__Walk_in_the_moonshine,_and_drink_like_a_jellyfish.__

[04.12.19] 

〜海月の放流〜 072

あるまとまった分量の文章や手紙を書く。
手書きであれコンピュータを介したものであれ。
どんなに急いで書いたものであっても
それが最終的にはヒトに見せる見られるものであるならば
手を離れる前に最低でも3度は読み直す。

さらに。即答即決のスピードよりも、
きちんと気持ちを込めたい、
読み返しに耐えられる文章の体力を込めたい、
のであれば。
何度でも読み直し読み返しあるいは
一晩寝かせてみるくらいの慎重さ丁寧さを以って文面に当たる。

これは受け取り手に対する礼儀である
と同時に自分に対する忠実さでもある。
・・・と僕は勝手に思ってる。
一般論ではなくこれが僕の在り方。

もちろんただ読み返してるだけではなく、
文章の推敲や誤字脱字のチェックを行なうわけだが。
僕はしゃべることに関しては寡黙と言い張ってもいいくらいなクセに(笑)
文章を書くとなると無闇にだらだらと冗長になりがちな性質[たち]なので。
推敲はどんどん切って削ってゆく作業になる。
流れに納得いったら再度読み返してレイアウト。

このような手間ひまかけても
結局ボツ、お蔵入りにすることなどよくある。

さて。こんなに集中熱中してるはずなのに。
ぽかんとつまらない誤字脱字をしてしまうことがある。
何度も読んでるのに見えてない。
違和感もなくスルーしてしまってる。
漢字で書くかひらがなカタカナで書くか
にまでニュアンスを込めようとしてるのに。
あぁなんてこった。_| ̄|○

そしてまた思い出すのだ。
目に映ってても見えてないってことが
日常にたくさん潜んでるということを。
いや、潜み隠れているわけではなく。
目の前にあるのだ、ということを。

+
これで、今回の『海月の放流』に誤字脱字があったら・・・
笑って脳内変換してしてください。ぺこり。


●『あとさきのことを考える』
・・・とはよく使われるが。
ここでは「あとさき」という言葉について考える。
漢字で書くなら「後先」。
ざっとネットで辞書[三省堂「大辞林 第二版」]を引くと。
・位置や時間の前と後ろ。
・ある事が起こるまでの経過と起こったあとの結果。
・物事の順序。
とある。
まぁ通常の認識どおりに感じる解説だな。

しかし!
このフレーズを誰かが言い放つ時。まぁたいていは「少しは後先考えろ!」とわしが誰かに言い放たれてる場面なのだが。
その内容意図意思とは離れて、毎回毎回その文字面や指示対象のあいまいさ、おかしさ、違和感を想って上の空なのだ。すまぬ。

後先。後と先。
時間を基準に捉えると。
「後」は今日から見れば未来。(後日、って使うし)
「先」は今日から見れば過去。(先日、って使うし)

一方。
位置つまり空間を基準に捉えると
「後」は体で見れば背中側で、通り過ぎた(過去の経験済の)道筋と言える。
「先」は顔の向いてる方で、これからゆく(未来の未経験の)道筋と言える。

さらに。
順番順序を基準に捉えると。
「後」は「先」の次(の次の次の・・・)。

「後」と「先」って、時空がねじれてミョーなことになってるぞ、おい。

この「先」ってやつがクセモノなんだな。
同一軸に乗せることが本来間違ってんじゃないのか?
「前」ならすっきりするのに。

さて。これらを踏まえて。
これから先はさらにこんがらがる。
ここから先は謎。今後の課題。
先送り、後回し?
後を追いかけるのか?先回りするか?
先の時代を踏まえて、時代の先を行く?


●『虎を放つ - trackback -』
まるで寝だめするかのように土曜の日中から寝通した日曜未明。
暴風にたたきつけられる窓のきしみうなりに目が覚めたら
今度は眠れなくなった。
(とは言え12時間以上も寝ていたのだから寝直す必要もないのだが)

ならば、と。
かねてより時間を工面してじっくり読もうと思っていたContemporary Unit
過去アーカイブをまとめて一気に読む。

・・・
人を突き動かすものは。
動機や目的を超えた波動である。
ということを僕が言っても説得力がない通じない、ことも多い。
それを説明する言葉は無力かもしれない。

だとしても。
こうして手や脇の下に汗をにじませ目や鼻に水を滴らせるものは
文字面を超えたナニカであり、実際いま僕はうちふるえているのだ。

事実とかフィクションとか技巧のうまさとかにも左右されず。
発言著作者の個性とも離れる。

表現者の「我」をも超越した媒介=振動するちくわになっている状態
(それはイタコのようなものか?)で発露してくる言葉は
文字にすら音声振動が備わり情景という光の粒子波動を発している。

送り手も受け手もその波動をがっちりキャッチする準備ができていないと
互いに繋がらない。
そしてそれはいつも偶然を装ったあるタイミングで出遭う。
「はっけよい」
手をつき立ち上がるこのタイミング。
これこそが人を動かすナニカ、波動。

・・・こうして「説明」をしてる自分にとてもジレンマを感じている。
「わかった」などと軽軽しくは言いたくない。
けれど。確かに受け取った、ということだけは伝えたい。
泣き、笑い、戸惑い、熱を帯び、じっとしてられず、叫び走り出したくなる。
そんな前のめりな衝動が常にある。
リスペクトなどというこなれてない言葉を持ち出すのも気が引ける。

そこで。BLOGシステムを活用し、虎を放つことにする。

・nam『喰らう男
・pacos『マヤの呼ぶ声
・20cm『火を吐いたらいいんじゃない。
・hiroizm『ツユクサ 〜露草〜
・agrico『生命の固さと柔らかさ
・geinin『放熱する魂

時代年代=時間を超え、土地場所=空間を越え、僕は旅をしていた。
しばし放心。しびれる脳みそ。目もくらむ太陽青空。
やみくもに駆け回りたい踊りたがっている体細胞。

台風27号(!)の余波だったのか?
夜から明け方にかけての激しい雨、風は。
太陽が昇ったいまはすっかり晴れ上がり
12月にして気温が25度に達する夏日の陽気。

よしっ、ゆけ!


●『たすきリレー - meme -』
たしか、オーストラリアのアボリジニのことわざ、格言にこんなのがあった。
「知れば知るほど必要なものは少なくなる」

知れば知るほど言葉も少なくなる。

先人先達が必ずどこかにいる。
まったく新しいことなどもはや無いのかも知れぬ。
まったく新しい視点で何かを語ることも不可能かも知れぬ。
まったく新しい独自の何かを語るためには
まったく新しい言語を創造するしか手は無いのかも知れぬ。
まったく新しい言語は誰にも理解は出来ないのだが。

それでも。僕はことば(言葉/個と場)を介して想いを受信し発信する。
僕はただふるえるちくわになって渡されたたすきを受け取り走り出し
ミームをこの時代に泳がせる。


●『凧の切れた糸』
20世紀も残り一年、21世紀の幕開けまであと一年、そして、新千年紀の始動、の頃。
わしのいまの状態と理想ってなんだか「凧の切れた糸」みたいだわ。
と思い、ひとり、つぶやいてたみたことがあった。
そうして音声にしてみた途端。
映像が拡がり、あれま、それって我ながらうまいタトエじゃないの?
とほくそ笑んでいた。

ばつんっ。凧の切れた糸。
ふにゃふにゃと拠り所ないかのようで。
それでも空中を風まかせでふわふら漂い。
けれども大地で待ってるナニカに繋がっている。
そして一方の触手はまた別の呼んでるナニカに繋がろうと伸縮している。

凧揚げ。は3つの要素からなる。
凧、糸、揚。
揚げる者がいる。揚げるという意志/意思がある。
揚げた行為言動の反応としての凧がある。
そして。見えないものと見えているものを繋ぎ結ぶ糸がある。

凧の切れた糸。
それはまるでクラゲのようであり、ニューロンの触手のようであり。
人や物や土地やアイディアや縁やタイミングなどのいまはまだ見えぬナニカとの出遭いを空想させるうねりだった。
過去と未来を繋ぐたすきだった。
空間も時間も横断する旅だった。

繋がっていた。繋がっている。繋げる。

「凧の切れた糸。」
あぁ。わしはそれがいいな。


・・・(つづく)[04.12.14]...Qurax2海月(=)彡
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