天使になりたいと、彼女は言った


ただ微笑んで、

あらゆるものの幸せを祈り、

そして空に還りたいと。



エンジェル、ぼくはきみを



「あたしが死んでも悲しまないでね」

僕の手を弱々しく握り返しながら彼女は呟いた。

「あたし、天使になりたいんだ」

ふふ、と笑う彼女は、昔と何一つ変わらなかった。
違うものは、蒼白い肌と痩せ細った顔と抜け落ちた髪とたくさんの機械に繋がれた身体だけ。たったの、それだけだった。

「ならないで」

僕は言った。彼女が天使になるということ、それはつまりそういうことで、彼女はそのつもりで口癖のように言う。天使になりたいの、と。

「天使になったら、ずっと見守ってるからね。ヒロのこと」

だからあたしのことを忘れないでね、彼女は弱々しく微笑んだ。
僕は抱きしめてさえあげられない。彼女はずっと、ひとりで戦い続けていた。

「……あのね、あたし、ほんとはもう疲れちゃったんだ」
「………」
「こうして病気と戦っていくことも、ベッドでずっと寝てるのも」
「…僕と一緒にいることも?」

彼女は僕の質問には答えなかった。ただもう一度弱々しく微笑んで、静かに涙を流した。僕も泣いていた。彼女はきっと、天使になるから。


「お願いがあるの」

いくらか時間が経って、彼女の頬には涙の軌跡があった。

「なに?」
「あたしの、骨をね、ほんの少しでいいの。風に乗せて空高くに届けて欲しいの」

彼女はもうすべてを悟っていた。近い未来だった。でも僕がそれを信じたら、信じたら、いけない。

「いやだ」
「お願い」
「いやだ、そんなの。いやだ」
「……」
「そんなこと言わないで。まだこうして、こうやって、一緒にいられるのに」

僕は繋いでいる手に少し力を込めた。彼女を離したくなかった。
彼女の痩せ細った身体は、僕が手を離したら空に飛んでいってしまいそうだった。

「……あたしだって、一緒にいたいよ」

「でも、できないんだよ」

「あたし、もうすぐ―――」

彼女の言葉を遮ったのは、僕の唇だった。彼女は誰よりもその現実を恐れていただろうし、彼女自身が認めてしまうことがどんなにつらいことか、考えたくもなかった。
だからその先は、言ってはいけなかった。

「まだ、わかるの」
「……」
「こうやってね、ヒロのぬくもりを感じられるの。あたたかいの、わかるんだよ」
「………サチ」
「だからお願い。あたしが何も感じられなくなる前に」
「うん。僕もサチを忘れたくなんか、ない」

その夜、何度も何度も、触れるだけのキスをした。握った手を離さずに、僕は何度でもキスをした。
彼女は静かに目を瞑り、ありがとうと何度も言った。



彼女が亡くなったのは、それから5日後だった。

僕は彼女の両親に承諾を貰い、彼女の灰をほんの少しだけ、分けてもらった。
それをおばあちゃんの形見のお守りの袋に入れて、彼女と毎日通った学校にやって来た。

先生に理由を話すと、快く承諾してくれた。青木は空が好きだったからな。そう言って先生は僕に鍵を渡した。青木サチ。それが彼女の名前だ。

みんなは授業中だけど僕は一人、屋上からの景色を眺めていた。
真っ青な空はどこまでも伸びていて、心地よい南風が吹いていた。彼女に届くだろうか。

『天使に、なりたいの』彼女は最期も、こう言っていた。柔らかく微笑んで。

『そうしたらヒロのこと、ずっと見守ってる。そしてずっと祈ってる。みんなが幸せになれますようにって』

お守りの紐を解くと、赤い柄の中に白い粉が見えた。それを手のひらにさらさらと落としてゆく。彼女のことをたくさん思い出した。
一緒に花火をしたり、海に行ったり。湖を見に行ったり、人気のデートスポットに行ったりした。彼女は幸せそうだった。

でも一番彼女が幸せそうに見えたのは、最期をゆっくり待っている間だった。小川のせせらぎのように時間を感じると言っていた。
そのとき彼女はこんなふうに思い返していたのだろうか。幸せだった頃のことを。だから彼女は、あんなにも幸せそうだったのだろうか。
だとしたら、僕は今、今までで一番幸せだ。
彼女との時を、幸せを、こうしてゆっくりほどいてゆける。そして空に還すんだ。


きっと、ここに彼女はいる。確かに、ここに。そう信じて。


手のひらの中の彼女を、ゆっくりと空に還した。うまく風に乗って、きらきらと消えてゆく。

彼女は確かに僕の目の前に存在していた。僕もまた、彼女の目の前に存在していた。
二人は愛し合って、やがて幸せの中でその時を迎えた。

けして終わらない。彼女は天使になった。僕の傍にいる。ただ微笑んで。
そして空よりも大きな優しさで、この世界に在るすべての幸せを祈って、いるんだと、思う。



end.



040506