あの子がどこか辛そうな顔をして、雄高の所在を尋ねてきたのは、そんなに昔の話ではない。どうしても雄高と連絡を取りたいと、珍しく焦燥した表情で楠田由成に大学の構内で捕まえられたのは。
どうしたのだろうと疑問を抱きながらも、和秋は雄高の不在を教えた。事実雄高は仕事で国外に出ており、和秋すら連絡を取れていない時間が続いている。そう告げたとき、由成は悲しそうな顔をして、けれど丁寧に頭を下げた。確かに微笑んだ顔を悲しいと思ったのは、自分が雄高に近付きすぎているせいかもしれないと、後になって思った。
――結婚するんやって?
訊こうと思っていたことを訊けず終いだったことにも、後になって気付く有様だった。人伝に聞いたことで真偽のほどは判らないないにしても、楠田由成が学生のうちに結婚を決めたらしいという話は、自分にとって強烈な印象を残した。
今はいないあの人は、元々多くのことを語ってはくれないから、自分の想像と推測で話を補っていくしかない。彼の婚約というあまりにも突然すぎる話の謎を、少しも解いてくれなかったあの人は、もうそろそろ帰ってくるころだろう。そう考えたところで、視界に入ってきたカレンダーをつい眺めてしまう。
日数にして数えれば、丁度一ヶ月。急激に頼りなさが心に落ちた気がして、そんなものは寒いせいだ、と決め付けた。雄高が立ったころは、まだ薄い長袖一枚でも平気だったのに、ここ数日の間に急激な寒さを増した今では、厚い上着やコートと手放せない。凍えそうな夜は、いつでもあの人のことを考えた。もう何年も前から、変わっていない。いけないのは、こんな夜である。時間がぽっかりと空いて、持て余している寒い夜、そもそも独りでいることがよろしくない。ほどほどに忙しく、ほどほどに走り回っている昼間なら、想うことも痛むこともないのに。
「清田で遊んで来ようかなあ……」
そう、ひとりで過ごすからよくないのだ。結論付けた和秋は、目の前の夕食を凄まじい速さでかき込むと、すぐに出かける支度をした。
早速出かけていった先で、寝ぼけ顔で和秋を迎えたのは清田だった。非常に迷惑そうな顔をしていたが、特に文句を言うこともなく、渋々と和秋を部屋に入れる。昼間に顔を合わせたばかりの奥村は、和秋の顔を見て「丁度よかった」と微かに笑った。
「今、夕食を作っていたところなんだ」
「あ、けど俺さっきメシ食うたばっかやから、腹いっぱいやねん」
キッチンを抜け、リビングにいくと先に腰を下ろしていた清田が欠伸を噛み殺している。深夜という時間帯には程遠く、夕方と呼ぶには遅すぎるこの時間、まさか寝ていたのだろうか。
「朝までレポートやっててな、学校から帰って今まで寝てたんだよ。まだ寝たりねえ」
「ふうん。そら大変やったなあ」
「期日ギリギリまでサボっていたせいだ。気の毒がることはない」
僅かに離れた場所から届いた辛辣な言葉に、清田が厭そうに顔を顰める。反論しないところを見ると、恐らくは真実なのだろう。
しかしいつ来てみても、何の甘さもない二人である。一見ただのルームメイトにしか見えない上に、よく見てみなければ仲が悪いのではないだろうかと疑ってしまうのは、二人の性格が両極端にあるせいだ。そういえば初めて奥村を紹介されたとき、彼が清田の友人であることがひどく意外だったことを思い出す。それももう、六年も前の話になる。
「おまえこんなとこにいていいのか? そろそろ帰ってくるころだって言ってたじゃねーか、ええとほら、カメラマンの。何だっけ、梶原さん? 帰ってくるの待っててやんなくていいのか」
「……なんで?」
「いやなんでって。一ヶ月ぶりなんだろ、日本に帰ってくるの」
不機嫌に眉を寄せた和秋を余所に、清田は平気な顔をして問いを重ねる。全ては、酔った勢いでうっかりあれこれ話してしまったせいだと頭を抱えかけた瞬間、珈琲カップを二つ運んできた奥村がテーブルの上にそれを叩きつけた。その際、飛び散った黒い液体の一部が、見事に清田の掌に降りかかる。
「……!」
「悪い。手が滑った」
抑揚なく告げる奥村の顔を睨めつけて、清田はやっと口を噤む。やはり奥村は、清田に対してだけ手厳しいのである。手厳しいというより、ここまでくれば、もはや躾の範囲になるかもしれない。
「清田相手に不機嫌な顔をしているくらいなら、帰ったほうがいい」
「……不機嫌な顔なんかしてへんし」
「そうか」
ぶっきらぼうに答えた和秋の意地を静かに受け止めて、奥村はそれ以上何も言ってこない。ほんまに、そんなことあらへん。悪あがきのようにもう一度呟いた和秋に、清田がちいさく顔を顰めた。
不機嫌と言われる心当たりが、あるにはあった。自分の中では消化したつもりでも、完全に消え去っていないあたり、器の狭さを実感させられた気がして、それがまた自分を不機嫌にさせる。
それは、丁度一ヶ月前の出来事だった。
ある休日の真昼間、向かった恋人のマンションで、部屋主が何やら大掛かりな荷物を纏めているところを目撃したことから、それは始まった。
「取材旅行? 聞いてへんで」
纏めていた荷物は小旅行には多すぎる量で、引越しには少なすぎる。機材は後から準備をするとは言え、衣類やその他の持ち物も相当な量になることはトランクケースの大きさから見て取れた。
それもそのはずで、荷物の多さに目を丸めた和秋に、雄高は「一ヶ月間の取材に出る」と告げたのだった。
「言っただろ。作品のモデルにした外国をあちこち回って、エッセイを書く予定の小説家に着いていくことになったって――」
「聞いてへん」
和秋は断固とした口調で再び強く言い切った。全くもって聞いていない。一ヶ月もの長期に渡る不在であれば、この自分が覚えていないはずがない。
「……取材旅行が終わったあと、個展をやる知り合いの手伝いをする予定になってるから一ヶ月は帰ってこれないって、ちゃんと言っといただろ?」
「聞いてへん!」
過去の自分の行動を反芻したのか、暫くの沈黙ののち、雄高は明らかに「しまった」という表情を垣間見せる。
「……そういうことで」
「何がそういうことで、やねん! あほかー!」
「もう出かけないと搭乗時間に間に合わないんだ。……空港まで着いてくるか」
「行くか!」
せっかく足を向けた休日が丸潰れになってしまった落胆もさることながら、長期の不在をあっさりと告げ忘れられていた怒りも相俟って、こそこそと部屋を出て行く背中を「百回死ね!」と罵ったのが、彼の姿を見た最後である。
まるきり言い忘れていたわけではなく、本人は和秋に予定を言っていたつもりだったのなら仕方ない、人間なのだから一度はそういうこともあるだろう、と自分なりに決着を着け、怒りは一ヶ月の間に薄れているものの、帰国の時期が近付いてくると、あのときの怒りがふつふつと甦ってくるような気がした。
けれどそれは、きっと雄高の顔を見た瞬間に溶けてしまう怒りでしかないことも、和秋はとっくの昔に自覚している。
それからニ、三時間ほどを潰し、二人の部屋を出たときには、時計の針は日付が変わる手前を差していた。親切に清田がバイクで送ると申し出てくれたおかげで、電車の最終を気にすることなく帰路へは着けたが、この時期少し寒さが過ぎる感がある。
「バイク、便利やなあ」
「免許取れば?」
「金あらへんわ。免許取ってもバイクが買えへんし」
実際車やバイクの免許に心惹かれるものはあるものの、中々踏ん切りはつかないのは、それほど不便だと思うことがないからだ。
「少しずつ貯金はしてんけどな。もうちょっとや」
「はは、頑張れよ。中古でよけりゃ、安く譲ってくれる知り合いに心当たりあっから」
「うん、そんときはよろしく」
借りたメットを預け、去っていく背中を見送って、和秋はボロアパートの階段に足をかけた。そのとき、暗闇で見えなかった何かが視界を過ぎって、駐車場に目を凝らす。暗闇の中、ぼんやりと浮かびあがる車体に、確かに見覚えがあった。
まさかと疑いながらも、勢いよく階段を駆け上る。
白い息を垣間見せながら、扉の前に佇んでいた雄高が「おかえり」と笑った。
「バイクの音がしたな。友達か?」
仕事を終え、帰国して、自宅には戻らないままここに寄ったのかもしれない、とふいに思う。笑った顔が、少し疲れているように見えたからだ。
「……あんた、アホやな。車ん中で待っときや」
「すぐ帰ってくると思ってたんだ。こんな時間までどこをほっつき歩いてた」
「バイトがある日はもっと遅なるで」
「今日は木曜日だろ」
だから待っていたのか、と思うと、ほんの少しだけ胸がくすぐったくなってくる。木曜日だけはバイトに入れないことを頭に入れていた上で、この人はこんなところで待っていたのだ。――ああ、馬鹿じゃないか。
「……一ヶ月、どこ行っててん」
「パリには二週間くらいいたかな。個展をやった知り合いが住んでるんだ」
「パリ? そらまたえらい不似合いなところに行ったんやな」
言葉を捻くれて選んでしまうのは、まだ手を取るべきかどうか悩んでいるからで、けれど怒りは確かに溶け始めている。
「土産は今は持ってないんだ。先に宅急便で送っちまったからな」
「いらへんし、そんなもん……」
あと一回。最後にあと一回だけ。殆ど騙まし討ちのように旅立っていったことを謝ったら、許してやろう。そう決めて、和秋は顔を上げた。少しだけ高い位置にある雄高の顔を見上げると、やっと視線がかみ合う。その顔に会いたかったと、仕方がないから言ってやる。だから今すぐ謝れと、念じるように思った。
しかし雄高が口を開きかけた瞬間、けたたましく鳴り出した携帯電話が、その言葉を奪う。
「……はよ出たら」
一気に気が抜けて、自ら勧めた電話を、雄高は渋々といったように取り出した。
「梶原です。……いえ、今はまだ出先で……」
話し方からして仕事関係の相手だろうか、と見当をつけたところで通話は切れ、雄高はすぐにそれを仕舞う。和秋に向き合い、気まずそうに口を開いた。
「……すまん、呼び出しだ」
「は?」
「同じ作家からまた仕事がきた。よく判らないが、急用らしい」
たった今とは言わずとも、今日帰国したばかりだと言うのに、すぐさま仕事が入ってくるなど考えられないことである。しかしそれが考えられないのは和秋の常識で、雄高の常識ではないのかもしれない。その証拠に彼は既にこの場を立ち去る姿勢になっていた。忙しいうちが華とはよくいったものである。特に雄高のような商売をしている人間のそばにいれば、その言葉は厭でも身に染みる。そんなことは判っている。だがしかし。
「……百回死ね!」
一ヶ月前と同じ言葉を叫んだ和秋に、雄高は珍しく心底困ったような表情を見せてから立ち去っていく。その背中を完全に見送ってしまう前に部屋に飛び込むと、和秋は荒々しい音を立てて扉を閉めた。多分、雄高の鼓膜をも響かせただろうその音は、却って自分の頭痛を産んだ。
もう絶対、何があっても、許してなんかやるものか。胸のうちで叫びながら部屋へ上がった和秋は、照明をつけないままベッドに倒れ込むと不貞寝のために目を瞑る。遠くでエンジン音が聞こえて、なおさら深く布団を被りなおしてもムカムカと競り上がる熱い怒りに眠気はやってこない。代わりに暗闇の中でじっと目を凝らしていると、怒りとは違う何かが胸に浮かんでは消えた。
会いたかった。本当に、会いたかった。
一ヶ月、何もなく過ぎていった、けれど確実に何かが違った。その日々に、本当はそばにいてほしかったことを告げて、少しだけ甘えて、それから許して、キスや抱擁のひとつくらい望んでも罰は中らないはずだったのに。
それをあの男は理解していて、なのに当たり前に去っていく。仕方がないことだと判っているだけ、腹が立つ。腹が立つのに、仕方ない。
――ああ、そうや。
大切なことを思い出した。
雄高の帰国を待ち侘びていたのは、自分だけではないのだ。
和秋は勢いよく身体を起こすと、床に放り投げていた携帯電話を指で手繰り寄せる。暗闇に浮かび上がった液晶を見つめながらボタンを操作して、ある人の名前を呼び出すと通話ボタンを押した。この時間、起きているだろうか、眠っているだろうか。暫く眠れていないような顔をしていたから、起こしてしまったなら申し訳ない。迷ったけれど、彼にとっていい知らせであることは確かだ。
「――もしもし、由成君か? 俺やけどな……」
本当は自分のためだけに一晩中怒っていたいところだが、仕方ない。――本当に、仕方がない。
「……雄高さん、帰国しはったみたいや。……うん、今日帰ってきたばっかりやと思う。仕事立て込んでるみたいやから、会う前にいっぺん連絡取ったほうがええと思うよ」
あの人の大切なあの子が、何かに必死になって、雄高の存在を求めている。ならばその帰国を教えてやることくらい、何の手間だというのだろう。
心底安堵したような声で、ありがとうと告げた由成の言葉を最後に、通話を切った携帯を枕もとに放り投げる。よっぽど俺もお人好しや、と一言だけ呟いて、和秋は不貞寝を決め込んだ。