【手記/夏】



 その人の名誉のために、俺はあらかじめ記しておこうと思う。
 コートの中のあの人は、本当に本当に格好がよくて、とても頼り甲斐があって、同じ場所に立っているってだけで、俺はひどく安心してプレーができる。そういうすごい選手で。
 ――いつもいつも暇を持て余していたり、だからって強引に後輩を引っ張り出したりなんてしない人で。
 ……ほんとなんだってば。



 夏休みのある日、(元)部長が仰った。


「七不思議、全部知ってるか?」


 そのとき俺たちが顔を突き合わせていたのは、部活を終えたばかりの部室だった。
「……ウチの七不思議っすか。えーと、俺全部は知らないですよ。3つか4つくらいじゃないかな。おまえ知ってる?」
「さあ……俺、あまりそういう話詳しくないから。敦と同じくらいだよ」
 部員数が極端に少ないため、部活へと頻繁に顔を出してくれている引退済みの先輩たちもその場にいた。清田さんに至っては、ほぼ毎週のペースで練習に付き合ってくれている。ついこの間まで、インターハイ出場に向けて毎日毎日コートに通っていた習慣がまだ抜けていないんだろう。そして珍しく、幽霊部員だった矢野さんまで、今日は練習に付き合ってくれていたのだ。
「全部知ったら不幸になるらしいから、全部知らないんなら知らないんでいいけどな」
 清田さんは、長い髪を一括りに纏めながら笑った。夏とは言え、さすがに七時近くになれば周りは暗くなるというのに、どうしてこんなことを言い出したのだろうと、俺は内心首を傾げる。
「北校舎の踊り場の話は知ってるか?」
「ああ、それなら」
 その話なら、多分有名だ。隣でユニフォームを脱いでいた由成の顔を伺うと、判るよ、というふうに由成も小さく頷きを返す。
「三階の踊り場のことですよね」
 北校舎の屋上は封鎖されていて、実質上生徒は、三階と屋上の扉の前にある小さな踊り場までしか足を踏み入れることができなくなっている。
 人気の少ないその場所は、サボるには最適ではあるけれど、俺たちはそこに一度も足を伸ばしたことがない。
「そう。なんでか知らねえけど、女子の幽霊が出るって噂があるんだよ」
「有名ですよね、その七不思議。結構最近の話みたいなのに」
 要は、その場所にまつわる怪談があるからと、近付かない生徒が多いわけだ。物好きな誰かなら、一度や二度は行ったことがあるかもしれない。
「行ったことあるか?」
「や、ないっす。だって用事ないですよあんなとこ。北校舎って三年生の校舎じゃないですか」
「……ていうかここ男子校やろ。ずっとずっと男子校やろ。ありえへんやん、その七不思議」
 今まで黙っていた矢野さんが、いきなり話に加わってきた。さっきまで黙々と部室の隅っこで着換えていたかと思えば、もう着換えを終えている。素早いひとだなあ、と感心しながら、俺は口を開いた。
「そうなんですけど、理由があるんですよ。その女子、もちろん他の学校の生徒なんですけど、何年か前のウチの生徒の彼女だったらしくて」
 男子高の踊り場になぜ女子の幽霊が出るのかという、その理由を含めての怪談だ。こういう類のものには、やっぱり、あまり気持ちのよくない話がオマケについてくる。
「で、ウチの生徒と付き合ってるときに妊娠しちゃって、それで、男がその子のこと捨てたらしいんですよ。それを恨んでその子が自殺したんです。北校舎の屋上から飛び降りて」
 ――噂ですけど、と付け加えても、矢野さんの眉間の皺は消えなかった。
「妊娠って、ウチの生徒の子どもやろ?」
「そ。なんかひでーヤツだったらしくてな。堕ろさなきゃなんねえのは仕方ないのかもしれないけど、その後が散々。ひどい話があってな」
 俺の話を継いで、清田さんは矢野さんに噂の詳細を語った。話が進む毎に、矢野さんの顔が嫌悪に顰められていく。七不思議に付属するオマケだったとしても、楽しい話ではない。
「――なんやそれ、男の方が悪いやろ。自業自得やん。祟られて死んでまえ」
「俺もそう思うけどな。とにかくソイツを恨んで、屋上で自殺した子がいるんだよ。で、それから屋上が閉鎖されて、その幽霊が踊り場に出てるっていうのが、七不思議のひとつ」
「それ何年前の話や?」
「さあ。噂だからな、詳しいことは判んねえよ」
 七不思議の発祥なんてものは曖昧で、その始まりがいつだったのか、誰にも判らない。ただ、他の七不思議に比べれば、その話は割合最近に生まれたものだというから、信憑性はやたらに高かった。
「ありがちやな。――ほんで今その話持ち出してどないすんねや。まさか今から行こうとか言い出すんやないやろな」
 部長はまたありえないくらいに爽やかに笑って(この人はピアスだの金髪だの長髪だのと見かけが濃いから、全然爽やかには見えない)、開き直ったのかあっさりと頷いた。
「まあそういうことだ。おまえも行くだろ? 矢野」
「行くか――!」
「まあそういうなよ。ちょっと遅くなったけど学校案内ってことでさ」
「遅ッ。一年遅いわ――!」
 清田さんそれはあんまりな言い訳です。
 俺の内心のツッコミを読んだのか、それとも矢野さんのツッコミが効いたのか、清田さんは一度堰払いをしてみせると、改めて矢野さんに向き直った。
「奥村も来るから。おまえだけ仲間外れにしたら後でうるさいんじゃねえかと思って誘ってみたんだけど。行かねえの? いや行かないんなら良いけどさ?」
「……う、」
 清田さんそれはあんまり卑怯です。
 唐突すぎる肝試しに付き合うことに拒絶反応を示した矢野さんは、しかし仲間外れにされるのも厭らしく、暫く声を詰まらせたあと、渋々といったように頷いて見せた。
「……行ったらええんやろ。行ったるわ」
「よっしゃ、そうとなりゃあとは奥村待つだけだな。懐中電灯頼んどいたからさ」
「……用意周到っすね」
 半ば呆れながら呟くと、暇なんだよ、とどこか拗ねたように清田さんは顔を顰めた。
「夏休み暇で暇で仕方ねえの、俺。死にそうなくらい暇で、毎日どうしようって」
「何スかそれ。なら勉強してくださいよ。清田さん受験生じゃないっすか、何のための夏休みっすかー」
 なんだこの人はと、あまりの有様に俺の方が情けない声を出してしまう。
「息抜きだって息抜き。深く考えるなよ」
「いや息抜きって……」
 おまえも来年になれば俺の気持ちが判るはずだと、やけに神妙な顔付きで言われてしまえば、それ以上返す言葉がない。受験生というものは、実際そんなものなのかもしれない。それにしたって清田さん。先輩としてそれはどう。
「敦、早く着換えなよ。風邪を引く」
 気が付けば由成も既に着換えを終えていて、まだ中途半端にユニフォームを着ているのは俺だけになってしまっている。確かに汗をびっしょりかいたユニフォームをいつまでも着ていたら風邪を引くと、俺は慌てて着換えを再開した。
 丁度俺が脱いだユニフォームをバッグに詰め込んだとき、部室の古い扉が軋みを上げて開いた。
「……矢野もいたのか」
「おう。散々脅されたわ、仲間外れにされるとこやった」
 扉の向こうから顔を出したのは、独特の抑揚のない喋り方をする奥村さんだ。この人は本来陸上部のOBなのに、なぜか軟式テニス部の部室にも馴染んでしまっている。矢野さんや清田さんと仲がいいからだろうと俺は単純に考えていたけど、いつだったか由成が「奥村さんはどこにでも馴染める人だよ」と言っていた。
 どうしてか個性的に感じる雰囲気を持っているのに、それは決して強くはなくて、また激しいわけでもない。ただひたすらに静かで静かで静かな雰囲気は、確かに、ひっそりとどこにでも馴染んでしまうものなのかもしれない。空気みたいなものなのかな。俺にはよく判らないけど由成がそう言うんなら多分そうなんだろう。
 奥村さんは静かな目を俺と由成の方へ動かすと、
「……気の毒に」
 まるで、独り言のように呟いた。
「気の毒はねえだろ、俺が悪者みたいじゃねえかそれ」
「違うのか」
「違うよ。夏休みの思い出のひとつだろ。これくらいしか楽しみがねえってのも考えもんだけどな。――よし、工藤も楠田も着替え終わったな? じゃあ行くぞ、あんま時間下がりすぎると警備員きちまうから今のうちに回ろうぜ」
「え、は、はいっ」
 一人やる気満々の清田さんに急かされて、俺は慌しくバッグを持ち上げる。早速部室を出て行った三年生組に遅れて、俺と由成は部室を出た。
「敦、日誌は」
「もういいよ、明日やっから」
 こうしている間にも清田さんたちはさっさと校舎へ向かっている。早く戸締りをして追いつかなければならないけれど、大雑把な俺は鍵をどこに仕舞ったのかをよく忘れてしまう。バッグの中、いやサイドポケットか。……あ、違った。
 制服のポケットから鍵を取り出しながら、そういえば、と俺は首を傾げた。
「……なあ由成」
「何?」
 まだ手に馴染まない鍵で扉を施錠しながら、俺を待ってくれている由成に尋ねる。
「俺たち、いつ参加表明したっけ」
「……さあ?」
 由成は、仕方ないなあとでも言いたげな顔で笑っている。
「――最初から頭数だったってことだろう。俺と、敦と」

 そのようにして、強引な(元)部長の手によって、俺たちは肝試しに参加することになってしまった。




「やからってなんで懐中電灯ひとつしかないん……」
「しょうがねえだろ、奥村んちにイッコしかなかったっていうんだから」
「おまえんとこからも持ってきたらよかったやんか。五人で懐中電灯一個って、えらい心許ないでー……」
 そんなことを言いながらも、しっかり懐中電灯を握り締めているのは矢野さんで、その少し後を清田さんがのんびりと歩いている。矢野さんはあまりこういう類のことが得意じゃないのか、一歩一歩恐々と歩いている感じで、逆に清田さんは端から怖がっていないようだった。
「悪かった」
 丁度、俺と由成の前を歩いていた奥村さんが、呟く。俺たちに向けられた言葉なんだろうかと一瞬の間を空けてしまった俺を余所に、由成が「いえ、」と笑って首を振った。
「楽しいですよ。……ね」
 由成が俺に同意を求めて視線をよこすので、俺は慌てて頷いた。
「清田が無理矢理誘ったんだろう」
「いや無理矢理っていうか、無理矢理かもしんないスけど。俺けっこうこういうの好きだから全然大丈夫です」
「……そうか、ならいい」
 全然よくなさそうな声音で奥村さんはそう言ったけれど、もしかしたら、ここが暗がりじゃなければ、ほんの少し笑っている顔が見えたかもしれない。そもそも奥村さんが、こんな遊びに参加していること自体が不思議に思えてならなかった。こういう悪ふざけみたいなことは好きじゃなさそうに見えるのに、やっぱり清田さんに無理矢理引っ張り出されたんだろうか。
「……奥村さんは大丈夫なんですか」
「……何が」
「あまりこういうことが好きじゃなさそうだから」
 由成も同じことを考えていたらしい。全く同じ疑問を口にして、首を傾げながら薄暗いだけの廊下をのんびりと歩く。
「好きじゃない」
 奥村さんは由成の言葉をあっさりと肯定した。
 なんですかそれ、と思わず声に出して笑ってしまった俺に視線を向けて、――奥村さんはどうやら笑ったようだった。
「たまには付き合ってやらないと、拗ねる」
「清田さんですか?」
「――そう」
 そう言って笑った、暗闇でもギリギリ見えた奥村さんの表情が、あまりにも穏やかであまりにも自然な笑顔で、
 ――あれ、と思う。
 何となく覚えがあるようなこの感じは何だろう。
「あ、そっか」
 似ているんだ。直感的に思った。
 珍しく奥村さんが見せた笑った顔と、よく似たものを、俺は頻繁に見ている。
「奥村さん、清田さんのこと好きなんですね」
 そうだ、それだ。由成が恭一さんのことを話す、そのときの顔によく似ているんだ。気付いて口にした俺の言葉に、なぜか由成と奥村さんが凍り付く気配がした。
「――……」
「え、違うんですか。嫌いなんですか!?」
 慌てて由成を見上げると、何とも言えない顔で黙り込んでいる。焦って声を上げた俺に、長い長い沈黙の後、奥村さんが首を横に振った。
「いや、そうじゃない。……驚いただけだ」
 それだけ言い残すと、奥村さんは歩く速度を速めて俺たちから遠ざかって行った。何か悪いこと言ったっけ、と首を傾げる俺に、由成が「今のは敦が悪いよ、」と溜息混じりに呟く。
「嘘、なんでそーなんの?」
「……敦、俺のこと好き?」
「はあ? 何だよいきなり。そんなこと訊くなよ、恥かしいだろ」
「……そういうことだよ」
「――ああ!」
 なるほど。
 思わず納得してしまった俺を横目に見て、由成は頭を掻く。
「何でだろうね。敦はたまにすごく無神経だ。いつもはそうでもないのに」
 さり気無くひどいことを言える由成を一睨みする。
「うっせ。なんかそういうのじゃないんだって、俺がおまえのことスキとかきらいとかそういうんじゃなくてさあ」
 由成の言い分に一度は納得したものの、納得のできない部分が小さなしこりのように残っていた。
「そういうんじゃなくて、おまえが恭一さんのことスキな感じ。そういうのっぽかったんだけどなあ」
 往生際悪く足掻いてみた俺を、由成はひどく複雑そうな顔で眺めて、
「……問題発言」
 と嗜めた。
 そうかもな。
「……でも悪い意味じゃねーよ? そういう深読みしてるわけじゃなくってさ」
「俺に言い訳しても意味がないよ」
 自然と小声で囁き合っていた俺たちに、清田さんが声を張り上げた。
「ちゃんと着いてこいよ、こっちだから」
 主に三年生が使う教室の多い北校舎だから、当然先輩たちが先を行く。見れば清田さんは階段を上がろうとしているところで俺たちを待ってくれていた。
「あ、すみません」
 すぐ行きます、と足を進めた瞬間、いきなり足元がふらついた。
「うわっ!」
「……敦?」
 何もない場所で前のめりに躓きそうになった俺に、由成が怪訝そうに声をかける。
「わり、なんでもねー」
 今のはなんだろう。そう思いながらも、由成に首を振ってみせてから、前を行く清田さんたちに追いつこうと俺は軽く駆け出した。
 ――今のは何だろう。
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
 床がまるでスポンジみたいに、ぐにゃりと歪んだ――ような気がしたんだけど。



 三階までは、何の問題もなく進めた。俺がさっき感じた違和感を除けばの話だけど、俺以外は普通の顔をして歩いているから、やっぱりさっきのは俺の気のせいなんだろう。
「何もねえなー」
「あるわけないやろ。噂や噂、そんなもん信じてどないすんねん」
「別に信じてるわけじゃねえよ。ただ何かあるかもしれねえっていう期待感とかな。スリルとかな。……なあ?」
 同意を求められても困る。俺は黙ったまま苦笑を返した。スリルも期待感もあることはあるけれど、もしも何かあった場合、清田さんはどうするつもりなんだろう。きっと何も考えていないんだろう。この人はこういう人だ。
「矢野、ちょっとそれ貸せ」
 ただひたすらに前しか照らさない矢野さんから懐中電灯を奪って、清田さんは天井や壁、足元などをあちこち照らし始めた。
 問題の踊り場が見上げられる階段までやってきても、異常は見付からない。
「やっぱり噂は噂か。それとも見えるヤツには何か見えたりすんのかなあ。おい矢野、おまえちょっと踊り場まで登って見て来い」
「殺すで」
「近くに行かないと何にも見えないのかもしれねえだろ」
 清田さんは呑気にそう返し、踊り場に懐中電灯の光をあてると、それを左右に揺らした。
 やっぱり何も見付からない
 期待外れだったかなという気分と、何もなかったことへの安堵感とが半分ずつくらいに混ざり合って、俺はそっと息を吐く。どうしてかさっきから呼吸がうまく出来なかった。緊張していたのかもしれない。
「……敦、」
 深呼吸を繰り返していると、由成が声を潜めて俺の名前を呼んだ。なに、と尋ね返すと、由成は少しだけ眉を寄せてみせる。
「……息苦しくないか」
「……おまえも?」
「うん。……階段を上る前くらいからかな、それからずっと。変な感じだった」
 ――それなら、丁度俺が足元に違和感を覚えたときだ。
「よ、よしなりっ……」
 言い様のない焦燥感みたいなものが胸に競り上がってきて、声が上擦る。
 俺だけじゃなかった。俺だけじゃなかった、なら――
「俺さっき、床が変になってるみたいな感じになってッ……」
 気のせいじゃなかったのかもしれない。あのとき感じた、床が歪んだ感触は、本当だったのかもしれない。
「清田」
 あのときの違和感を伝えようと口を開いたとき、今まさに階段へと足をかけようとしていた清田さんを、奥村さんが呼び止めた。
「多分、行かない方がいい」
「は? なんで?」
 道連れにするつもりなのか、清田さんは嫌がる矢野さんの腕を掴んで踊り場へ向かおうとしていた。
「おまえひとりで行かんかい! ええ加減にせえや!」
 矢野さんは必死に抗っている。どうやら心底怖がっているみたいだけど、俺や由成が感じている息苦しさはないようだ。清田さんに至ってはけろりとしている。
 行かない方がいいという言葉には、同感だった。強引でもいい。引き止めた方がいい。
「清田さん、マジで――」
 行かない方が良いです。清田さんを引き止めるために足を踏み出して、そう続けようとした言葉は、我が身に降り掛かった突然の異変に掻き消された。
「――うわあッ!」
「敦!」
 咄嗟に思い切り叫んでその場に膝を着いてしまった俺に、由成が慌てたように駆け寄ってくる。
 ――今のは、
「工藤、どうした?」
 子どもみたいにあんなでっかい声を出してしまって恥かしい、そう思う以上に、強烈な恐怖感に身体が竦んで動かない。
「いいいいいいまっ、俺なんか足引っ張られ……っ」
 確実に、何かが、今。
 清田さんに歩み寄ろうとした俺の、足を。
 ――掴んで止めた。
 口が上手く回らない。ばくばくと心臓の音が煩くて、そのくせ手足だけがひんやり感じる。この奇妙な感触は何だろう。
「……大丈夫?」
「……じゃないかも。あんま……」
 立ちあがろうとするものの、足元が覚束無い俺を、由成の手が支えてくれた。途轍もなく厭な予感がする。これはとても、よくないことなんじゃないだろうか。
「……おい工藤、今の本当か?」
「足、引っ張られたって……」
 驚きを露わにした清田さんと、顔を真っ青にしている矢野さんに続けて尋ねられて、由成にしがみ付いたまま俺はこくこくと頷いた。
 今のは錯覚でも気のせいでもない。そんなものにできない。
 まだ感触が、残っている。
「清田」
「……んだよ」
 全員が愕然としている雰囲気の中、奥村さんがひどく静かに口を開いた。
「女じゃない」
 ――そうとても厭な、予感、が。
「…………」
「……何?」
 どこか恐々と訊き返した清田さんに、奥村さんはいとも簡単に、至極あっさりと答えを返した。
「だから、そこにいるのは女じゃな」
「判った――! 判ったもういいッおまえはそれ以上喋るんじゃねえ――!」
 奥村さんの言葉を遮るような清田さんの叫びを合図に、俺たちはその場から駆け出した。
 とりあえず走った。死ぬほど走った。
 奥村さんだけがなぜか動じていなくて、淡々と最後尾を走っていたらしかった。(ちなみに先頭は矢野さんだった。さすが元陸上部なだけあって早かった)
 こんなに苦しい思いをしながら走ったのは、試合でも中々ないかもしれないと俺はぜえぜえ息を切らせながら思う。恐怖感というのは、すごいものらしい。走って走って走っている最中、俺にこんな思いをさせた清田さんを少しだけ恨んだ。
「うっわ、めっちゃ怖ッ! 俺背中ぞくってなったで!」
 校門まで一目散にダッシュして、漸く辿り付いた瞬間に、矢野さんが叫んだ。
「つか男って……奥村それ、どういう意味だよ」
「知らない」
「いや知らないってな、だって噂じゃ女って、」
「知らない」
「もうええっ、もうええから話すな――! 終わりや、この話はもう終わりッ」
 さっさと帰ろうと訴える矢野さんに俺は強く同意したかった。足首にまだ違和感が残っていて、それを感じた瞬間を思い起こすだけで嫌な汗が背筋を流れてくる。
 全員が息を弾ませながら校門を出たときには辺りはすっかり暗くなっていて、誰かが「もう九時だ」と呆然と呟いた。
「うそ、信じらんねえ。そんなに経ってたのか?」
 呼吸を何とか整えながら、清田さんが携帯を取り出すと時間を確認する。確かに九時を回っていた。
 俺たちが部室を出たのが、七時前後。もうそんなに時間が経っていたのか。
 ――二時間?
 俺たちは、二時間もの間、何をしていたんだ?
 まるで、違う空間にトリップしていたみたいに――時間を、歪められていたみたいに。
 ぞっと背中が冷えた気がして、俺は思わず校舎を振り返った。あそこで過ごした時間は、十分か二十分かだと思っていた、俺たちは確かにそう体感していた。
 なのに、この時間の開きは何だ?
「……工藤」
 静かな声に呼ばれて、俺は我に返る。
 前を向くと、奥村さんがあのよく判らない表情で、じっと俺を凝視していた。
「それ以上考えるな」
「……はい?」
 唐突に与えられた言葉が瞬時には理解できず、俺は馬鹿みたいにぽかんと口を開いた。奥村さんは構わず言葉を重ねる。
「考えると抜け出せなくなる。君みたいな人が、一番危ない」
「…………はい」
 訳も判らないまま、俺は必死にこくこくと頷いた。
 奥村さんは言葉が少ないけれど、その分やけに威圧感がある。逆らってはいけない。何よりもそれが自分のためだ、そんな気がして、俺は懸命にかぶりを振る。忘れよう。あんな違和感のことは、もう忘れよう。
「そんなに心配しなくていい。足を掴んだのは、君を連れていきたくなかったからだ」
「……連れ、て……って、」
「僕にはよく判らない。理由は――その時代の人にしか判らないことなんだろう」
 奥村さんはそう言って、もう一度だけ「考えるな」と言った。
「君が考えてどうなることでもない。忘れていい」
「……はい」
 俺はただひたすらに頷いた。
 連れていくってなんだ。
 理由ってなんだ。
 色んなことがぐるぐると頭を駆け巡っていたけれど、ただひたすらに頷くことしかできなかった。
 ……忘れよう。そう決意した。
「――敦、大丈夫なのか」
 俺の返事に満足したのか、清田さんの元へ駆けて行った奥村さんの背中をぼけっと眺めていると、肩をやさしく叩かれる。
「由成……」
「さっきから、ずっと様子がおかしかったから。……今日、うちに泊まる?」
 ここからならうちの方が近いから、と重ねて告げられたやさしい申し出に、俺は即刻頷いてしまってから、そろそろと口を開く。
「……泊まってい? ……俺足震えてて家まで帰れる自信ねー……」
 まだ足が震えている俺を見て、由成は心配そうに顔を歪めると、何も言わず、俺のすぐ真横を歩き始めた。
「明るい道、通って帰ろうか。少し遠回りになるけど」
「……悪いそうして……」
 大丈夫だよ、もう何もないよと、時折触れる肩がそう言ってくれている気がして、いつもならありえないくらいに近い由成との距離に、子どものように安心してしまう。ちょっと俺情けなさすぎるんじゃねえのか、そう思ったけれど、敢えて離れたいとも思わなかった。
「……あ、敦が泊まるんなら恭さんに連絡入れておかないと……」
 そう呟いて由成が携帯を取り出し、メールを打っている間に、先輩たちとの別れ道に差し掛かる。お疲れさまでした、といつも通りの挨拶を交わして俺と由成から遠ざかる三人を見送りながら、由成が小さく「楽しかったね」と笑った。
「不謹慎かもしれないけど、……楽しかった」
「……うん。そだな」
 確かに、ああやって大勢で騒ぐのは楽しい。楽しいことばかりじゃなくて、まだ手足は冷たいし、恐怖感は拭い切れていないけれど、それを除けば、まあまあの緊張感だ。
 馬鹿みたいなことであそこまではしゃげるのは、多分今だけなんだと思えば尚更楽しい思い出のうちに後々なるんだろうと思う。
 だけど。
「もう二度とやりたくねーよ……」
「……そうだね」
 だけど、俺は思う。

 ――奥村さんは、いったい何者なんだろう。








【手記/その後】

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結果。
清田→ぜんぜん判らない。
矢野→判らないけどとにかく怖い。
工藤・楠田→少しだけ感じるけど怖い。
奥村→ばっちり。

(笑)

四万打ありがとうございましたアンドリクエストありがとうございました!ラブ!ラブ!


20040218 NAZUNA YUSA