【狭間で見る夢U】 おわりがきたら・小休止


 焦がれ続けた掌に胸を撫で上げられ、何度目かの吐精に深く息を詰めた瞬間、頭上で歯噛みするちいさな音が聞こえた。それからすぐに腹の中に暖かいものが流れる感触を感じ取る。違和感を感じはしても、異物を流し込まれるその瞬間に嫌悪を感じることもない。ただ放たれるままに受け入れる、そんな身体になってしまった。
 そうしたのは誰だろう。考えれば涙が出そうになって、まさかと胸のうちで首を振る。
「…ッ、…ア……」
 そのままシーツに沈んだ身体を気遣うように動いた由成が、ひどく緩慢な動きで、身体の内に納まっていた熱を引き去っていった。まだ硬さを失っていないそれが狭い場所を擦り抜けて離れてゆく感触すら名残惜しくて、思わず上げた声に唇を噛む。
 強いくせに優しい指は、完全に我を忘れさせてはくれなかった。もう少し、あと少しの強い刺激があれば自分をなくして形振り構わずしがみつくこともできたのに、寸でのところで穏やかになる動きは、一欠片の意識を残したまま、恭一を何度も限界に追い遣った。
「よしな……待てっ」
 意識を保つことを強いられて、羞恥を忘れることも、罪悪感を拭い去ることも許されないまま、またやさしい指先が触れてくる。濡れた際どい場所に伸ばされた指が、萎えた熱を呼び起こそうと湿った音を立てた。もうこれ以上は無理だと懸命に押し留めても、容赦はない。
「――も、……無理だ……」
 弾む吐息の合間に言葉を告げることすら困難で、重たい身体を捩って逃げを打つ。何ひとつ言わない唇が、身じろぐ身体を宥めるように汗ばんだ額に口接けた。
 決して激しくはない、ひたすらに優しくて穏やかな愛撫は、厭ってしまうくらいにいとおしく、胸を切なくさせる。
「――恭さん」
 掠れた低い声に、もう一度だけと囁かれれば、拒絶する力を失うのは当然のことだった。
 もう一度だけ、最後だから。必ずこれを、最後にするから。
 言葉にはならなかった声が聞こえた気がして、瞼を降ろす。目尻を流れた熱い何かは涙だったのかもしれない。それを確認する術もなく、恭一は再び緩やかな波に身体を任せた。
 完全に視界を断ち切ると、濡れた音と互いの呼気がやけに耳につく。最後なら。せめて名前を呼んではくれないか。この身体が強張るほんの刹那に、おまえだけの呼び方で、名前を呼んではくれないか――
 諦めた振りをして、欲しがる身体を知っている。
 鼓膜を震わせる吐息だけを心の拠所にして、これが最後だからと言い訳をした。


 帰る家はとうになく、
 泣くための涙もここにはない。



 白み始めた空の色が、襖の向こうにぼんやり見える。
 現と夢の狭間をさまよいながら見つめた背中は、泣いているように見えた。それが真実か気のせいなのか、恭一に確かめる術はない。由成の背中は振りかえらない。
「……よしなり」
 布団に横になっていた自分とは対象的に、由成は畳に胡座を掻き、襖の向こう側を見つめている。決して振り向かない背中は、意図してそうしているのだろう。
 自分を視界に入れないために向けられた背中は、声をかけても動かない。
「おまえ、ずっと起きてたのか」
 あれからどれだけ時間が経ったのかは朧気で、眠っていたのか、単に意識をなくしていただけなのか、それすらも区別がつかない。けれど思考はやけにすっきりしている。眠っていたのかもしれない。
 尋ねても、由成は何も答えなかった。
 夢みたいだ。
 夢なのだろうとぼんやり思う。
 ほんの泡沫の夢なら幸いだ。完全に失ったと思っていた身体をもう一度手にすることができたのは、なんて幸いな夢だろう。
 ――ああ、朝が近い。
「ちゃんと、忘れろよ」
 振り向かない背中を真っ直ぐに見つめながら、恭一は囁くような声で告げる。思いがけず、やさしい声になった。
「朝になったら忘れるんだ」
 幼い子供に言って聞かせるように優しく、穏やかな声に、由成の肩が反応した。
「……恭さん」
 ほんの少しだけ震え、由成は困惑を帯びた声で呼んだ。まだ駄目だ。まだ境界線を敷けていない。
「決めただろう。……おまえと俺が、決めたことだろ」
 二人で決めたあの境界線が、まだ見えない。――ここには。
「……由成、俺はな、」
 ここには、今何がある。
 この空間に、この空気に、自分と彼との狭間に存在しているものは。
「俺は、ちゃんと、おまえの兄貴になってやる。だから、……」
 言葉の続きを、どうしてか口にすることができずに口篭もる。そうしているうちに、自分が何を言いたかったのかも判らなくなった。
 空っぽの身体には何が残る。
 おまえへの、深すぎる「何か」を消し去ったら、俺には何が残る。
「……あんた、どうして拒まなかった」
 由成は音も立てず、静かに立ち上がると襖に手をかける。
「あんたが一度でも俺を突き放したら、俺は諦められたのに」
 僅かに開いた襖の向こうに、夜と朝が溶け合った美しい夜明けが見えた。夏の朝は早い。早過ぎて、いけない。
「……今度こそ、あんたを諦められたのに」
 踏ん切りをつけられないまま迎えた朝の光が目に痛くて、恭一は今度こそ眠りのために目を閉じた。
 由成が最後に残した呟きを聞かないように瞼を落とすと、すぐに襖がそっと閉められ、足音が遠ざかっていく気配がする。
 ――おまえは狡い。
 眠りに就く心地のよい体勢を探して寝返りを打つと、身体の節々が痛んだ。無理な体勢を強いられたせいか、あちこちに残された噛み跡のせいか。そう考えて、切ない笑みが零れた。噛み跡なら、きっと由成の身体にも残っている。あれは元々自分の癖だ。勢い余って肩や腕に噛み付いてしまう狂暴なくせは、小さなころから変わっていない。
 おまえは気に入ったものならなんでも噛み付いてしまうからと、記憶に残る母の面影が頭の隅で笑っていた。
 自分の癖が感染ったのか、それとも故意にか、いつからか由成は好んで恭一の肌に軽く噛みつくようになった。いつもの仕返しだと笑って。倍返しを覚悟の上で、由成は優しく肌を食んだ。つい先刻も同じように、何度も肌を啄ばんでいた。その痛みすら愛しいなんて馬鹿げている。
 ――どうして、なんて、……訊くんじゃねえ。
 そう、馬鹿げている。
 空っぽの身体に何が残るかなんて、考えること自体馬鹿げている。
 ――おまえだけが。……おまえしか。
 答えはいつだって決まっているのに。
 虚ろに流した視線の向こうに、青白い空が見える。
 ――もう、夜明けだ。




 中途半端に残る眠気に目を擦りながら由成は自室を出た。時計を確認することはしなかったが、見上げた太陽の位置から昼過ぎであることが伺える。うまくいけば六、七時間は眠れた計算になるが、それにしては頭が重い。元より熟睡は期待していなかったが、やはり眠れはしなかった。夢を見たのは眠りが浅かったせいだ。
 ――帰る家はとうになく、
 ――泣く涙もここにはない。
 ああ、あれは――あんたの言葉だ。昔、もう何年も前に、あの人が肩を震わせて泣いていたことを思い出す。あれは確か、この屋敷で起こった出来事だっただろうか。
 古い木製の床を軋ませながら、由成は敢えて歩みを緩めた。重たいのは頭だけではない。どんな顔を見せたらいいのか、迷っているからだ。
 どうしてだろう。最近になって昔のことをよく思い出す。記憶に残っていることすら不思議で、もう完全になくしたと思い込んでいた、遠い遠い、輪郭のぼやけた記憶。
 縋るものが自分しかいないと、泣いていた彼の身体を、小さな腕で抱き締めていた。あなたがしてくれたことを真似するしかなかった腕は、あのときあなたを救えていただろうか。それならばどんなにいいだろう。
 今この腕は傷付けることしかできないから、せめてあのとき、あなたを救えていたら、どんなによかっただろう。
 何年もの時を経て漸く思い出すことができた記憶は、しかし由成の胸を痛ませた。
 あのころ自分は、人間として機能していなかったのかもしれない。そんな不出来で詰まらない人間を、どうしてあんなに愛してくれたのか。
 どうして自分はあの日のあの時間、外なんかに出かけて行った――彼女を死なせてしまった。
「由成さん……!」
 ふいに呼び止められた声に由成は振り返る。小走りで自分に向かってくるのは、家政婦の冨美だった。長いこと楠田に仕えてくれた彼女は、もうそれほど若くはないのだから、無理をしてはいけない。
 普段声を荒げることもなく、屋敷を駆け回ることもない冨美が慌てた様子で駆け寄る姿に、由成は眉を寄せる。
「恭一さんが……」
「兄さんが?」
 気の好い家政婦に無理難題を吹っ掛けて、また困らせでもしたのかと眉間の皺を深めかけたとき、冨美は困ったような顔をして首を傾げた。
「病み上がりですからお止めしたんですけど……聞いてくれなくて」
「……あの人、また何かしましたか」
 それよりも、昨日の今日でこんな時間から恭一が起きているとは思わなかった。夕方近くまで寝て過ごすはずだと踏んでいた由成を、富美の言葉は見事に裏切った。
「ええ。庭中の草むしりを」



 ――何をやってるんだ。
 縁側から恭一の後ろ姿を見つけた瞬間、身体中から力が抜けていくのが判った。冨美が言うには、このただっ広い庭の全ての草をむしってやるのだと豪語したらしい。無謀というよりも愚かだ。勢いよく伸びた雑草を全て取り除くには、日が三度暮れても無理に決まっている。
「……あの人は、自分が病み上がりだって自覚があるのか」
 苦く呟いて、由成は庭に下りた。
 地面にしゃがみ込んで無心に草を毟り取っている背中は、あと数分も立てばキリがないと根を上げるはずだ。とはいえ、恭一がギブアップするまで待ってやるつもりはない。病み上がりの上に腰でも悪くされては堪らないと、由成は恭一に向かって足を踏み出した。
 足音で自分の存在に気付いているはずの恭一は、しかし手を休めない。
「……もうすぐ業者に頼んで綺麗にしてもらうつもりだったんだ。あんたが無理する必要はない」
 どう声をかけようか、ほんの一瞬だけ迷う。迷って、結局口にできたのは、そんな当たり障りのない言葉だった。
「もうすぐっていつだよ」
 返ってきた恭一の声も何の変化はなく、いつも通りの調子だった。そう、おかしいくらいにいつも通りの、少しふてくされたような独特の喋り方で。
「俺には判らないよ。父さんが言ってたことだから」
 由成は、この庭の春を知らない。
 幼いころの記憶は朧気で、思えば過去一時的に楠田に帰っていたときも、夏から冬を過ごしただけだった。
 この庭は、春にはたくさんの花を咲かせただろうか。夏の陽射しに誘われて今ではこんなにも雑草が生い茂っているけれど、また季節が巡れば美しくなるだろうか。
 女の涙が零れた跡には花が咲く。何の童話だっただろう、とぼんやり思う。きっとこれも、恭一が昔話して聞かせた優しい物語のひとつだ。
「……あんたひとりで草むしりなんてしていたら、また身体を壊す」
「そんなにヤワじゃねェよ」
「自覚してくれ」
 陽射しは強い。下手をしたら日射病にかかってしまう可能性だってあるだろう。それなのに一向に立ちあがろうとしない恭一の背中に、由成は微かに息を吐いた。
 あなたの夢を、見ていた。
「――恭さん」
 指先の動きがほんの一瞬だけ止まる。瞬きをしていれば気付かなかった短い刹那を、由成は見逃さなかった。
「恭さん、」
 恭一は返事を返さなかった。またすぐに手を動かし、雑草を毟り出す。
 由成の呼ぶ声に反応を返さない、それが、恭一の応えでもある。
 ――忘れろとあなたは言った。
 あなたの夢を見たばかりで。
 もう太陽の陽射しは強くて、春の気配は僅かにも残っていない。なのに、なぜ薫る。なぜ春のやさしい香りが、こんなに胸を痛め付ける。
「草むしりぐらいちゃんとやっとけよ。せっかく楠田には綺麗で広い庭があるんだからよ、手入れしてやんなきゃかわいそうだろう――」
 やがて恭一は何事もなかったように口を開き、そっと呟くように言った。
「……うん」
「秋に雑草が生えまくってたらブッ殺すからな」
「うん」
 指先を土に汚しながら、何度も懲りなく生える逞しい雑草を抜いてゆく。指が繰り返す単純な動きから、目を反らせなかった。
 知らなかったんだ。
 知っていたはずのことを知らなかった。
 ――帰る家はとうになく、
 守られていた、この人の強い腕に。
 ――泣く涙もここにはない。
 俺は。
 そうやって泣いたあんたを、長い間、思い出すことすらしてあげられなかった。
 後悔や哀しさに似た気持ちと、しゃがみ込んだ背中を抱き締めたい衝動を殺して、由成は青い空を仰いだ。厭味なくらいに透き通った綺麗な空は、夏が近いからだとふと思う。もう夏なのかもしれない。気が付かないうちに、きっと季節は変わっていた。
 本当は、あなたの家になりたかった。
 あなたが帰ってくる場所になりたかった。
 それが叶わないのならあとひとつ。せめて、もうひとつだけ。
「――俺はまだ、あんたの涙を覚えてる」
 あなたの涙が、確かにある。忘れろと恭一は言ったけれど、忘れることなどできるはずがない。ただそれだけを覚えておくことは、まだ、許されるだろうから。
 恭一は、二度と振り返ってはくれなかった。
 やさしくて痛い、激しくて切ない、あの季節がやってくる。自分だけを取り残して、季節は巡る。何度も、何度も。
 ――さあ。
 戻ろう。
「兄さん」
 自分が望んだ、あなたが受け入れた関係に戻ろう。
「……俺も手伝うよ」
 袖を捲りあげ、隣にしゃがみ込んだ由成に、恭一は地面から視線を上げた。
 漸く重なった視線の先で、恭一はそっと笑っていた。






END

 







20040418 遊佐なずな