[2]
灰かぶりの世界

 白井智博は、不思議な人物だった。
 自分がどれだけ踏み込んでも、決してそれを拒絶することはない。――いや、表面的に、言葉では制してみせる。それでいて、「和真」が少しでも傷ついたり、ひるんだりした様子を見せると、戸惑いながら、手を伸ばしてくる。他人を傷つけることを必要以上に厭っている印象さえある。それでいて、自分の心は、中々見せない。普段は言葉少なく、表情の変化にもとぼしい。そのためか、何を考えているのか全くわからない。
 ――まあとりあえず、優柔不断な男なんだろう。
 慶はひとまず、智博のことをそう結論づけることにした。
 共に過ごすようになってから、何度目かの夜。
 もう智博は、「和真」の訪問をいぶかしむことはなくなった。
 いつも慶は、智博の仕事が終わるころを見計らい、メールをする。「今日、行っても大丈夫?」ただそれだけの短いメールには、帰宅時間を告げる短いメールが返ってくる。慶が送るメールに、NGが返ってくることは基本的にはない。城嶋藍子と会うことになっている水曜日は避けているし、あとは急な残業が入ったときくらいだ。
 今日も、メールのあと、告げられた帰宅時間ちょうどにやってきた慶を、智博は当たり前のように出迎えた。
 スーツから私服に着替えている最中だったのだろう。中途半端にほどけたネクタイが、首元に引っかかっていた。
「……開けるの、着替えて終わってからでもよかったのに」
 目の前で、ぷらぷらと所在なく揺れているネクタイの端っこに、、慶は笑う。間抜けだ。けれど律儀な性格が、よくわかる。
「こんなところで、待たせるわけにはいかないだろう」
 早く入れと言わんばかりに、智博は扉を大きく開いて慶を迎える。
 ネクタイを取ろうとした瞬間にチャイムが鳴って、慌てて出てきたんだろう。相手が自分だなんてこと、わかりきっているのに。ネクタイをきちんと引き抜く時間さえ惜しんで、出迎えるために。
 ――かわいいなあ。
 歳の離れた男への感想としては、不似合かもしれない。けれど思わず笑ってしまうほほえましさに、扉が閉まると同時に、慶は智博の胸に飛び込んだ。
 汗の匂いがするなあ、などということを考える。当たり前だが、今まで女性相手の仕事をしてきた慶には、新鮮な匂いだ。
「ちょ……こら、和真。どうした?」
 戸惑うような声で制する智博を見上げて、笑う。
 そう、彼は戸惑っているだけで、決して嫌がってはいない。
「知ってるんだよ。白井さん、こういうの嫌いじゃないよねえ」
 こういうタイプには、甘えて甘えて甘えきるのが一番いい。彼のような人間は、頼られると拒めない。飛び込んでくるものを、見境なく懐に入れて守ろうとしてしまうのだ。
「馬鹿なことをいうな。……メシにしよう。何がいい?」
 ただし、それと同時に彼は警戒心が強い。
 それはおそらく、城嶋藍子を幼少時から見守ってきたことで、平凡でふつうの生活を望むようになったが故の警戒心だ。
 日常以外のものを、求めない。
「メシなんかより、白井さんがいいなあ。……とか言ったら怒られそうだね」
 けれど彼は、あっという間に「和真」という正体不明の人間を受け入れてしまった。「和真」が甘えれば、それに応えてくれる。
 できる限りの力で、答えてくれようとする。少し傷ついたふりをして見せただけで、智博は、真摯に向き合ってくれようとした。
 けれど、ただそれだけなのだ。自分は、彼のそばに、存在を許されているだけにすぎない。迎え入れられてはいるが、求められてはいない。この僅かな違いが、彼の性質をもっともよく表している。
 くっつけていた体を自分から離し、「鍋がいいなあ」などと冗談めいて呟きながら奥に進もうとしていた慶の腕を、智博はやんわりと捕まえた。
 そして、重なるだけのキスを、ゆっくりとその唇に落とす。ふいに落とされた唇に、慶はゆっくりと瞬きを繰り返した。
 合わせた視線の先に、気恥ずかしそうな顔をした彼の顔がある。
「……これで、いい?」
「……俺が、メシより白井さんがいい、って言ったから、キスしてくれたの?」
 意外な行動に目を丸めた慶に、彼は答えないまま眼をそらし、腕を解いて、そのままリビングへと消えてしまった。
 二十代後半でこのうぶさはないだろう、と心の中でつっこみながら、慶は無意識に、キスを落とされた唇をなぞる。
 彼は、不思議だ。
 受け入れるように、拒絶をして。
 拒絶するように、受け入れる。
 まるで、何かのゲームのように。
 どうしてだろう。慶にとっては、はじめての感覚だった。白井智博は、確実に自分に好意を持っている。それは確かだ。軽い好意で、危険を犯すようなタイプには到底見えない。しかしその反面、いまだに「流されているだけ」といった感があるのは、彼がふだん、「藤倉一真」の日常に、あまりにも興味がないからだ。
 あともう少しが、見えない。あともう少しが――踏み込めない。
「あのさあ白井さん――」
 なぜか胸をよぎった切なさを振り切るように、慶は智博の後を追う。
「一緒に風呂、入らない?」
「は? ……いや、うちの風呂は狭いから。無理だ」
「なんでー、いいじゃん! 俺、そういうのもしてみたいんだけど。だめ? メシは出前とかでもいいからさ。風呂入ろうよ、風呂。俺、体冷えちゃってるし」
 畳み掛けるようにねだると、智博はたいてい白旗を掲げてくれる。
「……俺、あんたと恋人みたいなこと、してみたいんだ」
 とどめの一言を口にすると、予想通り、智博は少しの苦笑いのあと、慶を手招いた。彼はこのフレーズに、とても弱い。
(罪悪感が、あるからだ……あんたの、中にも)
 あいまいな関係を、進んで持っていることに、きっと。智博自身が罪悪感を感じている。だから彼は、時折この自分に、ひどくやさしいのだろう。
 わかっている。そこをただ利用しているだけだということは。
 けれど無謀にも思えるわがままを彼が仕方なく叶えてくれる、この瞬間が、悪くはなかった。


 いい背中だなあ、とつい呟くと、智博はあきれるように小さく笑った。
「何をいまさら背中の感想なんて……はじめて見るわけでもないのに」
「うわえろい。あんたでもそういうこというんだねえ」
 単身用のマンションの風呂は、お世辞にも広いとは言えない。もちろん、二人してこの浴室に入るなんてことも、今回がはじめてだ。
「白井さん、こっち向いて」
「……うん?」
 振り返った智博の首筋に腕をからめて、キスを落とす。そうしてそのまま、彼のさらけ出された胸元に、甘えるように額をこすりつけた。
「風呂に入るんじゃなかったのか?」
「入るよ。でも、ついでに」
「ついでにって……」
 智博がおかしそうに笑う。だって、とすねたような口ぶりで、彼を見上げた。
「だってあんなふうにキスなんかされたら、盛り上がっちゃうだろー」
 彼の前に、全身をさらけ出すのは、実はまだ少し気恥ずかしい。これも、今までにはなかった感覚だ。今までとは何もかもが違うのも当たり前で、自分は彼の前では、女の代用になるからだ。
 これまで意識すらしたことのなかった器官を、彼を受け入れる器にする。
 今まで女性の細い指先でしがみつかれていた腕で、彼の背中にすがる。
 だから本当は、彼に触れるてのひらは、少しばかりぎこちない。
「……舐めてもいい?」
 湯を張ったバスタブから立つ湯気と、室温が調整された浴室でも、少しばかり肌寒い。
 だけどどうせ、熱くなる。
 智博の返事を待たず、タイルの上にひざまづいた慶は、少しだけ反応している智博のそれを、ゆっくりとてのひらに包み込んだ。
 智博は、今はもう慶からの一方的な愛撫も、制することもしない。
 自分がしたいことを、気が済むようにやらせるだけだ。
 ただ慶は、自分がひどく不思議だった。
 同じ性を持つ者のそれを、ためらいなく愛撫できる自分も。
 反応を返して、勃ち上がってくれることに、かすかな喜びを感じることも。
「ン……ンンっ」
 口腔に含んだそれは、徐々に硬さを増して、慶の咥内いっぱいに広がった。懸命に頬張れば頬張るほど、息苦しさで、頭がぼんやりする。それでも慶は、唾液でべとつくそれを、音を立ててしゃぶった。その気が遠くなるような感覚すら、脳は快感に変換する。
 智博の指先が慶の髪に触れ、それはとてつもなく優しい動きで慶の横髪を梳いた。
「……おいで、和真」
 低く、囁くような声に導かれ、濡れそぼったそれを口から離した慶は、ふらふらと立ち上がる。「和真」そう呼ばれて、ほんの一瞬、夢から醒めるような気持ちになった。
 けれどすぐさま、ひやりとした感触が、慶の下半身を襲う。
 恐らくボディソープか何かだろう、いつもとは違う、ぬるぬるした感触を伴って、智博の指が後ろに触れた。
(……なんだかずいぶん、慣れちゃったなあ、この人も……)
 もうとっくに慶自身も熱を帯びて、より強い刺激を求めているのに、頭では仕様のないことを考える。もう最初のころとは違い、お互いにやり方をわかりきっていた。手慣れた智博の指先を意識することが、余計興奮するような――けれど少しのうしろめたさを伴うような、不思議な感じがした。
 連れて行ってはいけないところへ、この人を連れて行っているような――
「ん、あっ……と、も、ひろ……」
 いつもよりもスムーズに広がる体に、むずがるように体をよじった慶は、舌を出して智博の唇を求めた。すぐに願いは叶えられる。こういうときの智博の口づけは、ひたすらに甘く、情熱的だ。
「もう、いいから……ともひろ、ともひろ」
 おぼつかない唇で求めると、壁に優しく体を押し付けられる。ゆっくりと指先が引き抜かれた瞬間に、どうしようもない飢餓感が体中に広がった。
 けれどそれもすぐに埋められる。後ろから穿たれたそれは、熱くて熱くて仕方がなかった。
「う、っ……あ、あ、……」
 苦しい体勢での挿入に、もちろん体は不自由に軋んだ。ベッドでするのとは勝手が違う。
「和真、大丈夫か? 無理なら、止めても……」
「や、だよ……こんなんなってるのに、止めるなんていわないで……」
 気遣う言葉に、やっとの思いで返した声は、なんだか泣き言じみていた。自分で発しておきながら、笑いたくなるくらいに濡れた声。
 どうなるんだろう。どうなっちゃうんだろう。
 ぼんやりと、考える。こんなに気持ちがよくて、こんなに熱くて。
 ふいに、視界の隅に、智博には似つかわしくない、女物のシャンプーが見えた。
 きっと甘い香りの強い――あの女の。
 見ない。見ない。――見ない。何も。
 今は。
 この人のこと以外、考えたくないんだ。
「あ、……アァ……ッ」
「……和真、もう少し……ゆるめて」
 自分の喘ぎ声が浴室に響き、彼の押し殺したような吐息が耳元に触れた。それすら強烈な快感を生んで、慶は体を震わせる。
 彼のてのひらが、なだめるように、濡れた頬を撫でる。彼のくちびるが、愛でるように、首元をついばむ。
 だけど呼ばれる名前が違う。そのことに、なぜか胸の奥がキリキリと軋んだ。
 それは、誰の名前なのか。 そこまで思考が到達する前に――我を忘れるために、慶は、自ら腰を振った。



 結局慶の希望で出前を取り、簡単に食事と片づけを済ませたときには、すでに時計は零時を大きく過ぎていた。
「なんか出前とると、週末!って感じしない?」
「……そうかな」
「うん、週末とかさー、休みの前の日みたいな。夜更かししてもいいような気がしちゃうんだよねー」
 慶の話に、智博は首をかしげている。頷かなくとも仕方がない、単純に感覚の違いだろう。残念ながら、ひどく規則正しい生活をしている智博は、週末でも極端に夜更かしをすることはない。そろそろ寝るぞ、と促され、慶は慌ててその背を追った。
「泊めてくれるの?」
「最初からそのつもりだったんだろう?」
 いまさら終電もないし、と智博は苦笑する。
 ただの一度だけ、深夜遅くまで居座る自分に、智博が「帰らなくていいのか、家族は心配しているんじゃないのか」と尋ねたことがあった。「藤倉和真」は高校生の設定なので、まっとうな社会人である智博にしてみれば、当然すぎる心配だ。そこで慶は、少しだけ陰りを帯びた顔をして、もう少しだけここにいさせてもらえないか、と呟いた。あんまり家、帰りたくないんだよね……、とも。実際の慶は成人を過ぎ、その上親は海外暮らしなので、心配される歳でもなければ心配してくれる家人もない。
 すると智博は、その言葉を聞いて以来、慶に帰宅を強く勧めることはなくなった。彼は常識人ではあるが、藍子のことを思い出しているのだろう。行き場のない高校生を、少しばかり保護している、というつもりなのかもしれない。慶がそうやって、「事情があって家に帰りたがらない高校生」を演じた途端、智博は態度を変えてきたので、彼はあまりにも素直すぎる、と感動したものだ。
 シングルサイズのベッドは、男が二人して並んで眠るには当然窮屈だが、智博は構わずに寝息を立てて寝てしまう。恐ろしく、寝つきがいい。その上彼は、明日が休日でありながらも、多分5時すぎには目を覚ましてしまうのだろう。
(――タバコ、吸いてえなあ……)
 すぐに寝息を立て始めた智博の横顔を見ながら、指先で、自らの唇を弾く。智博に喫煙を咎められてから、彼の前では自然と禁煙を強いられている。かすかな苛立ちを感じてしまうのは、きっとニコチン切れのせいだ。
 自分も早く寝てしまおうと、目を閉じかけたとき、枕元に置いていた慶の携帯が着信を告げて震えた。
「うわ……」
 慌てて携帯を取り上げ、智博を起こさないようにそっとベッドを這い出る。
 ――着信、藤倉壱。
 表示された名前を見て、慶はひそかに顔を歪めた。実はこれが、壱からの本日五度目の着信だ。これ以上無視するのは、さすがに厳しいだろう。用件など、わかりきってはいるのだけれど――
『……やっと出たな、慶』
「悪いね、最近忙しくってさあ」
『忙しくても、最低限しないといけない報告はあるだろう。俺たちだって、お前ばかりを特別扱いはできないんだよ、慶』
 ――話、長引きそうだなあ。
 苦笑して、慶はそろそろとリビングから続く戸を開け、ベランダへ出た。リビングでこそこそ話し続けるより、こちらのほうが智博の耳には入りにくいだろう。
『何点か確認したいことがある。この間、白井智博を尾行中の和真に、お前から声をかけたそうだね。どうしてそんなことをした? わかっていると思うけど、これは禁止事項だよ』
「だってさあ――あいつ、白井智博にバレバレだったんだよ。尾行。俺が誤魔化してやったんだから、感謝してほしいくらいだよ」
『うーん。そうか。じゃあこれは、俺からも注意しておこうかな。それから、会社にまで会いにいったそうだね。わかってると思うけど、白井智博の会社には川崎恵理子がいるんだよ。その点については?』
「あはは、ばれた?」
 川崎恵理子――もう、懐かしい名前に思える。慶がかかわった仕事では、白井智博をターゲットにした依頼を受けるよりも、ふたつ前のターゲットだった。いい女だった。けれど、少しばかり夢見がちなところがあった。だから、都合よく不倫なんかにのめりこんでしまうし、自分のような詐欺師にもころりと引っかかってしまった。
 それが偶然、白井智博の同僚だったのだ。実はこの点も、壱が、慶をこの案件に関わらせるのを躊躇った理由のひとつだ。
「それは言い訳なし。ごめんね、俺がやりたいようにやっちゃった」
『お前……これがもし川崎恵理子に見つかったら、どうするつもりだったんだ?』
「……さあ。そうだねえ。考えてなかったな、大きい会社だから、まさかそんなこともないだろうって思ってたよ」
『……慶』
 厳しい声で、幼馴染がため息をつく。
『この点については、俺もさすがに許してはあげれないよ。とんでもない違反だ。それから、報告をさぼっていた点も』
「わかってるよ、今度から気をつける。ごめん、壱」
『頼むよ、お前は本当に優秀なんだから。俺も叔父も、除名にはしたくないんだ。でももうお前の点数は、ギリギリなんだよ、これ以上ペナルティを重ねないでくれ。場合によっては、お前をこの案件から外すことも――』
「うん。ごめん。――本当に。気を付けるからさ。俺、実は今、白井智博んとこにいるんだ。切るから。進行状況はまた今度、報告するよ」
 話がまずい方向へいきかけたのを察すると、慶は一息に言い切って、一方的に通話を閉じた。『おい、慶――!』と電話の向こうで、話足りなさそうな幼馴染の声がしたけれど、ひとまず気にしないことにする。
 ごめんね、と悪びれず呟いて、慶は携帯の電源を切り、ポケットに突っ込んだ。仕方ないんだよ、と胸の奥で、誰にともなくつぶやく。
 仕方ないんだよ。だってこの人はかたくなで。普通にしてたら、一生罠には引っかからない。
 一定の距離、一定の好意から、進まない。
 だから慶は、覚悟して――禁止事項を覚悟してでも、思い切った行動に出なければならなかった。
 彼が必ず婚約者と会う水曜日に、少しでも自分のことを意識するようにと――
 慶は自らが課したへたくそな言い訳を笑った。会いたかった。ただ、会いたかった。あわよくば引き止めたかった。あの女の元へ帰っていく、あの人を。
「……和真? また、起きてるのか」
 ふいに響いた声にはっと振り返ると、いつの間にか戸を開けた智博が、背後に佇んでいた。
「……ごめんね、起こした? うるさかった?」
 ひやりとする。いつからそこにいた。いつから聞かれていた。内心の動揺を隠して、慶は微笑みながら首を傾げる。
「いや、別に……少し話し声が聞こえたから。もしかして、家の人からじゃないのか?」
「友達から電話かかってきちゃってさ。起こさないようにって、ここに出てきただけ」
 声は聞こえていたようだが、内容までは聞こえていなかったようだ。ほっと、安堵する。嫌な汗を掻いたせいで、胸がバクバクしている。通話が終わっても、ベランダから戻ってくる様子のない自分に、「寝ないのか?」と訝しまれてしまったが、まだまだ心臓の鼓動が落ち着かない。
「うん、もうちょっとここにいるよ」
 なんか月がきれいだから、と言い訳を付け足してみる。
「眠れない?」
「んー…ちょっと、電話で目が覚めたかな。大丈夫だから、ベッド戻っててよ」
 おかしな話だ。会社まで会いにいったときは、川崎に見つかってもいい、と思った。それは事実だ。そのせいで自分の正体がばれても、仕方のないことだと。
 それでも会いに行きたかった。
 彼が、きっと、自分のことを思い出さない水曜日。
 ほんのすこしでも――心に、自分の影を落としたくて。
 なのに今この瞬間は、恐れた。電話の内容から、自分が何か裏のある人間であるということを、彼に知られることが。
 そして自分の存在を拒絶され、この関係が終わってしまうことを、何よりも。
 自分は、怖がった。
「……白井さん? 何してんの」
「いや――付き合おうかと思って」
 引き戻さない自分を不思議がるどころか、智博は自分までもベランダに出てきて、慶の横に並んだ。「月、きれいか?」などと首を傾げている。月は満月に少し足りないくらい、半端にかけているし、少しの雲も出ているのでそれほどきれいなわけではない。ただの言い訳なのだから。
「眠れないんだろう。付き合うよ」
「え……」
「話相手くらいになら、なれる」
「……いいの? 夜更かしになっちゃうよ」
「明日は休みだから、少しくらいなら」
 智博は優しく笑って、慶の頭をさらりと撫でた。まるで子供にするように。
「もしそれでも眠れないなら、ホットミルクでも作ってあげるから。ブランデーをいれたら、きっとよく眠れる」
「……そっか」
 少しの切なさとともに湧き上がった言葉を、慶は意識して飲み込んだ。――彼女にも、してあげてたこと? 物おじせず、素直な「和真」なら、きっと言えただろう。けれど今の自分には、どうしても、言えない。
「ほんと起こしてごめんね。もしかして白井さんって眠り浅い? 前も俺のせいで起きたことあったよね」
「どうだろうな……。わりと昔から、寝ているときでも気配には敏感なほうかな。物音とか。……藍子がたまに、眠りながら泣いていたから」
 懐かしそうな顔で目を細め、智博は小さな声で呟きを落とした。
「これでも最近になって、よく眠れるようになったんだ。昔は怖くてよく眠れなかったような気がするな」
「怖い?」
「ああ。眠っている間に、あの子がどこかに消えてしまうような気がしてたんだ」
 自分に付き合ってか、智博は珍しく昔話をしてくれる。慶にとっては、御伽話のような。あまりにも大事に大事に見守られた、女の話を。
「……白井さんて、ほんとに彼女のこと大事にしてるよねえ」
 慶は――「和真」は、からかうような顔で、笑った。
「なのに、こんな夜中に俺なんかに付き合ってて、いいの? 明日は彼女に会うんじゃないの?」
 わざとらしい冗談に、しかし智博は真正面からその言葉を受け止めて、何とも言えない顔をした。その口が、万が一にでも謝罪の言葉を口にする前に、慶はすぐに口を開いて次の言葉を放つ。
「そんな顔、しないでよ白井さん、冗談なんだから」
 飲み込んだ切なさのかわりに、智博のてのひらを引き寄せると、甘えるように頬を寄せた。
 少しずつ、自分と彼の関係は、確かに変わっていっている。
 彼は本当に少しずつ――小さな歩みながら、自分へ、愛情をかけてくれているようになっているのが、慶にはわかった。そしてそんな自分に戸惑い、否定している。当たり前だ、と思う。彼のような真面目な人間は、同性相手の恋愛というだけで、普通は拒絶してしまうはずだ。
 婚約者がいて、安定した幸せが目の前に見えている、その状態で今彼が自分の横にいること、それだけのことが、本当は非日常的なことなことだ。
(でも、あと少し……もう少しが足りない)
 はたして彼はあとどれくらい自分を想ってくれるのだろう、と、慶らしくなく、不安に思った。
 ――彼の左手の薬指にある、冷たい感触が、やけに突き刺すように鋭利に感じた。




 

  

20110528