【手記/後日談】



 それからこれは、あの日由成の家に泊めてもらったときに、恭一さんと、たまたま遊びに来ていた雄高さんとかいう人に聞いた話。

 その話を聞いて、俺と由成は、少しだけ反省した。




「あー、その怪談話ってアレだよな」
 ビールを注いだグラスを仲良く傾けていた二人に、由成が事の顛末を報告すると、恭一さんは懐かしそうに頷いた。
「俺たちの代が作った話だろ、確か」
 なあ、と恭一さんが視線を遣った先、雄高さんが、小さく頷いた。
「そんなこともあったな」
「だな。まだ受け継がれてンのか。すげェな、噂ってやつは」
 確か恭一さんは、俺たちより十年か九年前の生徒のはずだ。たかが十年前に作られた七不思議なら、他の七不思議よりも新しくて当たり前だろう。
「やっぱりただの作り話なんですか? あの話って」
「作り話だよ。他校の女子があそこで自殺したってのは」
 恭一さんは頷いて、あっさりと俺の言葉を肯定した。
 あの怪談自体が作り話なら、俺の足を掴んだあの感触や息苦しさ、それから床の歪んだ感じは、一体何だったんだろう。奥村さんは「それ以上考えるな」と言っていたけど、どうしても気になる。
「あそこで亡くなったのは他校の生徒じゃなくて、おまえたちの先輩にあたる人だ」
 ビールを継ぎ足しながら雄高さんがさらりと告げた言葉に、俺は目を丸める。
「え、じゃああそこで人が死んだのは本当なんですか?」
「……俺たちが二年のときの話で、亡くなったのは三年生の先輩だった」
「三年生は丁度、受験で忙しくなってた時期でな、」
 今でもよく覚えていると、グラスをそっとテーブルに戻しながら、恭一さんは呟いた。
「……善いひとだった」


 それは、哀しい話だった。
 とても、哀しい話だった。
「――本当に、いい人だったんだ。俺は少ししか話したことがない先輩だったんだが――おまえは知ってるんじゃねェのか、生徒会で一緒だったろ」
「ああ、生徒会長だった人だ」
 いい人だったと、同じ言葉を口にして、雄高さんは少しだけ哀しそうな顔をした。
「善い人で――なのに、誰もあの人が抱えているものに気付いてやれなかった。遺書の類は残っていなかったらしいが、あの人が飛び降りた後の屋上に、紙切れが一枚落ちていた」
 ――もう二度と、誰も苦しみませんように。
 ――祈ります。
 ――後輩の皆が、自分と同じ思いを味わうことがないように、祈っています。
 綺麗な字で、そう書かれた紙切れだけが、風に飛ばされることもなく、屋上に残されていたらしい。
「あの人は、……偏差値教育の被害者だ」
 それから、学校の体制が大きく変わったと、恭一さんは言った。
 俺たちの高校は、一応進学校と名がついているものの、校風はかなり自由だ。生徒が何をしても、先生はそこまでは煩く口を挟んでこない。生徒自身の自主性を重んじているとか、個々の成長を考えての教育だとか、――事ある毎に、そんなことを言っていることを思い出した。
「俺たちの時代が一番ひどかったんじゃねェのか、多分。校則もありえねェくらい厳しかったしなァ。……俺が進学する気がねェって言ったら、三日くらいかけて説教されたぞ」
「教師にも個人差はあったがな。俺たちの担任は特に酷かった」
「殆ど全員が進学だったからな、ウチは。今はそうでもねェんだろ?」
 尋ねられて、俺と由成は頷いた。今も殆どの生徒の進路は大学や専門学校への進学だけど、最近は就職する生徒も増えている。多分それは、経済的な理由も関わってきているんだとは思う。
 確かにうちの自由度は半端じゃなく、進学校ならもっと大学への進学率とかを大切にするものじゃないかと思っていたけれど。
「皮肉な話だ。あの人が命懸けで訴えたことが、今も守られて続いてる。――命なんて大層なもんを賭けなきゃ、永遠に伝わらなかったと思うと」
 ――やるせねェなァ、と、恭一さんは、どこか苦い声で呟いた。
「それで、どうして俺たちが聞いた話と本当のことが違ってるんだ」
 由成が不思議そうに首を傾げた。
 奥村さんが「女じゃない」と言った意味は、今の話で判った。自殺したのは他校の女子生徒じゃなくて、俺たちの先輩だったということだ。
「恭さんたちが、話を作ったって?」
「作ったのは俺じゃねェって。何となくな、暗黙の了解みたいな感じで――あの人のことを、誰も話せなくなったんだ。あんな理不尽で哀しい話は、……軽々しく面白がって口に出していいモンじゃねェ。だけどあの場所にはできるだけ人を近付けたくもない。そう思った誰かが適当に作ったんだろ」
「……誰も近付けたくないって、なんでですか?」
 ただ面白がられないためだったら、誰もが口を閉ざせばいいだけの話だ。噂は、口にしなければ広がらない。わざわざ別の怪談を作る必要はなかったはずなのに。
 どうしてわざわざカモフラージュしてまで、人避けをしたかったんだろう。
「……生前のあの人が、好きな場所だったんだ」
 グラスに残ったビールを傾けながら、雄高さんが答えた。
「よく屋上にいたところを、皆見ている。何が楽しいのかは知らないが、時間があれば屋上でのんびりしている人だった」
「どっちにしろ、あの後北校舎の屋上は封鎖されちまったんだけどな。あの場所はあの人のもんだ。――それがせめてもの餞だって、そう思ってたんだよ、あのときの生徒はみんな」
 ――祈っています。
 自分に続く、第二の哀しい後輩が生まれないようにとその人が最期に残した言葉に、誰もが胸を打たれたのだと、雄高さんが呟いた。
「自分を追い詰めたものへの恨みじゃなくて、後輩の心配なんかをしているところがあの人らしくてな」
 ――もう二度と、誰かが自分と同じ苦しみを味わうことがないように。
「……俺、階段に近付こうとしたとき、足を引っ張られて……引き止められたんです」
 ただ怖いとしか思わなかった。
 恐怖感しか感じなかったあのときの衝動が、今は姿形を変えていた。まるで違う感情みたいに、あたたかく、そして切なく胸いっぱいに染みていく。
 確か奥村さんは言っていたはずだ。心配しなくて良いと。俺の足を引っ張ったのは。
(君を、連れていきたくなかったからだ)
 最初から、――そう言っていた。
「……ああ、あの人だ」
 ――来るな。
 ――ここに来るな。
 見たこともない、数年前の先輩は、あのとき俺にそう話しかけていたのかもしれない。
「あの人、まだあそこで見てるんだぜ。……自分と同じ思いをしてる後輩がいねェか、見守ってくれてるんだ……」
 恭一さんと雄高さんは顔を見合わせて、少しだけ笑った。それは切ない笑い声だった。
 なんて哀しい話だろうと、俺は改めて思う。
「よしなりー……」
「……うん」
 なんて哀しい話だ。
 そんなふうに命を落とした人がいることを、俺たちは知らなかった。知らないで、ただ単純に、何も感じずに、生活していた。
「俺たち、あそこに行っちゃいけなかったな」
「うん」
 その人が――顔も知らないその人が、自分の命と引き換えに訴えたことは、俺たちのためのものだった。今も俺たちを守ってくれている。
 こんなに哀しい話があるだろうか。
「明日、清田さんたちにも……話そうな」
「……うん」
 由成は静かに頷いた。声が少し震えていた。
 きっとこいつも今、俺と同じ気持ちなんだろう。

 ――誰も、自分と同じ思いをしなくてもいいように、
 ――祈っています。

 そう思うと堪え切れなくなって、少しだけ泣けてきた。

 ――祈ります。

 あなたが今穏やかであるように。
 俺たちは、祈ります。






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END


20040218 NAZUNA YUSA