラウンドの声で掻き消されるかと思っていたあたしの叫び声は予想以上に大きく、道行く生徒や掛け声を上げながら走っているどっかの部活の奴らまで、怪訝そうな眼差しであたしを見た。あたしは咄嗟に俯いたけど、彼は気付いているのかいないのか、相変わらずあちーあちーと言っていた。



あのときから、何かが変わったとすれば。
彼がとりあえずあたしの名前を覚えて、『リー』と呼ぶようになった。でも結局、『おめー』とかの方が多かった。あ、そういえば、『おまえ』から『おめー』に変わった。
あとは。
あとは、なんだろう。あたしはもしかしたらずっとひとりだったのかもしれない。

あたしは夢をみていた。
恋人、というのは、どこか神聖なもので、あたしがだれにも言えないことだって、受け入れてくれる存在だと、思っていた。思い違いもいいところだ。
あたしは今も、今までも、だれかの前でなんて、泣けない。

それに、元々付き合ってるのかも微妙だったのに、めんどくさがりな彼のほうから別れを切り出すなんて、あたしは相当邪魔な存在だったのだろう。それともやっぱり、『一番がいい』がいけなかったのだろうか。



『あたしたち、付き合って、るんだよ、ね』
『んー』
『でも別に、あたしのこと、どうでもいいでしょ』
『………』
『……やっぱなんにも言ってくんないんだ』
『………』

冬、だった。真冬。それでも彼は練習していた。あたしは教室にいても寒くて、彼のことをぼんやーりと見つめていた。彼が真剣にサッカーボールを追っている姿は、前と同じように、輝いてみえる。前と同じように。なにひとつ変わらずに。あたしと彼の距離は。そのまま。フェンス越しじゃなくなったけど、なんにも、変わらない。見てるのはあたしだけ。彼の視界に、あたしが映ることなんて、ない。

『ねぇ』
『ん…?』
『なんでもない』

あたしのことが、面倒くさくてしょうがないのだと、思った。ずっとそれは感じていたことだけど、こんなにも近くに感じたのは初めてだ。彼はきっと、別れるのすら面倒くさいんだろうなあ。あたし、なんでここにいるんだろうなぁ。彼が好きなのに。

『一番がいい』
『あ?』
『一番になりたい』
『…はー?』
『一番になりたいよ』
『………』

彼はたぶん、あたしの言葉の意味なんか考えることはなかった。ただ、あたしが、部活よりも何よりも自分を最優先にしてくれ。そう言ったんだと思ったのだろう。もしくは、そこまでも考えなかったか。どっちにしろ、彼にこの言葉はけしていい意味をもたらさなかった。

『ごめん』
『……』
『やっぱ、なんでもない』
『………』
『ごめんね』

彼は最後まで答えなかった。腕立て伏せをしていた。冬なのに、汗をかいてた。爽やかな汗だった。あたしの声は、聞こえていなかった。あたしの声なんか、一度も聞いたことがなかった。




「……あちー」

彼の真似をしてみる。

「……うるせぇよ」

もうちょっと、してみる。

「……一番とか、無理だし」

更に、してみる。

涙は、出なかった。

下駄箱の、横の、物置の、前。たまぁに人が通った。あたしなんかに目もくれずに。あたしはそれでも立ち尽くした。仁王様のように。どこかを見ていた。わからないけど。グラウンドからする声が、耳鳴りのように響く。やけに暗いこの場所が、あたしの居場所だとでも言うの?


あたしが世界で一番きらいなのは、ひとりぼっちになることだ。


だけど今あたしはひとりぼっちなわけで、あたしはあたしが世界一きらい。だいきらい。もういや。あたしの声なんか、誰も聞いてくれないくせに。神様は、サドだ。あたしをいじめて楽しんでるんだ。今、腹を抱えて笑ってるでしょうね。どうしてあたしなのよ。他の人にしてよ。たとえば、彼とか。ひとりぼっちにしてよ。あたしの苦しみをわからせてよ。

でもだめだ。あたし、彼がひとりぼっちになるなんて、耐えられない。

あたしは世界一バカだ。
だから神様はあたしを選んだんだ。

あたしは彼が大好きで、好きで、大好きで、しょうがなくて、

彼にはいつも彼でいてほしいのだ。

でも彼にあたしは関係ない。こんな平凡な名前、すぐに忘れてしまうだろう。もうとっくに顔だって、はっきり思い出せないだろう。

それでもあたしは泣けない。
泣きたくたって、泣けない。

ひとりぼっちで泣くなんて、空しすぎるよ。それじゃあ涙はどこに行けばいいの? ひとりぼっちのあたしに、居場所なんてないのに。涙なんかきっともうとっくに、神様に取られちゃったよ。泣けないよ。きっともう。




『ねぇ、あたしのことどう思ってるの?』
『………』
『ねぇねぇ、聞いてる?』
『うっせぇ。黙れ』
『………』
『………』
『……ね、あたしのこと、好き?』
『………』
『………』
『…………きらいじゃない』



あたしの声、聞こえてたかな。聞いてくれてたのかな。あのとき、泣いてもよかったのかな。うれしかったな。あのとき、泣きたいくらいにうれしかったんだよ。好き、なんだよ。大好き、なんだよ。

でもきっと。自分勝手なのはあたしだ。許されないと、泣けない。泣いてもいいよって、言ってくれなきゃ、きっと、きっときっと、泣けない。

眺めていた床に、だんだんと影が傾いてきた。もうすぐ、夜になるのかな。
いつまであたしはこんなところにいるのだろうか。だけど、動けない。もうなにも、したくない。

グラウンドに響いていた声は、いつしか小さくなっていった。最終下校時刻まで、あと少しなのかな。
去年の夏から、ずっとこの時間まで残っていたな。彼はいつも最後まで練習していた。だけどあたしには、もう、そんなことをする理由はない。あたしはほんとうに、ひとりなんだなぁ。そんなことを、ぼんやりと思った。



「…あれ? おめー、まだいたのかよ」

その声に、身体は勝手に反射して、思わず顔を上げてしまった。彼がいた。学ランのボタンを開けたまま、ズボンをだらりと履いて。おっきなエナメルのバッグを肩にかけて。首から黒いタオルをぶらさげて。

あたしが彼の誕生日にあげた、アディダスのタオルをぶらさげて。

泣けなかった。ほんとうは泣きたかったけど。もうきっとグラウンドには誰もいないのに、それでも耳鳴りは止んでいなかった。あたしは彼の顔から目が離せなかった。焼きついてしまうのは、いやだったのに。

「………」

無言で、彼はあたしにタオルを差し出した。

もう終わったんだ、と思った。これでもう、彼はあたしの全部を忘れるのだろうと、思った。

「おい」

受け取ろうとしないあたしに、急かすように彼は言った。

あたしはそろそろと手を伸ばして、タオルを受け取った。風が、目に沁みた。スプリンクラーのにおいがする風だった。思わず目を細める。

「それ、やるよ」

彼が言った。
あたしがあげたものなのに。それすら忘れてしまっていた。なんてやつだろう。なんてやつ。きらいになりたい。世界で一番、きらいになりたい。

「リー」

少し勢いを抑えた声で、彼はあたしのことを見た。
よかった。まだあたしの名前、覚えててくれたんだ。

そしてまた、大好きなんだと、実感する。

「ごめん…これ、も、もういらないよね! ごめんね…っ」

慌てて言うと、彼は少し首を傾げた。

「何言ってんの」

やっぱり冷たいなぁ、と思う。
カラカラになった瞳で彼を見上げると、少し怒ったようなよくわからない顔をしていた。初めて見る表情だった。

「え……?」

間抜けなあたしの声が響く。意味がわからなかった。あたしがここにいる意味も、彼がここにいる意味も、なんであたしが彼にあげたタオルを握り締めているのかも、どうして彼がこんな顔をしているのかも。必死に考えようとしたけど、あたしの頭にそんな余裕はこれっぽっちも残っていなかった。

すると。
下駄箱まで伸びた彼の影が、揺れた。

「そんないっつも泣きそうな顔してんじゃねーよ」

彼の影が伸びて、その影は彼の腕で、あたしの手からタオルを奪って、そのタオルがあたしの顔に押し付けられた。その行動に追いつけなくて、あたしはそれでも俯いていた。

「おめー泣かねぇよな」

彼が吐き捨てるように呟いて、あたしはやっとわかった。彼が言いたいこと。


泣いてもいいよ


自惚れではないはずだ。今更そんなことをしてもなんの意味もないから。あたしはそのまま顔にタオルを押し付けていた。唇が震えて、足がぐらぐらした。あたしの瞳に込み上げてくるものは、これ以上ないくらいに熱かった。

「………っ」

小さく嗚咽が漏れる。耳鳴りが、遠のいていくのがわかった。そして彼も、遠のいていくのがわかった。足音が、響く。だけどあたしは立ち尽くしたまま。


自分勝手な彼は、一番最後に優しさを残していった。

そしてあたしはひとりぼっち。
あたしの声は、きっと誰にも聞こえていない。


あんなにも自分勝手な彼のことが、世界で一番好きだった。

彼が遠のいていっても、なんの距離も変わらない。
最初から、変わってなど、いなかったから。


だけど、あたしは、泣いていた。



fin.



040531
妙に長くて、ごめんなさい。