__Walk_in_the_moonshine,_and_drink_like_a_jellyfish.__

[03.12.15] 

〜海月の放流〜 049


旅を通して「カラダ」についての気付きや覚醒が見えはじめたわけだが。
ぢつは徒歩旅を始める前、今から3年前には既にある直観/直観はあった。
その3年前に書いたものを今回は転載しておく。
今年の締めくくりの意味合いを込めて。そして来年の“混乱”の前に。


●『からだからだ』

わたしの2000年の着目点は「からだ」なのだった。
            からだ(体)から、だ。
            からだ(体)だから、だ。
            からだ(体)、から(空)だ。
からだこそ我。ちくわ状のからだ。
ちくわの穴を通して世界をのぞいてみよう。
ちくわの穴の内壁にぶつかるあれこれが感情、気持ち、心、精神、そして魂の 震え。
そんなこんなについてあれこれ思考を浮游させてみる。思考の試行実験。

人間、否、生物一般を極端に単純に巨視的に考えるとただの管、筒みたいなも んじゃないのかな?言ってみれば“ちくわ”(笑)。手足はひらひらした附属品 のようなもんで。栄養や情報が出ては入る口(弁)があるだけ。

所詮そんなものだ、と腹をくくってみたりする。と。

わたしというものの本質はこの肉体であって、精神、心、魂などと呼ばれるも のは、どこか別のところに、空気のようにあらゆるところに浮游していて、わ たし自身をさすものではないような気がしてきた。わたしの肉体は入れ物に過 ぎず、しかも蓋も底もないただの管、筒、“ちくわ”なのだ。
(身も蓋も無い?)

わたしはこの入れ物として生まれ、魂をすくいあげるべくして生まれた。
そして当然のように底のない入れ物に魂は留まることを知らず、その流れ去る までの刹那がわたしの一生と言えるのかも。

2次元でも4次元でもない3次元の物質世界のこの時代に生まれたというのは そういうことなんだろう、たぶん。

このちくわ体にナニカが飛び込んでくる。筒の内側のあちこちにぶつかる。あ るいは詰まってしまったり。するとそこで衝撃、振動が生じる。それに対する 肉体の応答が刺激、感情となる。

すぐに表に出る感情もあるけれど、一旦消化吸収して分類整理するのが思考。
そうやって表に出た感情や思考は再び浮游する。

そしてまたどこかのちくわ体に飛び込む。拒絶反発シャットアウト。そんなと きもある。ちくわ内部に入り込んでも内壁のどこにも擦りもせずに右から左に あるいは上から下に流れ去ってしまうこともある。
(筒抜け?)

けれども。きっとどこかにふるえるちくわが・・・

ところで。
わたしは自分以外の人を思い通りに感動させたり、実際に動かしたりすること は難しいだろう。否。決して思い通りになんか出来ない。けれど。

わたしは自分自身の肉体をわたしの思い通りに動かすことにかけては世界で一 番だ!と、この際、胸を張って言ってしまおう。このいろいろな制約、制限、 限界、癖、使用期限?のある肉体を使いこなすことにかけては他の追随を許す ものではない(笑)。

そしてあなたも。あなたの制限付きの肉体を自由に動かすことが出来る。
その分野?でわたしはあなたに決してかないはしない。
わたしもすごいがあなたもすごいよ。


●『あまったあたま』

我思うときこそ、我也。
「考える」のが大好きさ。「悩む」のが趣味さ。
わしは考えるという作業をしているときにこそわしらしい。

物事の定義と分類が大好きさ。事物、現象、行動、感情、意識、思考、概念を 言葉で定着させるのが好きさ。言葉にならないものもあるさ。実は言葉になら ない曖昧なものをこそ最も好んでいるさ。定義と分類はその最も好きなものを 選り分ける作業、プロセスだったりするさ。

わし自身の本質はちくわ状の肉体だけれど。わしの肉体の特徴のひとつは
「余計なこと考える細胞」が発達しているってことだったりするさ(笑)。

ところで。
疲れ過ぎていたり眠かったりして頭が朦朧となることがある。
「うわっもーダメ、あたまモーローとしてきたぁ」ってな感じで。
しかし。
朦朧とした意識でどうして今自分の頭が朦朧としているとはっきりと認識でき るのだろうか?不思議。

類似な不思議にこんなのもある。
わからないということだけははっきりとわかる、ということ。

一番不思議なのはなぜこんなことを考えたりするのだ、わしは?
という不思議。

・・・ってなことを思い付くのが「余計なこと考える細胞」。


・・・(つづく)[03.12.15] 海月
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