彼の視線が、痛い
それはまるで刺すようで
体中が、痛い
視線
『絵のモデル?』
今まで一度も喋ったことのない坂下くんに、突然絵のモデルを頼まれたのは一週間前だった。
『ああ。嫌なら別にいいんだけど』
『でもどうしてあたしなの?』
『松田さん、綺麗だから。ずっと描きたいと思ってたんだ』
坂下くんとは同じクラスで、いつも彼は一人だった。寡黙な人。近づきにくい。あたしは彼にそんなイメージしか持っていなくて、そんな彼があたしを『綺麗』なんて言うことが信じられなかった。
でも彼はどこまでも真剣な瞳をしていて、長い前髪の隙間からぎらぎら光る眼球は、あたしの姿をしっかり捕らえていた。
怖い。そう思った。彼は何を考えているのかわからない。関わったら、いけない気がした。
『嫌ないいよ、別に』
彼は無表情なまま呟くように言う。篭った声をしていて、私はぞくっとした。怖い。とにかく、怖い。
答えられずにいると、彼はふぅ、と息をついた。
『……まぁいいや。もしよかったら、一週間後この時間に美術室に来て』
言い終わると彼はすぐに踵を返し、足早にどこかに消えた。
あたしはしばらく立ち尽くして、ふと時計を見上げると、4時を回ったところだった。外はまだ明るくて、あたしはぼんやりと校庭の運動部を眺めた。
そして今、時計の針は4時10分を指している。ここは美術室。あたしは椅子に座っていて、目の前にいるのは、“彼”。
友達にモデルを頼まれたことを相談したら、『なにそれぇ!ありえなーい!』『絶対なんかされるって!やめなよぉ』と、想像通りの言葉が返ってきた。
だけどあたしは今こうして、坂下くんに描かれている。大きめのスケッチブックに。
坂下くんのあたしは、どうな顔をしているんだろう。
あたしがここに来た理由として、大部分は興味だ。残りの少しは、坂下くんの瞳が、あまりにぎらぎらしていたから。
それは肉食獣のそれとは違って、多分、復讐を心に誓ったような、そんな感じ。
今は必死に耐えて、いつか殺してやる、そんな印象をその瞳に受けた。
そう、坂下くんは何かに耐えているようだった。だけど今の彼は、違う。瞳は相変わらずだけど、オーラが違う。
耐えて耐えて溜めてきたものを、絵に吐き出しているようだった。あたしに、吐き出しているようだった。
「綺麗」
ぽつりと低く篭った声が、漏れた。
ちらりと彼を窺うと、素早く右手を動かしたままだった。今のは一体何だったんだろう。
彼の黒く重たい髪の隙間から、その瞳はあたしを捕らえて離さなかった。必死に自我を保っていないと、彼に呑み込まれてしまいそうだった。
でも不思議とあたしは、ここに来たことを後悔していない。校庭で、部活の掛け声がしてるけど、まるでここは別世界だ。
あたしと坂下くん、ふたりきりの。
「大丈夫?」
ぼそっと彼は呟いた。それがあたしに向けられた言葉だと気づくのに、何秒かかかった。
「え、あ…あぁ……少し疲れたかも」
「じゃあいいよ、1回休憩にしよう」
「ね、まだ見ちゃだめだよね、絵」
「…ん……あぁ」
はっきりしない返事をした後、彼はバッグをごそごそと探って、あたしにミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。無言で。
「え?」
「そんな顔しないでよ。大丈夫だよ。まだ口付けてないから。あげるよ、これ。今日のお礼」
どんな顔をしてしまったんだろう、と少し申し訳ない気持ちになった。
素直にペットボトルを受け取って、蓋を開けて一口喉に注ぐと、内臓に染み渡ってゆくのがわかった。水は生温かい。今気付いたけど、この美術室は今かなり蒸し暑い。もう6月なんだから、当たり前のことだった。だけど何だかまるで異世界にいるようで、この水を飲んでやっと、元の世界に引き戻された気がした。もしかしたら私はとっくに、坂下くんに呑み込まれていたのかもしれない。
「ありがとう」
「…どういたしまして」
どうしてこんなにも、彼はぼそぼそと喋るのだろう。
彼は、一瞬、あたしのミネラルウォーターをちらりと見遣って、こめかみを拭った。
「もしかして、坂下くん、飲み物ないの?」
本当は自分のために水を買っておいたんだろう。彼は返事をしなかった。
「……飲む?」
「いいよ」
「でも、喉渇くんじゃない?」
「いいよ。ほんとに喉渇いたら、水道の水飲んでくるから」
彼はあたしを見ないで、答える。
「飲んでいいよ。だってこれ、元は坂下君のだし」
あたしは坂下くんの手にペットボトルを押し付けた。一瞬肌と肌が重なって、二人ともやけに温かいと思った。
彼は一度あたしを見つめてから、ペットボトルの蓋を開けた。薄い唇から、坂下くんの体に水が流れてゆく。ごくり。あたしは息を呑んだ。ごくごく。坂下くんの喉仏が、上下する。
しばらくぼうっと彼のことを眺めていたけど、急に恥ずかしくなって美術室の窓を開けに向かった。
でもこの蒸し暑い空気を吹き飛ばすほどの風は入ってこなくて、あたしは溜息をついた。
「ここは隣の校舎に遮られて風入ってこないんだ」
背中にぼそぼそと言葉が投げかけられ、あたしの肩はびくんと震えた。
「7月に入ると扇風機が来るんだけど」
++
もうそろそろ、5時になる。電気を点けていない美術室はオレンジ色に染まっている。
あたしはさっきと同じポーズで、坂下くんの目の前に座り続けている。
左手側の机には、飲みかけのミネラルウォーター。さっきの坂下くんの唇が頭に浮かんだ。
ここに来て1時間、あたしの何かが明らかに変わっていた。
あたしを見ないで。そんなに見ないで。でも見て? もっと見て。もっともっと、見て欲しい。その物欲しそうな瞳であたしを捕らえてよ。あたしは彼に侵されていく。あたしはいつか彼になってしまう気がした。
刺すようにあたしを撫ぜる視線。何かに耐えた瞳。素早く右手は踊って、こめかみを伝う汗が光った。
彼はスケッチブックとあたしを見比べては、描き足していく作業に入った。
ぽたりと一粒、汗が落ちて、彼の白いワイシャツに染みて消えた。
オレンジ色の空が暗くなってゆく瞬間が、あたしは嫌いだった。なぜか悲しくなるから。美術室はどんどん暗くなって、元々真っ黒な坂下くんはもっと黒くなって、暗闇に消えていくような気がした。そしたらあたしも、道連れにされるのかな。
それでもいいと、一瞬思ってしまった。
最後のオレンジの光がミネラルウォーターに反射して、彼の横顔を照らす。
彼は泣いているようだった。笑っているようだった。怒っているようだった。寂しそうだった。絶望しているようだった。
あたしは?
「できた」
ぼそりと篭った声が聞こえて、あたしは目の前の人と目を合わせた。描いているときの瞳とは、何もかもが違う、そこにいる“彼”は抜け殻のようだった。
「見てもいい?」
あたしが訊くと、彼は無言で立ち上がった。一歩。また一歩。あたしに歩み寄った。
そして、椅子に座るあたしを至近距離で見下ろして、何かを呟いた。あたしにはそれが聞き取れなくて、「何?」と言った。
「………んだ」
「え?」
「…みたい」
「なに?」
「俺が描いた松田さん、生きてないみたいなんだ」
あたしは立ち上がった。もう美術室は真っ暗で、さっきまで蒸し暑かったのにどこか空気はひんやりしていた。だけどあたしは冷や汗をかいていた。
死んでしまうんじゃないかと思った。彼に殺されると思った。
早く絵を見なきゃ、そう思った。
彼が右手で抱えたスケッチブックを、あたしは一刻も早く開かなければならなかった。右手を伸ばしてスケッチブックを奪おうとしたら、あたしはいつの間にか彼の下にいた。
あたしは机に押し倒されていた。上半身だけ、机にぴたりと張り付いて、腰が痛い。彼はあたしの顔を間近で眺めた。鼻と鼻がくっつきそうな距離だった。
「生きてるのに」
ぼそりと彼は漏らし、薄い唇は半開きのままだった。あたしの額に彼の前髪が被さって、くすぐったい。
彼は粉ミルクのようなにおいがした。柔らかそうなにおい。でもその瞳はどこまでも真っ黒で、呑み込まれそうだった。
「どうしてだろう」
ぼそぼそと呟く。とても囁くとは言えない言い方で。
あたしはもう何も言えなかった。あたしの喉はもう呑み込まれてしまった。
それでもなお彼はあたしを見つめた。舐めるような視線で。顔と顔がくっつきそうな距離で。
「綺麗」
彼の右手から、スケッチブックが落ちる音がした。ぱたん。その瞬間、あたしは彼に殺された。あたしはもう生きてはいないのだ。彼の描いたあたしのように。
ああ、喉が渇いた。あたしはゆっくりと手を伸ばし、ミネラルウォーターを掴んだ。彼の視線を、体中に浴びながら。
彼は両腕で体を支えて、あたしに覆いかぶさるようにあたしを眺めていた。
綺麗、綺麗。そう何度も呟きながら。
あたしにもうペットボトルを持ち上げる力は残っていなくて、ゆるゆると掴んだ手を解いた。すると、ペットボトルも、机から落ちていった。あたしはもう、いない。
綺麗、綺麗。綺麗。
あたしは思った。彼はきっとあたしを愛してるんだ。
美術室はもう美術室でなく、もはやただの暗闇でしかなかった。
end.
040504
ラストがだめでした。
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