とめどない憎悪はどこへ



 ガタン、と物音がして、無機質な硬い踵の音が近づいてくる。するときまって私の胸は高鳴った。懲りずに毎日。その音が鳴り止み、一呼吸おいてから、重いドアが開く。

「おかえりなさい」

 私はお行儀よくシンを出迎えた。これが朝、ケンカをしたままのときだったりすると、声が低くなったり小さくなったりするのだけれど。でも今まで、言わないことは一度もなかった。

「ただいま」

 彼はいつも少し無愛想に返事をする。ずいぶん前のことだけれど、彼に『おかえり』と言ったのは私が初めてだと聞いたことがあった。彼には家族がいないらしいから、それが当たり前のことかもしれないけれど、わたしは何も言葉が思い浮かべられずに黙り込んでしまった。彼の痛みに触れてしまって、胸の奥がツンとしたのだ。気付いた彼は優しく、『だからマナのおかえりはすごく嬉しくて恥ずかしいんだ』と付け足してくれたのだった。


「ねぇ、その袋、なあに?」

 彼は左手に少し大きめの紙袋を提げていた。珍しいことだったので、気になって声をかけた。しかし彼は「ああ、仕事を任されちゃって」と私の期待をよそに素っ気なく返事をしたきりだった。



 その夜、二人で食事を済ませたあと、二人でベッドに寄りかかってそれぞれ時を過ごしていた。私は三日前から読み始めた恋愛小説を読み進めていて、シンはなにやら資料に目を落としている。

 小説の中では、私よりずっと大人の女が一途に男を想って涙を流していた。人間は愚かな生き物だ。死ぬまでこのくだらない恋だとか愛だとかに翻弄されて、泣き、笑い、時には言葉にできない感情に支配されて、苦しみもがくのだから。そしてそれを幸せと呼んだりもする。私にはよくわからない。こうした恋愛にひどく憧れた時期もあったけれど、最近はもうわからないのだ。恋をしたいとも、思わない。誰かに依存し、その相手を失ったら、今度こそ私は壊れるだろう。

 きっと、シンを失ったら――…

 我に返ってはっとした。なぜこんなときにシンのことを考えるのだろう。今隣にいるからだろうか。ほんとうにそれだけだろうか。このことは深く考えてはいけなかった。答えを見つけてしまったら、きっと心の中の闇が広がって、いつか食べられてしまう。見えない何かを認めてしまったら、いけない。私が私でなくなるような気がして、こわいのだ。
 私は改めて小説のページに目をやった。しかしまったく内容が頭に入っていないことに気がついて、前のページに戻った。そこでは女が泣いている。なんとなく、泣きたいのは私のほうだ、と思った。


「こわい顔して本読むんだね」

 声につられて顔をあげると、シンは微笑っていた。

「わ、やだ、いつから見てたの」
「ずっと前から」
「やめてよっ」

 頬を膨らませると、彼は左の眉を下げて微笑んだ。

「ねぇ」
「なによ」
「いいもの見せてあげるよ」

 彼は立ち上がり、部屋の隅にあった先程の少し大きな紙袋を漁り始めた。その様子を静かに見守る。

「目を瞑って」

 言われたままに瞼を閉じた。ガサガサという物音を聴きながら、シンがこういうことをするのは初めてだと思った。鼓動が速くなったことに気付いた自分はそれを必死に抑えようとした。なぜだろう。脳の奥に、さっきの小説の女が現われて、言った。『いいかげん認めたらどう』


「もういいよ」

 小さい頃の遊びでこんな合図がなかっただろうか、と考えながら目を開けた。するとそこは暗闇で、テーブルの上に青と赤のキャンドルが光っていた。その横に立って、シンは私を眺めていた。私は青と赤の炎と静かな闇に包まれたシンを交互に見つめた。状況をうまく飲み込めずに、子供のように何度も見つめた。そのうち、テーブルの木目を見つめるようになった。炎の薄明かりに照らされて、妙に細かく線が流れている。

『何を認めたらいいの?』
『わかっているでしょう』
『わからないわ』
『自分で考えてみるといいわ』
『考えてもわからないわ』
『嘘。あなたは逃げてるのよ』

 ゆらゆらと光る木目を睨みつけながら、私は頭の中で小説の女と言葉を交わしていた。そんな私をシンはおそらく無表情で眺めていた。今、わたしには彼の考えていることが何ひとつわからない。当たり前かもしれない。自分の考えていることすら、よくわからないのだから。
 逃げている? 私が?


「マナ」


 低い彼の声がした。その声色にこの部屋を追い出されるのではないかと一瞬震えた。ここからでは、彼の表情は読み取れない。静か過ぎるこの空間で、キャンドルが酸素を燃やす音だけがぼうぼうと響いていた。


「おいで」


 言われて戸惑った。私が動けずにいると、彼は強引に私の腕を掴み、引き寄せた。そして、痛いほどに抱き締めた。

「ねぇ、ちょっ…シンっ」
「………」

 息を吸うと、シンの匂いと共にバニラの香りがした。このとき初めて、この青と赤がアロマキャンドルであったことに気付いた。ひとつはバニラだが、もうひとつはなんだろう。フルーツのような爽やかな香りだった。なんて場違いな香りだろう、と頭の片隅で思った。

 ゆるゆると、彼の顔に似合わない大きな背中に腕をまわした。肩甲骨を這うように、撫ぜてゆく。横目では青と赤の炎が混ざり合った光を眺め、彼の鎖骨あたりで大きく息を吸い込む。甘い香りが心地よい。

 いつのまにか脳裏にいたはずの小説の女は消えていた。それは、私がいまここにある現実に夢中になり始めているからなのだろうか。シンは私の髪に埋めていた顔をあげ、初めて見る表情で私の顔を見つめた。息がかかる距離だった。彼はいま、なにを、考えているのだろうか。これほど一緒に過ごしているのに、こんなに近くにいるのに、なにひとつ、なにひとつわからない。私は不思議な悔しさと、よくわからないとろとろとした感情に支配されていた。キャンドルの炎だけで照らされた彼の顔は美しかった。長い睫毛が緩やかな曲線を描いて、影を落としている。ゆっくりと、さらに距離は縮まり、私達はキスをした。甘い甘いキスだった。とろとろとした感情が堰を切ったように溢れ出した。私の中に浸透してゆく。そして絡まる舌を伝って、彼の中へと流れてゆく。



 ひとつに、なれたら、いいのに。



 甘い香りに浸され、甘い味に侵され、私はまた泣きたくなった。とろとろとした名前すらわからない感情に支配されているこの胸が押し潰されそうだ。

『あなたは逃げてるのよ』

 小説の女の言葉を反芻した。今まさに、私は流れ出して止まらないとろとろとした感情から必死に逃げ惑っているのだった。人間は愚かだ。そしてもしかしたら、私はいちばん愚かだ。

 長い長いキスだった。うっすらと目を開けると、シンと目が合った。どうしてこの人はこんな真面目腐った顔でこんなことをしているのだろう。私は固く瞼を閉じた。きっとシンは、私を眺め続けるのだろう。



 いっしょに、とけてしまえたら、いいのに。



 幼い私は愚かな祈りを捧げていた。もう、逃げられないかもしれない。でも、まだ、認めるわけにはいかない。認めてしまったら、彼への依存を受け入れることになってしまう。依存を受け入れれば、彼を失うことが、もっともっともっともっと恐ろしくなるだろう。すると、彼の帰りを待つ時間が今よりさらに長くなるだろう。

 私には耐えられない。
 私はそんなに強くはない。


 不安と恐怖に震える身体を精一杯押し付けて、私は、この瞬間だけは、この愚かな心ごと、静寂と闇と彼に溶けてしまえばいいと、想った。

 この瞬間だけは。
 その言葉を盾に、自分はまた逃げようとしているのではないかとも考えそうになったが、もうどうでもよかった。

 ――とろとろとした感情に名前があったとしても、私はその名を知らないし、知りたくもない。

 ――だけれど彼の用意したこの夢のようなひとときに、酔いしれてみたいの。



 キャンドルの炎のように脆弱なふたりは、溶けるまでやめようとはしなかった。
 バニラより甘いキスを。



end.



080322