すべてが、嘘だった。
――いや。あるいは、そのとき、自分にとって、すべてが事実だった、すべてが事実であろうとした。少なくとも――慶は、目の前の青年を、心からいとおしむ準備をした。
すべてが嘘で、すべてが本当。
チャンスは、唐突に訪れた。
ターゲットである「彼」が、自分の目の前で、見せつけるように真新しい定期券を落としたのだ。
慶は、「彼」のこの失敗に感謝した。なんて偶然だ!
さりげなく近づくには、絶好のチャンスである。
「彼」は予想通り、何かお礼をと、戸惑いがちな表情ながらも申し出てくれた。几帳面で不器用で、借りを作るのが苦手な人なのだ。時間帯も場所も、最適。「じゃあ、一杯だけ。奢ってください」できるかぎり自然に、人懐っこく、慶は少しだけ高い位置にある彼の顔を見つめながら笑った。
「彼」はその笑みに安心したように、頷く。
「俺、藤倉和真って言います。俺の知ってる店でよかったら、あっちに。……そんなに高い店じゃないから、大丈夫ですよ」
「お礼だから……少しくらい高い店でも大丈夫だよ、……藤倉君」
――なんだ?
偽りの名前を名乗り、その名前を自然と呼んだ彼に、慶は違和感を感じる。それは彼が、とろけそうに柔らかな微笑みで、呼んでみせたからだ。
戸惑いに飲み込まれそうになった自分を奮い立たせ、慶は、彼を伴って繁華街へともう一度足を向ける。
――仏頂面で、不器用で、口数が少ないんじゃなかったのか?
「和真、で、いいですよ。……あなたは、ええと――」
「ああ、俺はね……」
彼のデータを脳裏に浮かべながら、慶は彼が差し出してきた名刺を受け取る。とっくの昔に知っているデータしか記載されていない白い紙を、丁寧に眺めた。
「……和真、君。いい名前だね」
「……そう? あなたもね、白井さん」
自分が周到に用意した、世界の中心で、彼が初めて自分の名前を呼ぶ。その名前すら、偽りなのに。
馴染みの店、といい、実は一度も暖簾をくぐったことのない店に着き、一杯目のグラスを傾けたころに、そうか、と、ようやく慶の思考が行き当たる。
――笑い上戸、ってやつか。
依頼人である城島という女から聞いていた人物像とは、どうもかけ離れている。さっきから白井は、自分の問いかけにも饒舌に答えてくれるし、声をあげて笑うことだってする。
それもすべて、酒のせいか、と、慶はそう結論付けた。
詳細データのどこかに、酒には強いが、一定量を超えると人が変わると書いてあった気がする。確か、記憶を飛ばすこともあるとかないとか。
そういえば、一軒目の上司らしき男との店では、だいぶ飲まされていたようだった。顔には出ず、性格や態度が変わってしまうタイプらしい。下戸だとしても、暴力的になるよりはずいぶんましだ。
はじめて会った人間と、あたかも何十年も付き合いがあるかのように親しげにふるまう。そうして、その心のうちに、するりと入り込む。これは、慶の常套手段で得意技でもあったのだけれど、そんなものを意識せずとも、白井智博はじゅうぶんに話しやすい人間だった。依頼人の情報を信じるのならば、これも酒の力、といったところだろう。
「ねえ白井さん。彼女の話、聞かせて。もっと」
「……どうして?」
「興味あるんだよね。長く続いてるんでしょ? しかもお互いはじめての恋人で。……俺、あんま続いたことないからさあ。参考にさせてよ」
ねえ。
もっと聞かせて。
無邪気を装いながら、御伽話をねだる。
そう、彼の語る愛の話は、本当は御伽話でしかない。
「……そんなこと言われても、何から話せばいいのかわからない。君の参考になることなんて、何もないよ」
空に近いグラスを揺らし、ほろよいの彼は、柔らかい苦笑を落として見せた。写真で見るより、文章での印象より、ずっと人当りがよく、穏やかな空気に、こちらが酔いそうになる、と思った。
「そうだねえ……じゃあ、彼女との出会いの話なんかどう?」
「出会いは……もう、覚えていないよ。小さいときから一緒だったから。いるのが当たり前だった」
「いいなあ、そういうの。素敵だね。いないと、おかしくなっちゃう?」
「おかしくなるっていうか、さみしいだろうね。ずっと一緒だったんだ。そばにいないなんて考えられないよ」
「へえ……」
――そうしてふたりは、しあわせになりました。
のどの奥で、音にはしない言葉が、あざけるように胸に落ちる。
どうせなら。
「……ほんとうに、すてきだね、白井さん。俺もあなたとなら、そういうふうになれたのかな?」
「え?」
自分のちいさな呟きを、聞き返すように目を丸めた彼の指先を、そっと自分の指でなぞる。
「どうせ、今日のことなんて、覚えてないんだろ……?」
だったら。
一度くらい自分が――あの女の代わりになっても。
白井智博は、自分の指を、嫌がらなかった。
その事実が、慶の背中を押す。
甘い粉砂糖でデコレーションされた、御伽話のようにくそったれの世界。
俺が。
壊してあげるよ。
「慶、ちょっと――」
いくつものファイルが積み重なったテーブルの前で、小難しい顔をしながら一枚の書類とにらめっこをしていた幼馴染が、ふいに自分を手招きした。
嫌な予感がするな、と思いながらも、慶はあえて飄々と――心当たりなどないとでもいうように、飄々と、青年の前に立った。
「なーにーー」
「わかってるんだろう。おまえね、ちょっと、報告がいい加減すぎやしないか。最後の報告が二日前って。この二日間、まったく接触がなかったわけじゃないんだろう?」
「いやあ、それがねえ。なかったんだよねえ」
「嘘をつくな、嘘を」
「――しっかりしてきたねえ壱も。さすが代表代理」
彼は本来、慶と同じある大学に通うごく普通の学生の三年生だ。しかし学生の身でありながら、彼はしばしば事務所の代表の代理として、この椅子に座っている。
「あのねえ……お前との付き合いは長いんだから、これくらいの嘘はすぐわかるさ」
この事務所が入っているビルの一階には雑貨屋があり、この事務所の本来の代表である五十代の男性はその仕入れのため頻繁に海外へ行ってしまう。長い時には月をまたぐ不在も珍しくはないので、そこでひとまず社長の甥である壱が代理としてこの席に座っているのだ。とはいえ、こまめに叔父との連絡も取っているし、実際はまだ学生の身分ではあるので、主な業務は書類整理や電話番で、代表の事実上の右腕である澤田という男のフォローも大きい。
「きちんと報告しなさい。やることはちゃんとやってもらえないと、俺だっていつまでも庇いきれないよ」
のんびりと、しかし厳しく睨みつけられて、一瞬迷う。
ターゲットと無事接触しました。ついでに寝ました。なんて、言えた話だろうか?
「ターゲットとの接触は、あの後無事にできたんだろう? そのあとは?」
「寝ちゃったんだよね」
――ま、いいか。
あっさりと白状した慶に、壱は驚愕したように目を丸めた。
「……は?」
「いや、だからさ。白井智博と。うっかりセックスしてしまいました」
こいつでも、こんなふうに驚くことがあるんだな。久しぶりに見る、幼馴染の驚愕した表情に、慶はなんだか楽しげな気持ちになる。
「なっ……なっ、何言って……」
ふいに、隣のスペースから、バサバサと大仰な音がする。
そこでは藤倉和真――慶が、名を借りた、本来の「藤倉和真」である――年下の幼馴染が、顔を真っ赤にしていた。何か言いたげに、ぱくぱくと口を開いては閉じている。
さすがに現役高校生は初心だなあ、と感心しながら、慶は、壱に向かって自らを指さした。
「だからいっそ、このまま俺で継続しない?」
予定では、本来もう一人の女性が登場する筋書になっていた。怪しまれないように、まずは同性である慶が白井智博に近づく。これは、彼がかなり警戒心が強く、人に心を開きにくい性格であるが故の作戦だった。
そうして白井智博が慶に親しんできたころ、慶が一人の女性を彼に紹介する。その女性こそが、依頼人が望む「白井智博を誘惑する」女になるはずだった。
「なんかさ、あの人、男でもイケちゃうみたいだし。人件費削除でちょうどよかったじゃん」
「うーん……」
苦い顔で、返事を渋っている壱の手元から、慶はさっと書類を取り上げる。今回の件の依頼書だ。そこには、白井智博のパーソナリティと、依頼人である城嶋藍子の詳細情報が載っていた。
「俺は別にかまわない。かまわないんだが……慶、お前、本当に大丈夫なのか?」
「城島藍子」と書かれた文字を、指先でなぞる。
「何が?」
「お前が、依頼人と何かあったのは、薄々俺たちもわかってはいるんだ。お前のことだから、心配はないとは思っているよ。それでも……」
今回の件に強く志願したのは、何よりも、この女の存在があったからだ。
きっと、この聡い幼馴染にはばれている。それでも。
「俺が私情を挟むとでも思ってんの? 心配しすぎだよ、壱」
もう、何年も前の話だ。自分はまだ幼かった。おそらく、城嶋藍子も。もう、自分の顔など覚えてもいないだろう、残酷に自分の幼い心を踏みにじった、あの女は。
「……俺のさ、クソつまんねー人生に、こんなに楽しい仕事教えてくれたこと、感謝してるよ」
少しばかり複雑な家庭環境に育ち、仮面をつけて生き続けることを選んだ慶を、この仕事に誘ったのは、ほかの誰でもない壱である。彼は的確に、自分の才能を見抜いた。幼いころから、実の父親にさえ心を開けず、家族を欺いてきた慶には、赤の他人を欺くことなど、たやすい。
もちろんこの事務所には、慶が顔も知らないスタッフが何人もいる。これを本職としている人間もいれば、慶のように、表向きは普通の学生ながら、トリックスタッフとして働いているような人間もいるのだろう。
「大丈夫だよ、壱。俺はきっとうまくやる」
――感謝を、している。ただ、欺くだけだった人生に、欺くことによって、仮の恋愛感情を得ることさえできる仕事にありつけたことに。
自分ではない、別人の名前を与えられ、別人の人生を与えられ、決められた人間と恋をする。――その瞬間、その瞬間。自分はターゲットのことを、本当に愛しているのだ。そうして、ターゲットからも、愛されている。
結末を知っている恋をしている。結末を操作できる恋をしている。
こんな神様のような――楽しい行為は、ほかにはない。
「……わかった。くれぐれも、無理はするなよ」
憂鬱な表情で、それでも賢明な幼馴染は、慶にゴーサインを出した。
――彼は少しあとに、この決断を後悔することになるのだけれど。
仕事上のルールというものが、もちろん存在する。
表立ってやれるような仕事ではない分、依頼人やターゲットに対しても細心の注意を払わなければならない。
そのうちのひとつでも破れば、ペナルティが課せられ、よくて減給、最悪の場合は解雇されてしまう。今まさに、慶がやろうとしていることも、その禁止事項のひとつである。
「久しぶり。覚えてる?」
夕暮れの時刻、ある住宅街のそばで、慶は、その女の前に立ちふさがった。
依頼人の行動パターンも、ある程度聞き及んでいる。今回は、ターゲットと依頼人がかなり親密な仲なので、なおさらだ。だから慶は、この女がたった一人で帰宅するこの時間を、容易に知ることができていた。
「……慶、くん?」
「あんたに、義姉サン、なんて呼びかけるのは、皮肉にしかなんねえな」
「そう……そう、だね。寒くない? よかったら、とりあえずあがって。コーヒーくらいなら、出せるよ」
城嶋藍子は、突然現れた自分に、怪訝そうな顔をしながらも、アパートを指差した。笑ってしまう。この女と会うのは、幼少時、勝手な父親によって引き合わされたとき以来だ。自分の父親と、彼女の実母は、再婚して夫婦となった。その新たな戸籍に、彼女の名はない。なのに、大人たちの勝手な都合で、姉弟とは決して呼べない関係の二人は、それに近いという理由で引き合わされていた。お互いに、その場にいるのが不思議だった。
「……俺なんかへの第一声が、「寒くない?」か。あんたも大概、変わってるな」
自分にとって、父の再婚相手――城嶋藍子の母は、決して母親代わりにはなりえない。母だと思ったことはない。ただただ、父の再婚相手だというだけの存在だ。憎みはしていない。なんの感情すら沸かない。
「うん。でも今日は、とても寒かったから。ね、あがって。ずっと、ここで待ってたの? ……あたしを?」
「そうだよ」
うなずきはしたものの、慶はその場を動かなかった。この女の家に上がり込むつもりなど、毛頭ない。立ち話で十分だ。
「どうしたの? ……お母さんが、どうかした?」
「あんたの母親? さあ、元気でやってんじゃねえの? 相変わらず、おやじにくっついて海外だよ。俺だって、おやじの顔なんか一年以上見てないし」
「……そう」
城嶋藍子は、わずかながらに陰りのある顔でうつむいた。ちりちりと、不快に胸が騒ぐ。――ああ、まただ。
「じゃあ、慶君は、あのおうちに、まだ、ひとり?」
この女は、
たやすく人に、同情する。
「ねえ、あがって、慶君。よかったら、ごはん、一緒に食べよう。あんまり上手じゃないけど、それでも、少しなら、何か作れるから」
慶の胸中のざわめきもしらず、彼女は小さな声で、あたしはね、と、続ける。
「お母さんもお父さんもいなくなっちゃった時期、やっぱりあったけど、ごはんを一緒に食べてくれる人がいたのが、すごくうれしくって。それが今でも、うれしいの。だから、よかったら一緒に……せっかく会いにきてくれたんだし」
「何、勘違いしてんの。俺は別に、あんたを懐かしんで会いにきたわけじゃねーから」
つくづく、のんきな女だ。
自分の周囲には、善意しかないとでも思っているのだろうか。
それもこれも、あの、白井智博という男のせいだ。
限りなく自分に近かったはずの女が、今こんなにのんきにしているのは、あの白井という男が、この女をやさしい柵で囲って、壊れないように、そばについていたせいだ。
「……じゃあ、どうして」
「俺ね、白井智博と寝たよ」
それまでのんびりと微笑んでいた藍子は、ようやくここで、目を見開いた。
「……智博さん? どうして?」
「あんたが望んだんだろーが。白井智博が誰かになびいて、婚約破棄するようにって。……てかさ、昔一緒にメシ食ってくれたのって、あの人のことだろ。それをこういう手段で捨てようとするなんて、あんたもすごい女だね」
「……まさか」
ゆっくりと瞬きをしながら、藍子は慶の言葉を咀嚼するように目を伏せた。
「そう……ああ、……そうなんだね」
なんて偶然……と、藍子は小さくつぶやいて、目を固く閉じた。
「本当に、動き出してしまったんだね。あたし、なんだかずっと……現実感がなかったから。しかもそれが、慶君だなんて」
「何いまさら言ってんの。前金まで振り込んどいて」
「うん、そうだよね。ごめんね、……この間お兄ちゃんに会ったときも、ふつうだったから。まさか、もうスタートしてるなんて思わなくて。ああ、なんか……本当なんだなあ」
この女は、やはりどこかずれている。こんなふうに、しみじみとした感慨深い反応が返ってくるとは夢にも思わなかった。要は、天然とかいうやつである。扱いにくいこと、この上ない。
「俺ね、あんたの顔を見たかっただけなんだ。あんたがどんな顔をして、大切だったあの人を捨てようとしてるのか、見てやりたくて」
――笑ってやりたくて。
思い出すのは、幼い日。白井智博に肩を抱かれ、大切そうに守られながら、去って行ったこの女の背中だ。
この女は、あの男がいるから強いのだと悟った。
両親に見放され、限りなく自分に近い存在でありながら、見下すように自分を憐れんでみせるのは。
「あんたをずっとずっと守ってきてくれた人を。……どんな気持ちで捨てようとしてるのか、見てやりたかったんだ」
さみしいとさえ言えなかった自分と、さみしいと叫ぶことをした彼女と、何が違ったのか。
藍子は僅かに痛みのある表情で顔を伏せた。
「うん。あたしは、ずるいから。……少しでも、お兄ちゃんが傷つくところを見たくなくて」
「事情は全部知ってるよ。あんたの願いは俺がちゃんと叶えてやる。仕事だからね。たぶん、成功するよ。だって白井さん、押しに弱いんだもん。――あんたを支えてきた人ってのも、大したことねーよな」
「あたしたち、たぶんもうずっと前から、いろんなことを間違ってきてるの」
慶の皮肉にも、藍子はもう怯まなかった。
「きっと今回のことが、あたしの、いちばんの間違い。でも……」
ゆっくりとつぶやいたきり、藍子は続きを口にはせず、慶に向かって頭を下げた。
「あたしには、何も言い訳できない。……よろしく、お願いします」
そのしぐさを見つめながら、慶はいいようのない嫌悪感が胸に広がっていく感覚を覚えた。藍子にではない。自分自身にだ。
自分はいったい、何をしたかったのだろう。こんなふうに、この女がこうべを垂れているところを見たかったのか?
「……あんたは、卑怯だ」
こんなふうに、勝利宣言でもしたかったのか?
ばかげている。
「確かにあんたは、あの人を自分じゃ傷つけない。……あの人が俺を好きになったとしても、俺はあの人の前から消える。結果として、白井智博は傷つくのに。あんたは、卑怯だ。あんなに真摯な人に、向き合うこともしないで――」
これはもう、完全に私情だ。それどころじゃない。ただの言いがかりにも等しい。わかっていた。自分が藍子を責める理由などない。そんな立場にすらない。慶自身、この憤りに似た感情の理由もわからなかった。
胸に湧き上がる感情を、かみしめるように、つぶやく。
「……あんた、どうして、あの人を捨てれたんだ」
思い出すのは、あの日、見送った二人の背中。
――あまりにも美しく、慶の心をあこがれで震わせた、ふたりの背中だった。
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