たとえそれが泡沫の夢であったとしても



Transient Dream



「姫、今宵も貴女に逢いに参りました」

それは決まって、月がひとつだけ、闇に似合わない光をぼうと放っている夜。私の部屋に訪れる、白い影。
窓を開いたままにしているのは、私。すらりと高い背を持て余して、男はカーテンの隙間からその甘い声で囁く。姫、と。

彼は有名な怪盗だった。でもそんなことはどうでもよかった。彼がこの部屋に来る理由も、なんでもよかった。ただこの退屈な日常を切り開いてくれる唯一の存在であっただけのこと。

「こんばんは、怪盗さん」

私は彼に手を差し出す。そして彼は、慣れた手つきで跪き私の手の甲に口付ける。それはいつも繰り返される習慣のようなもので、私は彼の首筋を見下ろしては不思議な優越を感じていた。

「貴女という人は、何度見ても美しいのですね」
「ふふ、ありがとう」

ここに来て、彼は特に何をするわけでもない。愛し合っているわけでもないし、私をどうしようともせずに、ただ月を眺めてみたり、それについての薀蓄を並べてみたり、私の興味のないことを淡々と話した。けれど私は夢中だった。彼の深くかぶったシルクハットの奥の瞳はとても綺麗な色をしていて、つまらない話でも終わることを願いはしなかった。


「貴女は、神を信じますか?」

不意に、彼は言った。窓際に腰掛けて、紫苑の瞳で一瞬私を窺ったのは気のせいだろうか。

「私は――信じないわ。所詮人が創り出したものね。希望に縋るための」

「そう言うと思っていました」と彼は苦笑した。
月の光で照らされた彼の姿は、しかし神々しくも見えた。神など、人間の妄想の産物でしかないのに。

「……あなたは?」
「私は、………私も貴女と同じ意見ですね」
「神は人間の創り出した都合のいい存在?」
「ええ。でも私はそれでもいいと思うんです」
「私は別に否定的な意味を込めたわけじゃないわ」
「失礼しました。お気に障りましたか?」
「いいえ、別に。続けてちょうだい」

私はソファに座り直した。彼のマントがカーテンと交わるように靡いている。純白の衣装を身に纏っておいて、どうしてだろう、彼の表情は闇に溶けてしまいそうだった。美しいのだけど、どこか闇に染まっていくイメージばかりが私の脳で繰り返される。それは、彼の来る夜はいつも漆黒の闇にぽつりと月が浮かんでいる夜ばかりだからなのか。

「大きな不安や恐怖を感じたときや、自分の力ではどうしようもない力に押さえ付けられたとき、祈りを奉げる相手、として」
「あら、あなたにもそんな感情があるの?」
「……ありますよ、僕も人、ですから」

僕、という一人称を使うのは初めてだった。いつも、「私は」とか気障な言葉遣いをしていたけど。でも、似合わなくもなかった。彼はとても不思議で、興味深い。私は彼について何も知らないけれど、それが愉しくもあった。

「そうね」

月は相変わらず頼りない光を放っていて、雲に隠れてしまったら彼は全く見えなくなってしまう。彼との逢瀬の間、部屋の明かりを付けたことがなかった。彼なりの演出なのだろうと私は勝手に理解し、蒼白い月の光で彼の姿を眺めるようになっていた。

「貴女は、ありますか?」

大きな不安や恐怖を感じたとき、や、自分の力ではどうしようもない力に押さえ付けられたとき、のことだろう。

「……あるわ」
「訊いても宜しいですか?」
「――許婚、を押し付けられているの。…どうしようもない力に」

隣国の王子様、らしい。まだ会ったことはないけれど、まだ幼いと聞いた。今まで拒み続けてきたが、今回ばかりはそうもいかなかった。

「どうしようもない力というのは、王のことですか? それとも、運命?」
「どちらもね」
「いいのですか、私のような者に洩らしてしまっても。まだ公表していないことでしょう」

私のような者に、という響きにいくらか事務的なものを感じて、私は立ち上がり、彼に歩み寄った。

「あなたは私が嫁いだらもうここに来なくなるの?」

そっと蒼白い頬に触れると、彼は妖艶な笑みを浮かべて、言った。

「さあ? あなたが望むなら、私はいくらでも伺いますよ。あなたの不機嫌な顔を拝みに」
「自惚れもいいところね」

私は彼の唇に私のそれを重ねてみた。生ぬるい風がカーテンとマントを揺らしていて、いっそこの中に溶けてもいいと思った。

「姫」

紫苑の瞳が私の身体を捕らえる。
身動きが、できなかった。

はあと息をつこうとした瞬間、彼は私の手首を掴んで、引き寄せた。なにするの、と言い掛けたけれど、それはすぐに押し付けられた温かい唇に掻き消されてしまった。彼のシルクハットが、風に押されて舞い上がる。
彼は目を瞑っていて、初めてはっきりと見えたその顔はまるで人形のように冷たく、美しかった。睫毛がとても長い。私はその顔をじっくりと観察した。彼の後ろでは、大きな闇の海に小さな月が浮かんでいる。
塞がれた唇のお陰で、息ができない。仕方がなく彼のように目を瞑ることにした。
風の音は微かな安らぎをもたらし、瞼に月の光が注がれる。私は解かれた両手で彼の頭を抱え、舌を伸ばした。



end.



040518
とうとうこんな話を…!!
orz