人を愛することはとても幸せよ
ママは言った
わたしはきっとそうなんだろうと思った
ママが言ったから
でも今になって思う
愛してもその先に待っているのは絶望だ
そしていつか消えるのは
愛した人も、わたしも同じ
不変なんてないし
永遠すらないのだと
わたしは知ってしまった
永遠の犠牲さえ
「ねぇシン」
「なに」
「もし私が死んだらどうする?」
一種の罰だった。私が『死』を口にするのは、シンにとっての。
シンは何かを言いかけて、俯いた。
「どうするの?」
もう一度訊ねると、シンはやはりぎこちなく微笑って、言った。
「どうして?」
「どうしてって……なんとなくよ」
「きみがそんなこと言うと思わなかった」
「どうして?」
どうして、とさっきから私達は問うばかりだ。
そう、私達は何もわからない。なにひとつ、わからない。お互いのことも、ここにいる意味も、どこに向かっているのかも、いつ、終わるのかも。
ただ漠然と想っていた。いつか私達が消える日は来るのだろう、と。
でもその先は何一つ思い浮かべられなかった。
こわくて、それがこわくて、なにひとつ。
「やめよう」
「なにを?」
「……こんな話をするのは――」
シンはそれでも微笑んだ。それがあまりにも痛々しくて、私は瞼を落とした。
美しい花が咲き誇っていた。私はフリルのワンピースを着ていて、ふと私の名前を呼ぶ声がした。懐かしい声。――懐かしい名前。
『マナ!』
これは夢なのだろう。きっと、ぜったい、そうだ。だから私は泣くのをやめた。夢の中で泣いたって、シンは気付いてくれない。でも、どうしてシンなのだろう。私が名前を呼ぶのは。
『なぁに、ママ』
花園の奥の、白い大きな家には、いつもママがいた。ママは私の名前を呼ぶ。何度でも、呼んでくれる。ふわりと私と同じ赤毛が舞うのがとてもきれいで、私はママの髪をよく梳かした。
『ケーキが焼けたわよ』
大きな声で、出窓から身を乗り出してママはいつも私に声をかけた。
いくら楽しく遊んでいても、私はそれを中断してママの元に向かった。当たり前の毎日。
何も変わらない毎日に私は退屈を感じることはなかった。それがどれほど幸せだったかに気付いたのは、皮肉にもシンと暮らし始めてからだけれど。
不変、と聞いて人は何を想うのだろう。
不変なんてないと私は知った。不変なんてないのだ。永遠なんて、なかったから。
でもあの頃の私はそんなことも知らずに、ただ目の前の毎日を信じていた。
信じていたというか、そう、やっぱり当たり前のことだったから、それがすべてだった。
『ねぇママ』
『なぁに?マナ』
『ママはどうしてこんなにおいしいケーキを作れるの?』
『ふふ、それはね、マナやパパが、おいしいって言って食べてくれるからよ』
『そうなの!?』
『そうよ。おいしいって言ってくれたら、次もおいしいものを作らなきゃって、やる気が湧くわ』
そしてママは、『いつかマナにもわかるわ』と言った。
いつか。いつかが来るのならば、それは不変ではないものを意味している。いつか、なんて不確かなもの、大嫌いだ。
確かであっても、嫌い。何かが変わるのは、いやよ。もうたくさんなの。
ママのケーキが食べられなくなることだって、私はないと思ってた。
だけどもう、いくら願っても、ママのケーキを食べることはできない。ママは死んでしまった。
『ねぇママ』
『なぁに?』
『ママはいつかいなくなるの…?』
『あら、どうして?』
『私ね、ずっと思ってたの。ママもパパもいつまでもそばにいてくれる、って。いつまでもこのままここにいるんだって』
『……マナ?』
『不変を信じていたわ。疑いもしなかった。だけど馬鹿な考えね。そんなはず、ないのに。だって二人は、いつか、消えて…しまうもの』
『……マナ』
ママは泣きそうな顔をしていた。それなのに私は続けた。
『私はひとりになってそのことにやっと気付くの。これからそう遠くないことよ、ママ。パパとママはいなくなってしまうの。パパとママだけじゃないわ。みんないなくなってしまうの。私は知ってる。だってほんとうのことだもの』
夢の中で私はママを責めた。こんな苦しみを味わうのも、すべて、すべて、ママ達が死んでしまったから。どこかでそう思っていた。
パパとママの仇を討ちたかったのに、心の奥底では、ほんの少しだとしてもそう思っていたのだ。私はなんてやつなんだろう。
『マナ』
ママは私の唇に付いたクリームを指で拭って、私の頭をふわりと抱きしめた。ママのにおいがした。優しくて、心地よくて、くすぐるような、いいにおい。
『泣いてもいいのよ』
これは夢で、すべて私の想像で、私に都合よくできているものだってことくらい、わかっていた。
だけど信じていたかった。これが現実で、ほんとうは不変だった。ママはここにいて、パパはもうすぐお仕事から帰ってくるんだって。
『わたしはあなたのママだもの。だから言いたいことを言って、泣いてもいいのは当たり前だわ』
ママはそう、いつもこうして私が駄々をこねたら懲りずに抱きしめてくれた。
それで私は反省した。こんなに優しいママを、傷つけてはだめだと思って。
それでも結局私はわがままだった。あの日も、私が無理を言ってひとりで家を飛び出したりしなければ、ママとパパと一緒に、殺されていたかもしれない。そうなっていたなら、どんなに幸せだっただろう。
『ママ……』
私はママの胸に縋りついて泣いた。思いきり。これは私の願望だって、わかってる。
目が醒めてしまえばシンの苦しげな微笑に胸を痛めるのよ。わかってる。
だけど私はそれでも戻りたかった。不変を信じていたあの頃に。
何も知らずにいても、幸せならばそれでよかった。
ママとパパが愛していてくれれば、それだけでよかった。私は幸せだった。
『マナをね、愛しているわ。たとえばもしも、ママがいなくなったとしても、マナは憶えていてくれるでしょう』
『ママ…』
『だから、わたしは生きているわ。もちろん、パパも。あなたが憶えていてくれれば、わたしたちはずっとあなたの傍にいられる』
ママがもしも、不変だと言ったなら、私は信じていただろう。
でもね、ママ。
私はもうこの世界の絶望を知ってしまった。
だからね、ママ。
もうママの言うことを素直に信じるなんてできないの。
ママは死んだ。パパも死んだ。殺された。みんな。
それだけが真実。あと、シンがいることも。
だからいくら私がママを憶えていても、もう意味なんてない。
ああもしかしたら、人は死んだら不変になるのかもしれないわ。
ママとパパがが死んだこと。それは永遠だ。そして不変。
何も生まれないこと、何も変わらないこと、それが不変であるなら、人は死ねば不変になるのだろうか。
ならば私はどう足掻いても不変には、なれないのね。
シンの微笑みに胸を痛めながら、必死にシンの帰りを待って、シンの名前を叫び続けては、シンの存在に縋りつくのね。
そしていつか――シンを愛してしまうのだろうか。
そしていつか、シンも死んでしまうのだろうか。
そうなったら、私も死ぬのだろうか。
「―――ン、シン」
気が付くと、私は涙を流していた。生温い感覚は、まるで血を浴びているようで、大嫌いだ。
「マナ、大丈夫?うなされてた」
「シン」
「なあに?」
「いなくならないで」
こんなことを言っても無駄だ。
夢の中でママは静かに消えていった。私を抱きかかえながら、何も言わずに消えていった。
「どうして?」
もうなんの理由もなくなればいい。そうしたら、どうして、と一々訊かずに済む。そうなったら、いくらかシンと心を分かち合えるのだろうか。
「………なんとなく」
「こわい夢でも見た?」
「こわくなかったわ」
「そう」
なんの夢だったの、とか、誰が出てきたの、とか、シンは何も訊かなかった。
私の痛みに触れないように。そして、自分の痛みにも。
ただ微笑みながら、私の涙を拭った。
私は、ママがクリームを拭った指先を思い出した。あのとき、ママもこうして微笑っていたのだろうか。
ママ、憶えているわ、ずっと。
もしかしたら、私がママやパパのことを憶えていることだけは不変だと、言いたかったのかもしれない。
きっと、そうね。
傍にいて、くれるのね。
「マナ」
「……ん」
「傍に、いるから――」
「え…」
「僕だけは、きみのそばに、いるから」
涙は更に勢いを増した。
こうしてシンがいつも私の望む言葉を与えてくれるのは、不変ではない。
そして真実でもない。これは彼にとっての精一杯の、優しい嘘だ。
だけどこんなにも涙が止まらないのは、きっと。
明日もこうして、シンが私の望む言葉を優しく紡いでくれることを、期待しているからなのかもしれない。
end.
040515
不変であることはきっと、私の望むすべて。
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