雪の日の母さんは優しかった。
「お買い物に行きましょう」と光の世界からやって来る。
手を繋いで、街に出るんだ。
家に帰れば、明るい食卓でおいしいご飯を食べさせてくれる。
雪の日の母さんは優しかった。
悪い子には冷たいスープを
暗くて冷たい場所に、いつだって僕はいる。
母さんが一日に一度パンとスープを持ってきてくれるから、つらくなんかない。
スープは冷たいけれど、さみしくなんかない。
それに、雪の日の母さんは優しい。
ドアをノックして、「入るわよ」と言う。
母さんがドアを開ければ、暗い部屋はたちまち明るくなるし、母さんが僕の手を握り返してくれれば、僕の手もあたたかくなった。
でも今日は、雲ひとつない夜空だった。
お月様は高くから世界を照らすのに、僕がいる部屋は暗いままだ。小さな窓からじゃお月様だって見えやしない。
遠くから聴こえる母さん声は、いつもの無表情な母さんの声でもなく、雪の日の声でもなくて、僕が知らないものだった。
もうひとつの声は低い男の人の声で、僕の父さんの声は思い出せなかったけど、どこか懐かしかった。
だけど僕はなにも聴いてはいけない。
遠くから声が聴こえるとそれは『盗み聞き』で、それをしてしまう僕は悪い子だから。
それは人の声だけじゃない。
食器が弾む音も、美しい音楽も、ベッドの軋みも、なにも聴いてはいけない。
聴こえてしまうのは僕が悪い子だからだ。
それに、男の人の声がいつも違うのも、僕が悪い子だからなんだ。
「―…――、お買い物に行きましょう」
優しい優しい母さんの声で目覚めた朝は、小窓が白く染まっていた。
「おいで。温かいスープがあるわ。今朝は冷えるもの」
微笑んだ母さんは言う。微笑んだ母さんは大好きだけれど、僕は美しいものをまっすぐに見れない。いつか母さんをまっすぐ見つめられたらいいな。
「……おいしい?」
向かい側に座った母さんは、頬杖をついて僕に訊ねた。
「うん、おいしい」
僕は急いで飲み干そうとした。でなければ、取り上げられてしまうかもしれない。僕の行儀が悪いから。
「そんなに急いで食べなくても大丈夫よ。時間はたっぷりあるもの」
そう言ってまた母さんは微笑む。ああ美しすぎて僕はどうしたらいい。美しいものに、汚い僕はいつか浄化されて消えてしまいそうで、ほんとうは少し、こわい。
あたたかいスープをゆっくりと飲み干して、心地よい満腹感に酔った。母さんは微笑んでいて、僕は雪が止まなければいいと思った。
「シャワーを浴びてきなさい」
「うん」
「………どうかした?」
僕の顔色を窺うように、母さんは僕の真っ黒な瞳を覗き込んだ。
「……母さんは、ご飯、食べないの?」
やっとの思いで口にすると、母さんはまた、微笑んだ。
「私はもう食べたのよ」
そして「優しい子ね」と言ってくれた。その華奢な白い手が、僕に触れることはない。
シャワーから出ると、僕の汚れてボロボロになった服を見て母さんは困ったように言った。
「まぁ、服、他にはないの?」
本当は母さんを困らせたくなかったけれど、これ以外、形を留めた服はなかった。
「どうしましょう、それじゃあ街に出られないわ」
頬に手を当てて、母さんは「今日はやめましょうか」と言わんばかりの顔をしていた。僕はいやだった。またあの冷たい部屋に戻されるのも、母さんが笑ってくれなくなるのも、雪が止むのも。
「だっ大丈夫だよ!僕は母さんと離れて歩くから……それに寒いのにも慣れているし、僕はこれで平気なんだ!」
僕は必死だった。どうしても、街に出る口実が必要だった。
「いいのよ、じゃあ、出掛けましょうか」
母さんの微笑みは、やはり女神のようだ。いや、それよりも、もしかしたら神様よりも、美しいかもしれない。
「私のマフラーを貸してあげるわ」
ふわふわな真っ赤なマフラーが、僕の首を包み込んだ。顔を埋めると、母さんのにおいがした。小さい頃の、遠い記憶の。
「少し大きいけれど、それなら何もないよりはあたたかいでしょう」
++
街に人は少なく、雪のせいかとても静かだった。
ひとつ、ふたつ。真っ白な世界に僕と母さんの足跡が沈んでゆく。母さんの手は、あたたかかった。手袋越しに、確かにその温度は伝わってきた。
「今日の夜ご飯はグラタンにしましょうか」
「うん」
「それに、服も買ってあげるわ」
「ありがと」
「そうだわ、なにか欲しいものはある?」
今日の母さんはいつもより優しかった。雪の日でも、僕の意見を求めることなんて、滅多になかった。それに、僕のために物を買ってくれたことだって、なかった。
とても嬉しくて、僕は死んでもいいと思ったんだ。
「ないの?欲しいもの」
物、と言われてもなにも思いつかなかった。
だから僕は。
「スープ……」
「スープ?」
「……か…あさんのあたたかいスープが、毎日飲みたい」
僕の要求は、叶うはずがなかった。
「いいわ」
叶うはずが――
「毎日、毎日あなたのためにあたたかいスープを作るわ」
「ほんとうに!?毎日!??あたたかいスープだよ!!??」
僕は興奮して母さんのスカートの裾を掴んだ。母さんは顔色ひとつ変えずに、「わかっているわ」と微笑んだ。
でもどうしてだろう。
僕は僕の名前が思い出せないんだ。
思い出せるのは、ふたつだけ。
暗くて冷たい部屋と、冷たいスープの味。
どうしてだろう。
母さんの微笑みも、思い出せないよ――…
「――おいで」
母さんは僕の手をひいて、森の方を指差した。
ざわめく木々は、僕を不安にさせた。母さんを見上げると、相変わらず笑顔だった。
「私はおいしいスープの材料を買ってくるから、あなたはここで待っていて」
「い…いやだ!!」
僕はきっと、調子に乗っていたんだ。僕の言葉に、母さんの体はぴくりと震えた。
言ってはいけないことを、言ってしまったと思った。
なのに――
「ごめんなさいね」
母さんは微笑んで、僕の頭をそっと撫ぜた。
「――ごめんなさいね」
母さんの鼻の頭は寒さで少し赤かった。
ふわりと薄い茶色の髪が揺れて、降り注ぐ雪の結晶がそれを霞めてゆく。
見えなくなる、母さんが。
「母さん、行ってきて」
母さんが僕を迎えにきたら、あたたかいスープをテーブルで向かい合って飲むんだ。
「僕はここで待ってるから」
だから母さん、僕をもう暗くて冷たい部屋に入れないで、一緒に眠って。朝起きたらそこにいて、僕の名前を呼んで。
僕の名前を、思い出させて。
「――すぐに」
母さんが僕を迎えにきたら、今まで言えなかったことが、言えるような気がするんだ。
「すぐに、迎えにくるわ」
悪い子の僕だけど、母さんのことは信じているから。ずっとずっと。
「迎えにくるわ」
母さんは僕を抱きしめた。ああ、母さんはこんな匂いがするんだ。僕が憶えていたのより、ずっと優しい気がするよ。
「だから…待っててね……」
何度も何度も、母さんは「ごめんね」と言った。僕は「ありがとう」と言いたかったのに、母さんは僕をぎゅっと抱きしめるから、何も言えなかった。
ただ涙が止まらなくて、母さんの胸の中で泣いた。まるで生まれたときのように。
「母さん」
「なあに」
「暗くなっちゃうよ。早く行ってきて。僕は待ってるよ。心配しないで」
「……わかったわ。行ってくるわね、待っていてね。迎えにくるからね――」
母さんを信じていた。いつも。
どんな罰も、きっと僕が罪だっただけだ。
だって暗い部屋も母さんが来れば明るくなったし、冷たい手だって母さんが握ればあたたかくなった。なったんだ。
母さんは僕の、すべてだ。
きっと母さんは迎えに来る。僕の名前を呼んで、冷たい手をあたためてくれる。そして帰ったらあたたかいスープを一緒に飲んでくれる。今日、雪は止みそうにない。きっと大丈夫。
僕は悪い子だから、寒いのにはもう慣れているから――
end.
040402
適当メモにておはなし…
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