いつかは昇る太陽のように

いつかは満ちる月のように


この傷も

いつかは癒えるのだろうか―




同じ夜




「泣いてるの」

私が訊くと、彼は肩を震わせた。

誰もいない教室の隅で、蹲っている彼を見たのはつい先程のことだった。
彼とは付き合って1ヶ月になる。
だけど私たちはお互い何も知らない。何も。

「…………」

何も言えなかった。
何を言ったらいいのかわからなかった。
ただ教室は不思議なくらい静かで、風の流れる音だけが耳鳴りのように響いた。

彼はゆっくりと息をついた。
そのことが私を許した合図のように思えて、私は床に投げ出された彼の手をとった。
その手は床と同じ温度で、怖いほどに冷たかった。


―――あたためてあげられる…?


きっと私なんかには無理だろう。
だって私の手も同じように冷たかったから。

でもこれ以外何も思いつかなくて、ただただ彼の手を握り続けた。
いつかはあたたかくなりますように、と。



++



しばらくして、彼は少しだけ私の手を握り返した。
そして、「ごめん」と言って弱々しく微笑んだ。

それが何よりも切なかった。

こんな思いをするくらいなら、拒絶された方がきっとよかった。

彼は目の端を赤くして立ち上がった。

「帰ろう」

ぽつりと呟いて彼は私に手を差し伸べた。
空は空じゃないみたいにキラキラと輝いていて、光に包まれた彼は消えてしまいそうだった。

そうだ、彼を初めて見たときも、こんな儚げな空気に吸い込まれそうになったのだ。
だから彼を知りたいと思った。
心から、彼のことが知りたいと思った。
だけど―…





彼と付き合うことになって、もう2ヶ月が経とうとしていた。
私たちはなぜか上手くやっていて、何度かデートもしたし、普通の恋人同士並のことはしていたと思う。

それでも、ふたりの間に漂う不思議なぎこちなさは、出会ったときから何一つ、変わってはいなかった。

私はきっと、この距離感を望んでいた。彼はわからないけれど。
私はこのままでいたかった。
彼に私の心を見せたくなかったのだ。
それなのに、彼の心が近くにないと、不安になったりもした。

悪いのはそう、私。


物語の終わりに足音はなく、砂のようにさらさらと小さな溝を侵してゆく。
それを知ったのは何もかもが終わってからで、彼の心はもう見えないくらい、遠くに離れてしまってからだった。


「誕生日おめでとう」

そう言って私に小さな箱を渡したのは、私の誕生日の2日前だった。
いつも通りの待ち合わせ場所に、いつもより少し遅れて来た彼は、息を切らしていた。

「誕生日、まだだけど…」
「ほら、お前の誕生日日曜だから。本当はその日に渡したかったんだけど、俺ちょっと都合悪くて」
「そーなんだ…。……ありがと、嬉しい…」

私は素直に可愛くリボンで飾られた小さな箱を受け取った。
嬉しい、ほんとうに嬉しいのに。
私はなぜか、嫉妬していた。
彼は日曜日に何があるんだろう。私の誕生日よりも優先することって何なのだろう。
見えないことへの嫉妬。そんな自分への苛立ち。そして何より、自分が彼のことを何も知らないということを、また思い知らされた。
頭がもやもやして、泣きそうになった。

「開けていい?」

頭の中では恐ろしいことを考えているのに、私はにこにこと笑って彼に訊いていた。

「……うん」

思ったより冷たい彼の答えに、考えていることがばれたのではないかと一瞬怯えたけれど、私はわくわくとした表情を作って丁寧に結ばれたリボンを解いた。

中に入っていたのは、小さな石のついた指輪だった。
幸せが込み上げて、また泣きそうになった。

私の頭の中で、ごちゃごちゃと幸せとよくわからないものが混ざり合う。


「どうしたの?」


彼がひんやりとした声で言った。

「なんでもないよ、指輪、すっごい嬉しい」
「違うじゃん、サヨ、そんなこと考えてないだろ」

どくん。
どくん。

「大したことじゃないって!ただ、私、ジュンのことなんにも知らないって思って………あ、変な意味じゃなくてね!日曜日何があるのか教えてくれないのかなーとか、そんなこと考えちゃって……」

何を言っていいのかわからなくて、気の利いた嘘すらつけずに焦る私は酷く滑稽だった。
彼の顔は冷たいままで、私はいけないことを言っているんだろうと思っていた。

「ねっねぇ!指輪はめてもいい?……あ、ねぇ、ジュン、はめて?」

こういうとき、私は早口になる。
逆に言えば、こういうときしか早口になれない。
普段は言葉を発することさえ面倒くさく思えるのだ。
それなのにこの時ばかりは、離れてゆく彼の心を取り戻そうと必死に浮かんでくる言葉を紡いでいた。

そして、強引に彼に指輪を渡そうとした。


「何も教えてくれないのは、サヨだろ…っ!」


誰もいない放課後の廊下に、初めて聞くような低い声が響いた。

最初に疑ったのは、自分の耳だった。
次に疑ったのは、彼だった。

彼がこんなことを言うはずがない、言うはずがない。私は確信していた。
しかし、今思えば、何を根拠に確信していたのかと思う。
だって私は、彼のことを何一つ知らなかったではないか。

指輪は私の手の平をするりと抜けて、冷たい廊下に落ちていった。


「いつも俺のことばっかで、サヨは自分のこと何も言わねぇじゃん」


何も言わないのは私だけ?
うそ、うそ。
だって私はジュンのこと、何も知らない。


「いつも話すのも俺ばっかだったし、俺はもう話すことないってくらい、自分のこと話したけど」


ああ、そうか。
ジュンはいつだって私を楽しませようとしてくれてた。

でもごめんね、私、何がほんとうで何が嘘だか、よくわからなかったの。


「サヨはそれでも、なんにも言わなかったじゃんか…」


ごめん。ごめんね。ごめんなさい。
謝りたくても、言葉が出てこなかった。
それどころか、何も言えなかった。

私はただ俯いて、冷たい床で鈍く光る小さな指輪を眺めていた。

サイズはどうしたのだろうと考えていた。
必死にそう考えようとしていた。

彼のことを考えてしまったら、自分の心が何を求めているのかわかってしまう気がしていた。

彼が好きでいてくれる私ではない、本当の私が、見透かされてしまう気がした。
きっとただの、独占欲の強い女だと思われるだろう。

でもここで何か言わなくては、何かが終わってしまう。そう思った。

俯いたせいで彼の顔は見えなかったけれど、たぶん私を見下ろして、答えを求めていたのだろう。
私はなんの答えを求められているかさえ、わかっていなかったけれど。

長い沈黙を終わらせるのは、私が発した言葉ではなく、彼の足音だった。

私が顔を上げる頃には、彼は手を伸ばしても届かないところにいた。
でも走れば間に合うし、何かを口にすれば、聴こえる距離だった。


『行かないで』


叫ぼうとしても、なんの音にもならない言葉。

「…………っ…」

差し伸ばした左手が、行き場を失くして虚しく宙に舞った。
その左手に収まるはずだった指輪は、静かに廊下に佇んでいた。

だんだん小さくなる後姿は、離れてゆく彼の心ときっと同じだった。
気付けば外はもう真っ暗で、校舎には私たち以外、誰も生徒は残っていなかった。


気を緩めたら泣きそうで、妙に胸が痛んだのは、新しく心に刻まれた傷のせいだったのだと、思う。
彼の胸にも同じように、この傷が刻まれたのだろう、と空っぽになった頭の片隅で思った。

ふたりの最初で最後のおそろいは、胸に刻まれた、深く深い傷。
この日確かに、私と彼の物語は終わった。






その日の夜、ずっとマナーモードにしていた携帯を確認すると、彼からのメールが着ていた。
そのメールは、今日私に会う前のものだった。
『誕生日おめでとう』という題名のそのメールを読んで、私はその夜、自然に溢れてくる涙を止めることができなかった。



サヨへ

話したいことと渡したい物があるから
今日放課後ちょっと遅くなるけど、待ってて。
話したいことっていうのは
別に別れ話とかじゃないから安心して(笑)
まー期待して待ってて。
あと今日は俺いつも以上に優しいから
帰りおごる。
あとお前がさみしーなら
今日は特別に一晩中そばにいる券プレゼント。
襲わないでよ!(笑)

じゃ放課後。

ジュン



どうして、『行かないで』って言わなかったんだろう。
どうして、走って追いかけなかったんだろう。

こんなに優しい彼を、どうしてあんなふうに傷つけたんだろう。


いつだって私は私を知られたくなかっただけだった。
それなのに頑なに彼の心を求めた。
それでもいつだって彼は笑って私に語りかけてくれていて、私は気付きもせずにただ自分を守っていただけだったのだ。

ああ愚かな私。

そして今ごろ気付くなんて。
こんなにも彼を愛していたと。


―――まだ、間に合う…?



私は泣きはらした目をごしごし擦って、パジャマの上から適当にコートを羽織って家を出た。
直接、直接会って確かめなければならない気がした。
早く彼に伝えなければ。さっきはごめんね。私わかったの。あなたを愛してる。誰よりも一番好き。もうどこへも行かないで。あと、指輪ありがとう。大事にするから。
いくらでも言葉は浮かんだ。あとは大きな声で彼に言うのだ。そうすれば、きっとわかってくれる。

色のない道を走り抜けて、ただひたすら彼を想っていた。



++



彼の家の周りは静かな住宅街で、明かりはなく、しんとしていた。
特に彼の家は、どこかがらんとしていた。
確か、2階の出窓の部屋が彼の部屋だった。

ごくんと唾をのみ、インターホンを鳴らす。
音が鳴らなくて、もう一度押した。
やはり、音は鳴らない。

壊れているのだろうと思い、彼の携帯に電話をすることにした。
さっきから嫌な予感がする。早く彼に会いたいのに。

受話器に全神経を集中させて、耳を澄ました。




―――――『…は、電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため、かかりません…』





嘘、嘘。
暗闇の中でちかちかと何かが光る。
手を伸ばしたって届かなくて、私はもがいた。だけど光はまるで私なんか見えないみたいに、遠のいてゆく。
あれは、なんだろう。何があんなに煌めいているの。

今となっては意味のない疑問を、あの時の私は必死に問い続けていた。

鳴らないインターホン。静か過ぎる彼の家。寝静まった街。繋がらない携帯。そして―…

「……車…ない…?」


彼の笑顔が脳裏を過る。そうだ。初めてここに来たとき、彼は言っていた。

『俺の父ちゃんさ、車命の人なんだよね。いっつも土曜日は一日中磨いてて…』

光はだんだん小さくなっていって、昼間の彼の姿とよく似ていた。
私の中での、一番恐ろしい真実が、見えた気がした。


気付いたときには、彼の隣の家のインターホンを鳴らし続けていた。
何度も何度も、力の限りボタンを押した。

しばらく経ってから、家の人らしい中年の女性がパジャマのまま欠伸をしながらドアを開けた。
彼女は迷惑そうな顔で、「なんですか」と言った。

「今何時だと思ってるの、大体何回もインターホンを鳴らさないでください…はっきり言って迷惑ですよ」
「………て……」
「それにあなたどこの方?受話器で聞いても何も返事しないし……ちょっと、ほんとに何の用な…」
「ジュンは……隣の家の人は…っ……どうしたんですか……っ?」
「ちょっと、だからあなたどこの人なのか聞いて…」
「教えて…!お願い……っ!!」

辛うじて誰かが自分に何かを言っているのだとわかった。
でもそれ以外何一つわからなくて、涙がぼろぼろと流れていた。

「ちょっと、なんなの急に…。杉田さんのお家なら今日引っ越したわよ。お知り合いの方?」
「…うそ……」
「嘘じゃないわよ…もう荷物は引越し先の方に運んでおいたらしいけど、今日まではジュンくんがこっちの学校に――」
「……うそ…っ…」
「それに…本当にあなたどうしたの?何かあったの?こんな時間に。お家の人に連絡は…」
「どこに…どこに行ったんですか!?」
「なんでも、外国へ行ったみたいですよ。旦那さんのお仕事のご都合で」
「…外国…?」
「えぇ。……あなた本当に大丈夫?」

わからなかった。何も。
ただ、どこかでもう2度と会えないということははっきりとわかっていた。


もう間に合わない。
もう何も伝えられない。



++



よろよろと自分の家に向かう途中、ふと足を止めた。

太陽が昇る。
ああ、もう夜は明けるんだ。
彼が遠いところに行ってしまったら、もう同じ夜は過ごせない。
最後の夜は終わり、私と彼の物語は、本当に終わってしまった。

心に同じ傷を残して。


太陽が眩しかった。
この光に包まれて、消えてしまいたかった。

そうしたら、私が見つけた彼の儚さに、少しは近づけるだろうか。


暗闇の中でちかちかと光っていた光はやがて消え、私の心も暗闇に消えた気がした。
昇ってゆく太陽を眺めながら、きっとあの小さな光は彼がくれた指輪だったんだろうと思った。



end.



この傷が癒えることはないけれど、彼のこの傷はいつか癒えたらいい

鬱なお話でごめんなさ…。
わたしとしては長いです。めちゃくちゃ。
本当はもと長くするつもりだったのですが、書いてみて
ここで終わらせるのがいいかなぁ、と思ったので。
+αとして後日談みたいな感じで、書かなかった部分を
アップしたいと思います。自分への宿題です。えへ
それを読めばもっと暗くなりつつ、希望も見えたらと思うので、
アップしたら是非読んでやってくださ!
感想とか貰えたら嬉しいな…(ええ)