刹那の記憶の行方



「不思議だわ」

マナはその赤毛を細い指に巻きながら呟いた。
なにが、と聞く前にその答えを続ける。

「春が終わっても、また春が来るなんて」
「春の街?」
「そう」

『春の街』というのは呼び名で、シンは本当の街の名を知らない。確かとても長くややこしい名前だった。
でも多分マナは知っているのだろう。いつだったろう、そこに別荘があると言っていた。

「もう一度、行きたかったな・・・」

もう行けない、と彼女は知っている。あの美しい街も、今じゃ敵国の所有地だ。

「別荘に?」

尋ねると、マナは苦笑しながら「覚えていたの」と言った。

「ああ」

そう答えると彼女は静かに目を瞑り、僕に寄り添った。ふわりとやわらかな香水の匂いが舞った。

「きれいなところだったわ。一度だけね、パパとママと3人で行ったのよ」

別荘のことだろう。僕はなにも言わずに耳を傾けた。

「使用人もいなくて、ママが料理を作ってくれた。パパはお仕事がお休みで、ずっとずっと私と遊んでくれたの」


3日間だけだった
最後の日、わたしは帰りたくなくて、駄々をこねて、二人を困らせてしまった
パパとママがちょっと待ってて、とわたしを残して部屋を出て行った
とても不安だったけれど、わたしは信じて待っていたの
そのあとに、おいでと言われてついていくと、ギターを持ったパパがいたのよ
歌をうたいましょう、とママは微笑んだわ
わたしは驚いて、でもとても嬉しくて、桜が舞って、色とりどりの花が咲き誇るお庭の真ん中の噴水の前に立って、大きな声でうたったの
ママは手拍子をして、パパはギターを弾いたのよ
とてもとても楽しかったの
このときが永遠になればいいと心の底から願った
だけどね、わたしの鼻の頭に一粒の冷たい水が落ちてきたの


「・・・雨が降ってきたのよ」


夢中で僕に語りかけるマナはまるで昔の彼女に戻ったみたいで、つい見惚れていた。
だけど、不意にその声は冷たく搾られて、彼女のおしゃべりは終わった。

「そのときほど雨を憎んだことなどなかった」

無表情で紡がれた彼女の言葉には、暗い影が潜んでいるように聴こえた。

「泣きたくて、でも泣けなかった。雨が降っていたから泣いてもばれなかったかもしれないけれど、でも」
「マナ」
「泣いたらパパとママがかなしむもの」
「マナ、もういいよ」
「私がわがままで悪い子だったから、きっと」
「言わないで、マナ。ごめん・・・」

憎しみを丸出しにして、マナはシンを睨みつけた。

「どうして・・・っ!どうしてあなたがあやまるのよ!!」

狂気を曝け出し、彼女は叫んだ。
悪くないのにどうしてシンがあやまるの。どうしていつも自分のせいにするの。わたしは同情なんかいらない。

「どうしてわたしがあなたに同情されなきゃいけないの!!」
「・・・マナ」
「いつだっていちばんかなしいのはシンなのに。それなのに私を守ろうとして!!」
「・・・っ」
「いちばん戦いたくないのもっ!!シンじゃない!!」


ああほら。また傷つけてしまった。


彼は俯き、拳を握った。
彼女は後悔に涙し、痛みに部屋を飛び出した。


繰り返される春は確かに永遠だった。
艶めく緑に鳥はさえずり、花は香って人々は踊った。
でももう春さえ壊されて、散りゆく桜の花びらは、憎しみと哀しみを映していた。
降り止まぬ雨に、人々は春を乞い続ける。


でも。
あの街に、もう二度と春はこない。


end.