「自分は怒っている」という意思表示は、下らないことにそれなりに重要なものだと思っている。何もかもあっさり許してしまうのはアンフェアで、イーブンではない。だからこそ和秋は、雄高からの着信もメールも、連絡手段の全てを力の限り無視した。しかしそれも三日続けば限界で、つい五秒前に諦めたように着信音が途切れた携帯を見つめていると、どうしてこんなことをしているのだろうと馬鹿らしくなってくる。
 そろそろ許してやろうと思う反面、どんな顔をして、どんな声で、どんな言葉で話をすればいいのか判らなくなりはじめていることも確かだった。
 仕方がないので、和秋は自ら雄高のマンションに赴くことを決意した。延々と悩んでいるのも馬鹿らしく、何よりも自分は仕方がないから許してやるのだと尊大に思っていなければやっていられない。
 許してやる、仕方がないから。呪文のように胸のうちで呟き、チャイムを鳴らす。和秋を迎えた雄高は、佇む和秋を見た瞬間少しだけ複雑そうな顔をした。そこで和秋の勇気は一度くじけてしまいそうになる。
「……何やねん」
「いや、……別に」
 自分があまりにもしつこく怒り続けていたせいで、逆に愛想を尽かしてしまったのではないだろうか。一瞬過ぎった不安にも似たそれは、雄高がいつも通り部屋の中へ招き入れてくれたことで一応は拭われる。
 ならばどうしてだろう、とその表情の理由を探ろうとして、リビングの扉を開けた瞬間、和秋は来客の姿に気付いた。
「お客さん?」
「ああ」
 ただでさえ冷戦期間中だというのに、そこに第三者の姿いるとなれば気まずいのも当たり前である。雄高に向かって尋ねた男は、和秋に視線を遣り、にっこりと微笑んだ。
「こんにちは。若いお客さんだね。もしかして弟?」
 柔和な顔付きをしたその人は、和秋を見て首を傾げる。いや、と首を振って否定した雄高は、和秋を置いてキッチンへと向かった。
 見たところ来客用の飲み物は既に出し終えているから、和秋用の飲み物を用意してくれるつもりなのだろう。こういうところは相変わらず律儀な男である。
「……知り合いです」
「ふうん?」
 その他に答える術のない和秋に、男はわずかに不思議そうな顔を見せる。しかし一瞬にしてその表情を変え、
「相変わらず梶原君は知り合いが多いなあ」
 と自分で結論付けた。
 その顔を、どこかで見たことがあるような気がして、けれどどうしても思い出せない。何だっただろう、と首を傾げながら、いつもの位置に腰を下ろしかけた和秋は、雄高の書斎にあった本のカバーを唐突に思い出す。顔と名前が結びついたそのときには、思わず声をあげていた。
「犀川卓!」
「うん、そう。読んでくれてるの?」
 彼はのんびりと微笑んで、和秋の言葉に相槌を返した。そうだ、と手を打ちたい気分さえあって、和秋はしっかりとその問い掛けに頷いた。
 彼は、ベストセラー作家の犀川卓だ。雄高の家に溢れ返っている本を暇つぶし程度に読んだことがある。その中の幾つかに、その人の著作があった。見た覚えがあっても当然である。折り返し部分についた作者近影の写真に、えらい男前やなあ、と思ったことを覚えていたのだ。
「ええと、「亡者の刻印」は読みました。今度映画化されるんですよね」
「うん。人生ってわからないね」
 犀川卓は、この柔和な顔付きとは正反対の、ハードボイルドとミステリーを混合したような、複雑な人間関係とその激しい生き様を描く作家だ。適当なことをいいながら微笑む目の前の人物が、あの作品の著者だと俄かには信じられない。
「人気が出てくれたおかげで今回みたいな仕事もできるんだろうけど。仕事で旅行ができるなんてねえ梶原君」
 カップを片手に戻ってきた雄高が、それを静かに和秋の前に置き、無愛想に頷く。今回の仕事相手はこの人だったのだと、和秋は漸く思い至った。
 ふいに何かが引っかかったような気がして、隣に腰を下ろした雄高を、思わずじっと見上げてしまう。この人は、仕事上の付き合いがある人間に対しては、ほどほどに愛想をみせる人間のはずだ。
「……なんだ」
「――犀川さんと、友達なん?」
「学生時代のね。同じサークルだったんだ。天文部」
 答えたのは、犀川だった。雄高が愛想をみせず、全くの素で付き合う人間を、和秋は二人知っている。一人は楠田恭一と、もう一人は神城洋司だ。最も彼らは仕事上の付き合いというよりも、プライベートの部分で関わりが深すぎる連中で、つまりこの犀川もそうなのだろう。
「知らへんかった……て、あんたなんで天文部やねん。似合わん」
「……十何年も前の俺にケチをつけるな」
 犀川卓といえば、代表作品は映画化されるわ文学賞を幾つも受賞しているわで、今もっとも文壇を騒がしている作家といってもいいだろう。その人と知り合いだと知っていれば、とっくの昔にサインのひとつやふたつくらい求めていたかもしれない。
「元々僕は梶原君の写真が好きだったんだけど、楠田君の本に添えられた写真は本当に素晴らしかった。だから今回の仕事を梶原君にお願いしたんだけど、些か迷惑だったみたいだね」
「まさか。犀川先生のお仕事に同行できて光栄でしたよ」
 犀川は笑っている。その遣り取りの中にも、親しさが見え隠れした。
「それで、君が会いたがっていた人には会えたの?」
「ああ、一応な」
「それはよかった。仲直りはすんだ?」
「いや」
 何の話だろうと首を傾げかけて、雄高の言葉を反芻した瞬間に、和秋は硬直した。
 それはもしかして自分との話かと問うことも恐ろしく、口をぱくぱくと喘がせていると、雄高が一瞥の視線を寄越す。それをすぐに犀川に戻してしまうと、雄高はわざとらしいため息を聞かせた。
「謝ろうと思って会いに行った矢先におまえに呼び出されて、タイミングを逃した」
「そりゃ悪かったね。でも仕方ないだろ、仕事の話だったんだから」
「そ、それ……」
 どう考えてもそれは、自分の話ではないか。しかし和秋の混乱を誤解したらしい犀川は、話の経由を丁寧に説明した。
「ああ、仕事に出る前にね、彼女と喧嘩をしたらしくて。梶原君、それをずっと気にしてたんだよ。何を買って帰れば機嫌が直るかとか、そもそもまだ怒ってるんだろうかとか。それがあまりにも梶原君らしくないから、僕なんかもう可笑しくて仕方がなくて」
 犀川は笑っている。雄高は素知らぬ顔で珈琲を啜っている。恥かしいのは和秋ひとりだ。
「梶原君は昔からあまりそういう話をしてくれないからね。とても興味深かったし、面白かったな。修学旅行みたいで。ずっと惚気話を聞かされて辟易したけど」
「そりゃあよかった」
 興味がなさそうに雄高は応えているが、それどころではない。
 死ぬ、と思った。
「よっぽど好きなんだろうね」
 犀川は、気楽に笑った。そんな雄高など想像もできないし、したくもない。万にひとつそれが本当にあった出来事だとしても、犀川の言う通り長期取材に対する厭味で、雄高の冗談にしか過ぎないはずだ。そうだ、あまりにも、らしくない。雄高らしくなさすぎて、恥かしくて死んでしまう。
「だから今日はお礼とお詫びにきたんだけどね。まだ喧嘩が続いているんだとしたら、やっぱり僕にも責任はあるから」
 恥かしい、死んでしまう。どうして他人の口から語られる自分の話は、こうも恥かしいのだろう。穴を掘って埋まりたい和秋を余所に、雄高と犀川は至って和やかに会話を続けていた。
「これを彼女に渡してくれ。僕からのお詫びだってね。作家仲間が旅行に出てて、お土産に何がいいって聞かれたから頼んでおいたんだ。珍しいだろ」
 そう言って犀川は紙袋に包まれた何かを雄高に手渡した。受け取った雄高は、紙袋の中から鮮やかに彩られた布を引っ張り出し、怪訝に眉を顰める。袋に収められたその布は、鮮やかというよりも、寧ろ派手でしかない。この布の用途を想像できず、和秋は内心首を傾げた。
「犀川。……何だこれは」
「オランダの北のほうの民族衣装」
「……そうか」
 満足げに応えた犀川に、わからないのはおまえのほうだ、と言いたげな顔で、しかし雄高はただひたすらに派手なそれを受け取った。どうして雄高の周囲には、こうも個性的な人間が集まっているのだろうと、和秋は首を傾げるよりも、むしろ頭を抱えたくなる。
「受け取るかは判らないが、一応渡しておく」
「喜んでくれるといいけどなあ」
 無邪気に微笑んで、犀川は時間を確認すると腰を上げた。
「もう帰るのか?」
「旅行の記憶が薄くなる前にちゃんとした文章に纏めなきゃいけないからね。暫くは缶詰状態だよ。まあまたすぐに会うことになるだろうけど、今日のところはお邪魔しました」
 見送りは結構、と手を上げて、犀川は玄関へと向かう。嵐のように去って行ったその足音が完全に消え、扉が静かに閉まる音を聞き届けてから、雄高は手にしていた紙袋を和秋へ放り投げた。
「……だそうだ」
「い、いら……」
「要らないのか?」
 折角だから喜んでおけ、とわざとらしく付け加えた雄高の語尾が、欠伸に消える。
「……疲れてるんちゃうん」
「いや、……そういえば由成に連絡をしてくれたみたいだな。さすがに俺も日本にいない間はあいつらの状況が掴めないから助かった。ありがとう」
 疲労は明らかで、けれど雄高はそれを追求される前に話を変えてしまう。ずるい、と思いながらも、和秋は仕方なく頷いた。
「由成君の用事、何やったん。えらい焦ってたみたいやけど……」
「恭一が家出」
「家出!?」
「一ヶ月くらい行方不明らしい。しかも家も売り払っちまったもんだから、ほとんど蒸発状態だな。大変なことになった」
 大変だと言っているわりには、雄高の言い草はあんまりで、まるで大した話のように思えてこない。冷静に考えれば確かに重大で、確かに大変な話には違いがないのに。
「俺が心配したってどうなることでもない。今ごろ由成が必死になって探してやってるだろうから、いいんだよ。俺はもうどうでもいい」
 言い捨てて、雄高は深々とソファに身体を預ける。その瞼が重そうに閉じかけているのを見て、珍しい、と思った。こんなにも疲れているのにベッドへ向かおうとしないのは、恭一の心配をしているせいだ。それだけなら雄高らしいと言えばらしい行動で、けれど口に出して文句を言うくせに一向に動き出そうとしない様は、やはり珍しい。
「あんた、拗ねてるんやな」
 気が付いたときには、あまりにも自然にその言葉を選んでしまっていた。
 沈黙を守ったまま僅かに眉を寄せ、雄高が小さな反応を寄越してくる。図星を刺された証拠だと受け取って、和秋は更に続けた。
「恭一さんが自分に黙っておらへんようになったから、拗ねてるんか」
 更に眉間の皺が深まり、その表情が面白くなさそうなものへと徐々に移ろっていく。徐々に機嫌が下降していっているのだ。
「あんたが「どうでもいい」って言うときは、大抵どうでもええて思ってへん証拠や」
 面白がる気持ちを半分ほどに込め、揶揄うように続ける。言葉を重ねる度に、雄高の機嫌が斜め下あたりへ向かっていくのが手に取るように判った。
 微かな溜め息を落とした雄高は、黙り込んだまま和秋を手招きする。何やねん、と訝しみながらも近付いた和秋の身体を、あろうことか雄高は両腕で抱きしめると、そのまま体勢を変えてソファの上に転がした。
「……どうしておまえは俺を揶揄うときだけ、そんなに嬉しそうな顔をするんだ?」
 苦々しさをたっぷり含んだ声は、けれど不快感を滲ませてはいない。心底不思議そうな顔をしている雄高に、お互い様だと和秋は笑った。
「あんたも一緒やろ。あんたかてよう俺で遊んでるやん」
「遊んでない。可愛がってやってるんだ」
 見上げた雄高の顔が、少しずつ近付く。気が付けば、あまりにも自然に口付けた唇を受け入れてしまっていた。
「……そういえば喧嘩してたんやなかったっけ?」
「今それを言うのか……」
 呆れた雄高が、今日で何度目になるのか判らない溜め息を吐き出す。有耶無耶に流すのも、有耶無耶に流されるのも、いつものことだ。もう充分に怒った。もう充分に離れていた。だからもういいと諦めて、和秋は自分から腕を差し出す。
「あんなあ、……お帰りなさい」
 それでも少しだけ躊躇った後、ちいさく告げた言葉に、雄高は「ああ、」と微笑んで頷き、首筋にキスを落とす。それを合図に、伸ばした腕で背中を抱き返したときに、一ヶ月ぶりだ、とやっと実感が沸いてきた。一ヶ月、声も聞かなかった。離れていた。けれど会いたかった。本当は、毎日、会いたかった。
「……拉致る前に出向いてくれて助かった」
 他愛のない戯れのような愛撫を受けながら、耳元で囁かれた声に笑ってしまいたくなる。この人なら本当にやりかねないと思ったからだ。今は触れるだけの指先が、交わす口付けの最中に触れ合う頬が熱を持ち、怖いくらいの飢餓に、熱に変わっていく、その瞬間まであともう少しだと思った。
「……なあ」
 そういえば、と思いついて上げた声に、雄高は面倒くさそうに「なんだ」と答える。もう黙れと目が言っているような気もしたけれど、構わず和秋は口を開いた。
「犀川さんに、どんな話したん」
「――気になるか?」
「ちょっとだけな。……変なこと、言うてへんやろな」
 冷たい掌と、素肌に落ちる唇の感触に息を詰め、喉を反らせる。まだ淡いだけの感覚を与えている当の本人は、涼しげな顔をして答えた。
「可愛げの欠片もないようなヤツが寂しがって俺を待ってるから、早く帰りたいって毎日言ってやってたんだ。それだけだよ」
「何やそれ。寂しがってへんし」
「百回死ななきゃ許してくれないくらい怒っていても、俺が予定を言い忘れて突然置いていっても待っててくれて、しかも結局許してくれる、」
 和秋の反論を受け流し、気にも留めていないような顔をしながら、雄高は淡々と言葉を続けた。
「――そういう、腹が立つくらい愛してるやつがいるって言ったんだ」
 普段よりもずっと雄弁に、そして饒舌に語られた言葉は、ともすれば嘘臭く聴こえてしまう。けれどそれが、彼の本音を垣間見せるための手段だと、そのとき何故か気付いてしまった。
「……あんた、今自分で言っててちょっと恥かしくなったやろ」
 雄高はもう言葉を返してはこなかった。都合が悪くなって黙り込んでしまったというよりは、そのまま図星を刺されてしまった感が強いのだろう。笑いかけて、結局和秋は笑わなかった。代わりに、力いっぱいにその身体を抱きしめる。
 好きだ。子どもみたいに照れて、子どもみたいに拗ねたりもする、この人のことを、本当に好きだと思った。
 雄高は結局、一度も謝ることはしなかった。けれど判ってしまったから、もういい、と思う。掌が、指が、吐息が、寂しがったことを教えている。それが判るから、もういい。
 下らない意地を捨てて、寂しかった時間を埋めるための口付けを交わす。
 どうしようもならなくなるくらい欲しがってしまうまで、あとほんの少しだ。