あれは誰の言葉だっただろう。霞みがかった意識で虚ろに思う。声は酷く遠かった。
――帰る家はとうになく、
――泣く涙もここにはない。
あれは誰の言葉だっただろう。
まだ残っているのは記憶か心か、それすらも定かではないのに。
あなたの泪を未だ覚えている。
「――いつから俺は、おまえの緊急連絡先になったんだ」
苦々しい声で呟いた雄高の声が、どこか遠くで聞こえる。それはぼんやりとエコーがかって、素直に鼓膜を打ってはくれなかった。
いつもなら与えられた軽口には百倍の罵倒を思いつく脳も、さすがにこの状況では上手に動こうとしない。
「……悪かったな……」
そうやって涸れた喉から押し出した声に、雄高が盛大に顔を顰める。
右腕を動かすと、細く繋がる管の先に定期的に雫を落とす袋が見えた。点滴だ。こんなものを身体に繋げられたのは、肺炎を起こして入院した小学校低学年のとき以来だ。そう思うとやけにおかしくなって、恭一は呼吸だけで笑う。健康には自信があったはずなのに、こんなことになるなんて想像もしていなかった。
「……腹減った……」
「食欲はあるのか」
「ある。……飯食いてェ。食っちゃいけねェのか、こういうときは……」
「医者に聞け。俺には判らない」
冷たい返答だ。しかし、何よりも雄高らしい。冷たくあしらってみせるくせに、彼はきっちり恭一の入院に必要なものを持って来てくれている。相変わらず便利な幼馴染みだ。合鍵を渡しておいてよかったとしみじみ実感した恭一の耳に、重たい溜息混じりの声が届いた。
「お袋の言っていた通りになったな」
「……おばさん、何て?」
「由成がいなくなりゃおまえが不精するのは目に見えてる。そのうちぶっ倒れるはずだってな」
「大当たりだ」
つい先日、締め切り明けで不精していたのが祟ったのか、いつの間にか空になってしまっていた冷蔵庫に肩を落とした結果、馴染み深い梶原家を訪れたばかりだ。そのときにも彼女に心配されていた記憶がある。
「――やっぱおばさんには敵わねェわ」
倒れた。
見事にぶっ倒れてしまった。
倒れたという自覚もないまま、自宅で死んだように眠っていた恭一を病院まで運んでくれたのは、担当者の山内だったらしい。ここに雄高がいるということは、山内が連絡を入れたのだろう。山内とて一日中恭一の世話をしてやれるほど暇ではなく、ならばと彼が思いつく連絡先が雄高であっても不思議はなかった。いったいいつから雄高は自分の緊急連絡先になったのか。先程雄高が言った言葉を繰り返し反芻してみれば、おかしさに笑みが漏れた。
「……山内さんに迷惑かけちまったな」
「随分心配されてたぞ。時間を見付けたらまた来ると言っていたが、断っておいた」
「あのな、あのひとは俺の客だろ。勝手なことしてんじゃねェよ……」
「これ以上人様に迷惑をかけるな」
雄高の母である陽子が心配していたのは、ずばりこのことだ。彼女の予想は正しく当たり、不精が祟って恭一は身体に異常をきたしてまった。
「どれくらい食ってなかったんだ」
「……さあ。わかんねーな。いちいち数えてねェよ、そんなもん」
とは言え一週間も二週間も飲まず食わずでいたわけではない。ほんの少し根を詰めすぎて、ほんの少し食事に手を抜いた、恭一にしてみればそれだけのことだ。まさかそれだけで、倒れるとは思ってもみなかった。
「冷蔵庫、酒しか入ってなかったぞ」
「……だろうな」
「腹が減りすぎてぶっ倒れるなんて、おまえはいつの時代の人間なんだ」
「……そうだな」
この飽食の時代、呆れたことに栄養失調一歩手前という情けない状態で倒れてしまったのだから、少しくらいの罵倒は甘んじて受けるべきだ。小言にやる気なく反応を返す恭一に、雄高がいっそう眉間の皺を深め、荒々しい仕草でベッドの脚を蹴った。
「……おい、」
間違っても病人に対する態度ではない。それでもこれが雄高なりの抗議、そして心配の表現だと知って、ほんの少しの苦笑だけを零す。悪かったよ、と呟く声も掠れ、それにまた不機嫌そうに靴先がベッドを蹴った。これ以上は喋らない方が身のためかもしれない。
「飲み物なら今和秋が買いに行ってる。腹は膨れないだろうが、少し待っとけ」
「矢野も来てんのか」
恭一は目を丸めた。意識のないままに病院に運ばれ、目が覚めたときには既に雄高はこの病室にいたのだ。共に矢野和秋が来ているとは思いもしなかった。
「山内さんから連絡があったとき、たまたま一緒にいたんだ。置いてくるよりはましだろうと思って連れてきた」
「……賢明だ」
雄高にしては上出来な判断だ。下手に事情を知らせずに遠ざけるくらいなら、無理矢理にでも手元に置いておいたほうがいいと学習したらしい。それで正解なのだろうと、ぼんやり思う。矢野和秋と梶原雄高という人間が上手く折り合って生きていくのは、多分それが一番いい。
「成長したじゃねえか」
「おまえには言われたくないがな。――暫く仕事は休みだそうだ」
山内からの言伝なのだろう。身体を少しは休ませろと言う意味だろうが、そういうわけにはいかない。
「山内さんのところは休みでも、もう一件別の仕事が入ってんだよ。来月の頭が締め切りだ。……俺はいつ退院出来る?」
「知るか。俺はおまえの保護者じゃない」
それはそうだと納得して、恭一は黙り込んだ。担当医に会って自分が直に質すしかないだろう。とはいえあまり悠長なことは言っていられない。すぐに退院が無理でもパソコンを持ち込むことは可能だろうか。考えれば考えるほど気が急いた。早く、早く。思考の一部はそうやって己を急かすのに、こんな状態で碌なものを書けるかと自分を罵る声がした。栄養が足りないせいか、思考が纏まってくれない。
疲れた。
何も考えないよう、余計なことを背負い込まないよう、努めて仕事にだけ没頭してきた。だからなのか、こんなにも疲れてしまっているのは。
「……眠てえ、」
「寝ろ」
ぶっきらぼうな雄高の声に許されて、恭一は瞼を落とした。空腹は確かに感じているのに、それ以上に身体が重い。指先も、瞼も、上手く動いてはくれないから、今は眠りに就こう。そうして落ちた闇は、しかし長く続かなかった。
割り当てられた個室の戸が勢い良く開かれる音がした。飲み物を買いに出ていたという矢野が帰ってきたのだろうか。彼にも迷惑をかけたのは確かで、詫びておかなければならないだろうとたった今閉じた瞼を上げる。
緩い動作で流した視線の先、予想を裏切った人物を見つけた恭一は、驚愕に瞠目した。
もう大学は終わっている時間だろうと思う。いつものラフな私服ではなく、何故かスーツを纏った彼は、険しく表情を歪めて恭一を見下ろしていた。
「……な、」
間違っても彼は、他人を見舞う余裕などないはずの人間だ。
あれから直に会って会話を交わした回数すら、片手で数えても指が余る。顔を合わせなくなって久しい彼は、時折入る父親からの電話でしか様子を知ることができなくなっていた。
――通学だけでも大変だろうに、加えて仕事の手伝いも良くしてくれている。楠田のやり方に慣れようと、懸命になってくれている。あの子はきっと、いい後継者になる。――そう嬉しそうに語っていた父親の声だけでも、彼が現在どれほど忙しい日々を送っているのかは窺い知れた。大学から帰れば直ぐ様父親にあちこち連れ回される日々が続いているのだろう。きちんと身体は休められているのか、それだけが恭一の心配だった。だから。
「おまえ、なんで……わざわざ」
だからその由成が、ここにいるはずがない。そんな時間も余裕もあるはずはない。こんなところにいるはずはない、――願ってもいなかった。
「――あんたは、」
わざわざ来たのか――そう続くはずだった言葉を遮って、由成が口を開く。
「良い歳をして何をしてるんだ!」
押し殺した恫喝を浴びせられ、恭一は口を開けたまま由成を見上げた。常にない様子に、咄嗟に反応を思い付かない。いつもは穏やかな顔付きをしているはずの由成が、眉を釣り上げて怒りを露わに自分を睨み付けている。これはどういう状況だろう。脳が追いつかない。
「ろくに飯も食べないで、何週間も仕事ばかりしていたら幾らあんたでも倒れるのは当然だ! ただでさえ偏食気味なのに、そんなことも判らなかったのか」
叱られている。そう、間違いなく、自分は今、十も歳が離れた義理の弟に叱られているのだ。これは一体どういうことだと、いつもなら返す憎まれ口を即座に思いつく脳みそは、やはり動かなかった。
「あんたはいつもそんなだから……っ」
「――悪かったよ」
しかし、考えるまでもなく浮かんだ言葉は、するりと口を突いて出た。
「心配させて悪かった。もう二度とこんな馬鹿はやらねェから」
嘘偽りなく、零れるように本心から告げた言葉に、由成は眉を寄せて黙り込む。長い長い、息の詰まるような沈黙のあと、由成はひどく小さな声で「ごめん、」と呟いた。
「病人相手に……こんな大声出して……」
我に返ったのか、由成はそう言って小さく詫びた。しかし恭一自身は何ひとつ謝罪を受ける気などなかった。知っている。由成の怒りがどんな感情から溢れ出したのか、知っている。
「……ばァか、んな大袈裟なモンじゃねェよ」
その感情の在り処を知って、ほんの少し切なくなる。
「由成、おまえ良いのか、こんなところにいて。その格好じゃ親父さんと何か約束があったんじゃないのか」
「うん。……約束っていうか、今日は父さんの仕事関係の人たちと食事会があって、俺も顔を出すように言われてたんだけど、父さんが許してくれたから。雄高さんにお礼を言っておいてくれって言われたよ。きっと迷惑をかけているだろうからって」
「俺は構わない。適所適材ってやつだろ」
「……でも、雄高さんも仕事があったんじゃないのか」
雄高と由成も久し振りに顔を合わせているはずだ。自分の預かり知らぬところで会ってでもいれば話は別だが、恐らくそれはないだろう。ならば正真正銘久々の会話に花を咲かせている間、恭一は音も立てず、久し振りの由成の声に聞き入った。
知っている。この声が激昂するとき、由成がどんな感情を抱いているのか。
怒りを怒りとして表さない。由成が声を荒げるとき、誰かを怒鳴りつけるとき、それは自身の怒りためではないことを、知っている。ならば謝罪される理由などあろうはずもない。その激昂が、心痛から投げ付けられたものなら。
「荷物も、雄高さんが持って来てくれたんだな。ごめん、俺が一度取りに帰れたらよかったんだけど、和秋さんから連絡もらってすぐにこっちに来たから」
「その割には早かったな」
「移動中だったんだ。途中で降ろしてもらった。――兄さん」
他人事のように二人の会話を聞いていると、突然矛先を向けられ、恭一ははっと我に返る。
「……ぁ? なんだよ?」
どこか改まったような由成の声に、僅かに眉間に皺が寄った。申し訳ないと神妙な面持ちをしたのはさっきのが最後だ。さすがにこれ以上の説教は聞くつもりはない。
「退院したら、暫く楠田で過ごしてもらう」
「……何だと?」
「身体が元通りになるまでは楠田で暮らしてくれ。そうじゃないと、今度は父さんがあんたを心配して倒れる」
「あんな糞爺ィの事情なんか知るか。冗談じゃねェぞ、俺はまだ仕事が――」
そう口にした途端、由成の顔が険しさを増したのを見て取り、しまった、と思う。しまった――見事に墓穴を掘った。
「なら、せめてその仕事が終わるまでは楠田にいてくれ」
「だから、仕事があるっつってんだろ!」
「パソコンならうちにだってある。……中途半端な状態で仕事をして、また倒れるつもりなのか」
冗談じゃないと血相を変えてベッドから身体を起こそうとした瞬間、貧血に似た目眩を感じて体勢を崩す。一瞬目の前が真っ白になったのは、決して体調のせいだけではないはずだ。結局起き上がれなかった恭一をじっと見つめたまま、由成は静かに口を開いた。
「あんたが嫌がるのは判ってる。だけど、お願いだから、――俺に、離れなきゃよかったなんて思わせないでくれ……」
どこか弱々しい声に、どこが「お願い」なのだと胸の中で毒吐く。しかしその毒吐きすら弱かった。――そんな声で言われて。脅迫じゃないか。おまえを困らせたくない俺を、脅迫しているだけじゃないか。
「俺もその話には賛成だな」
助けを求めて見遣った雄高は、期待を裏切って由成に加勢した。
「一応は病人の自覚を持って世話になっておけ。じゃないとまたいつ倒れるか判らないぞ。俺も毎日おまえの面倒は見てやれない」
「誰も頼んでねェよ」
赤ん坊や老人でもないのだから、毎日面倒を見てもらう必要などない。そう抵抗するも多勢に無勢で、分が悪いのは圧倒的に自分のほうだった。
「――判ったよ」
真剣な眼差しで自分を見つめている弟は、こちらが頷くまで引くつもりはないのだろう。一旦決めたことは何が何でもやり通す、そんな頑固なところばかりが似てしまった。
何も繋がっていないのに。
血は愚か、心さえ今は繋がってはいないのに。
「その代わり俺のノートパソコン、楠田に運んどけよ」
悔し紛れに呟いた一言に、由成がやっと表情を和らげて笑ったのが気配で判る。例え見ていなくとも、見えていなくとも、そんなささやかな感情の動きさえ手に取るように判ってしまう。
「……ありがとう」
なのに、判らないのは全てなのだと言ったら。
――おまえは笑うだろうか。
入院生活は思うよりも早く終止符が打たれた。退院間際に担当医から「飲み過ぎないように」と釘を刺され、それをしっかりと受け止めた由成に監視される形で、今や恭一から見える範囲にはアルコールの類が一切置かれていない。
面倒だ。これが自分の家ならどれだけアルコールを買い込んでも誰にも咎められない。なのに楠田家では、家政婦すら由成の味方をする。
「由成さんの言いつけですから。恭一さんにお酒はお渡しできないんですよ」
家政婦の冨美は困ったようにやさしく笑い、恭一が使用するために準備された客間に食事を運んでくれる。わざわざ運んでもらわずとも歩いていけると主張しても、「由成さんの言いつけですから」であっさりとかわされてしまう有様だ。仕事に集中するには丁度いい環境ではあるが、どうにも気詰まりを感じてしまう。
「恭一さんは一度集中してしまうとご飯の時間を忘れてしまうからって。三食とお夜食を出すように言われているんですよ」
まるで立場が逆転してしまった。
時間の頃合を由成から聞いているのか、冨美が食事を運んで来るタイミングは殊更によかった。おかげで順調に仕事は進んでいるわ体調はいいわで文句はない。文句はないが、この生活が一週間も続いたころには、恭一はすっかり辟易していた。
由成が忙しいのは真実らしく、楠田に居住を構えてからというもの、ろくに彼と顔を合わせた試しがない。ごく稀に恭一が無理をしていないか確認する程度に部屋を覗きにくるが、すぐに去ってしまう。冨美以外に恭一の部屋を訪れる者があるとすれば、由成が働き者のおかげで得をしている父親くらいだった。
「この監禁状態はどうにかしてくれねェかな」
「人聞きの悪いことを言うんじゃないよ。おまえが一週間前来たときは倒れるのも道理がいくような顔をしていたが、鏡を見てみなさい。今や別人のようだ」
「んなもん見なくたって自分の体調くらい判る」
「判らないから倒れたんだろう」
ああ言えばこう言う。全くこの親父も口が減らない。
冨美が運んできた夜食を片付けているとき、徐に戸を開いたのは庸介だった。丁度仕事の手は休めていたからと相手をしているうちに、すっかり居付いてしまったらしい。胡座を掻き、すっかりリラックスした様子で庸介は呑気に会話を楽しんでいるようだが、恭一は然程乗り気ではない。
「あんたこんなにのんびりしてていいのかよ。由成は?」
まだ由成は帰宅していないはずだ。なのにこの父親は、のうのうと長男の相手をしている。それはあまりにも不公平だ、由成が可哀想だと不満のひとつ口にしても構わないはずだ。
「私もそろそろ歳なんだよ、あまり酷なことは言わないでくれ。由成のことは宗司君に任せてあるんだ。私が由成と一緒にいることは早々ないよ」
「――宗司だと?」
思いもがけず、あまり親交を深めたくない従兄弟の名前を耳にして、恭一は無意識に眉根を寄せた。
「あんなのに任せて大丈夫なのか」
「宗司君はおまえたちの代わりに楠田のやり方を身につけてくれている。由成とも歳が近いし、年寄りの相手ばかりするよりは宗司君を相手にした方が由成も気が楽だろう」
「歳が近いってもな。もうアイツも三十越えたころだろう、由成はまだ十八だ。話が合うとも思えねェが」
確かに楠田の中では歳が近い部類に入るが、問題はそこではない。宗司はとにかく異質だ。恭一でさえ話が通じないと思うことが多いのに、彼が由成の手に負えているのかどうか怪しい。そのうち胃に穴でも開けなければいいがと心配事がひとつ増え、頭を抱えたそのとき、ふいに庸介が顔を上げた。
「ああ、そろそろ由成が帰って来るころだな」
「なんだ、今日は早ェじゃねェか。週末なのに」
「たまには早めに帰って休ませてやらないと、さすがにあの子もしんどいだろう」
そう言って庸介は腰を上げる。
「仕事はどうだ?」
「おかげさまで順調に進んでるぜ、ここにさよならする日もそろそろだ」
恭一の返す皮肉を混ぜた言葉にも、庸介は穏やかに笑うだけだった。
「なら、今日くらいは仕事を休んで、由成とゆっくり話してやりなさい」
「は、冗談だろ」
鼻で笑って一蹴すると、父はほんの少しの苦い笑みを浮かべ、恭一に背を向けた。
「おまえがここで暮らしてくれれば――どんなにいいか」
「それこそ冗談じゃねェ」
「……判っているよ」
そうして庸介の背中は、完全に襖の向こうに消える。
遠ざかっていく足音を聞きながら、恭一は瞼を落とした。
――本当に、冗談じゃない。
この屋敷が自分にとって「家」だったことなど、一度たりともない。そう、ほんの一度も。
それを何よりも知っているはずの父親は、恭一に帰って来いという。恐らくは、もうひとりの息子のためだ。血の繋がっていない、それでも大切なあの子のため。
――動いてるな。
自然と漏れた笑みに気付かないまま、恭一はテーブルに無造作に投げられた煙草の箱に手を伸ばした。
――ちゃんと、家族として。
――この家は動いてるな。
自分がいてもいなくても。
微笑ましく、暖かいはずの事実に、けれど僅かに苦いものが混じる。それを誤魔化すために、フィルタを噛んで煙草を咥えたとき、聞き慣れた足音が鼓膜を打った。
少しだけ迷って、結局煙草に火を点す。アルコールを口にしているわけではないのなら、咎められはしないだろう。この上、ニコチンまでも制限されては堪らない。
「まだ起きてたのか」
じっくりと息を吸い込んで肺に煙を送り込む。その煙を、ふうっと唇で弾き出したその瞬間に、襖が静かに開かれた。それが誰かなんて、足音で判っていた。
「さっきまでどっかのジジィが邪魔しに来てやがったからな。仕事が進みやしねェ」
天井へ向かって吹き上がる紫煙に努めて視線を流しながら、恭一は皮肉った。
「病み上がりのときくらい、早く寝てくれ。昨日も一昨日もその前も、俺が帰るころまで起きていただろう」
「俺ァ夜行性なんだよ。――おまえ邪魔しに来たのか?」
用がないなら帰れと、敢えて険を混ぜた視線で睨み付けるのは、悟られないためだ。笑ってしまう。
「邪魔をするつもりはないよ。……あんたの顔を見ないと、安心できないから」
「……俺は赤ん坊かよ」
笑ってしまう。
――こんな、ちゃちな緊張を由成相手に感じることが、それを必死に押し隠そうとしている自分に、笑ってしまう。
「少し、いいか」
「あァ? ……なんか用か?」
「そうじゃない」
首を振りながら、恭一の許可も得ぬままに、由成は後ろ手に襖を閉めた。ああ本当に笑ってしまう。――この空間に、二人でいることが、それだけのことに呼吸が止まりそうになるなんて。
「……だいぶ、顔色がよくなったね」
向かいに腰を降ろした由成は、伺うように恭一の顔を見た後、わずかに笑みを落とした。
「親父と同じこと言ってんじゃねェよ」
「あんたの顔色があんまり酷すぎたんだ。父さんも随分心配してたよ」
いつも通りの私服でいるところを見ると、今日はそう堅苦しい場所に連れていかれたわけではないらしい。けれどどうしようもなく滲んでいる疲労の顔は、恭一の胸を痛くさせた。
「……おまえの顔もあんまりじゃねェか」
「そう、かな」
「ちゃんと休めてんのか」
「大丈夫だよ。毎日出掛けるような場所もあるわけじゃないし、ちゃんと身体は休めてる。今はまだあまり慣れなくて疲れることも多いけど――あんたは、そんなこと心配しなくていい」
微笑みながら残酷な言葉を口にする。一瞬過ぎった、心臓を焼かれるような痛みを無視して、恭一は灰皿に煙草を押し付けた。
「……心配なんてしてねェよ。テメェの身体が頑丈なのは俺が一番承知してる」
心配しないはずがない。俺がおまえの心配をしないはずがない、それを一番判っているのは、おまえじゃないか。
喉まで出かかった言葉を、何とか飲み込む。
由成はただ静かに笑って、視線を畳に落とした。ふいに訪れた沈黙に耳を澄ますと、静かな空気の中に蝉の鳴き声が聞こえた。ああ、もう蝉がいるのか。そんな季節なのか。
「蝉が……」
「あァ、」
もうすぐ、鼓膜を劈かんばかりに鳴り響く蝉の声に、眠れない夜が続くかもしれない。呟いた由成も、同じ音を耳にしていたらしい。そのことが奇妙におかしくなって、少しだけ笑う。
「今年は夏が早ェな」
こんな何の変哲もない会話をかわす、その空間が切ないと思ううちは駄目だ。
二人きりで過ごすことに、自分だけが違和感を感じているうちは、駄目だ。
もしかしたら由成も同じように、何かを感じているのかもしれない。それならば、尚更いけないと、何かが警報を鳴らす。彼は今すぐこの部屋を出なければならない。――もう、二ヶ月経った。
「……なんだよ」
由成が自分の元を離れてから、丁度二ヶ月が経った。自分を立て直すには充分な時間だった。振り切るには充分すぎる時間だった。それなのに。
思いがけず強い視線で見つめられて、呼吸を忘れそうになる。自分を誤魔化そうと頬を引き攣らせて笑えば、思い詰めた表情で見つめてくる由成が、ふいに手を伸ばした。
顔に何かついてたか――そう茶化そうとした恭一の肩にかかった手が、やがて強い力で身体を引き寄せる。強いというよりも我武者羅に近い腕に肩を抱かれ、気が付いたときには、顔を由成の胸に押しつけられていた。
「今年の夏は、――あんたは、ひとりだろうか」
振り絞るように呟いた声が、頭上から震えながら落ちて来る。
抱き締める腕の力が痛くて痛くて、それでも恭一は声を殺す。腕が伸びてから抱き締められるまでの一瞬、ほんの刹那のできごとを、まるでスローモーションのように見ていた冷静な自分に、気付いていた。
「だろうなあ。テメェが出て行っちまったから、いっしょに花火見る相手もいやしねェ……」
本当は気付いていた。
「俺はひとりだ」
抗いもしなかった。ただその瞬間を、静かに待っていた。待ち望んでいた自分に。気付いていた。
「――もう。なんにも、ありゃしねェ」
抱き締められることを知りながら厭いもしなかった、それは、――それはたったひとつ。たったひとつの欲望に繋がっている。
「……俺は、あんたを苦しめる?」
「わかんねえよ」
気付いていた。隠し通せるものではない。二ヶ月の間、何度この腕を思い描いたか、何度この声を思い出したか。数えるだけで、涙すら滲みそうになる。そして笑いたくなる。
「……訊くなよ。もう、考えたくねェんだ」
二ヶ月もの時間を何に使っていたのだろうと、自分を罵る声が聞こえる。それに耳を塞いで、由成の腕に抱き締められることを、恭一は自分に許した。
愚かだ。愚かで、可哀想な恋心が自分にはまだ根付いている。奪い去れないくらい深く。そして恐らく由成にも、それはまだ深く残っているのだろうと意識した。
「あんたが倒れたって聞いたとき、母さんのことを思い出してた」
ならば、この腕を振り解けるはずがない。
後に後悔することになっても、どれほどの自己嫌悪に襲われようとも、卑怯な自分は、たった今この身体を突き離す理由を見つけられない。
「……恭さんがいなくなるくらいなら、俺が死んだほうがましだ」
切なくて胸に痛い言葉を、由成はいとも簡単に口にする。その言葉は確かに辛くて、何を馬鹿なことを、と頭ごなしに叱りつけたいのに、泣きたくなるのは嬉しいからだ。まだ愛されている。ただそれだけのことが全てを判らなくさせていた。思考が凍り付いて動かなくなる、考えなければならないことを考えられなくなる。振り払うべき腕を、なのにまだ振り解けずにいる。それほどに歓喜している、卑怯な自分は。
それでもこれ以上、何を語る言葉も聞きたくはない。その気持ちも確かに事実で、ならばと恭一は面を上げ、由成の唇にそっと口接ける。
声を奪うために重ねた唇に、由成が僅かに身じろいだ。繰り返す、触れるだけのキスに安心したのか、ほんの僅かに腕の力を緩め、少しだけ遠ざけた身体を見下ろしながら、寂しそうに由成は笑っていた。
「――あんたの身体、こんなに小さかったのかな」
「おまえがデカくなっただけだろ」
身体を後ろに倒され、畳に押し付けられても尚、恭一は拒む言葉を口にしなかった。
「恭さん、」
囁いたのを最後に、由成は口を噤む。同じように恭一も口を閉ざし、見上げた由成の身体に腕を伸ばした。もう何年も前に、ただひとりの母親を殺した身体を。ただひとり憎んだ少年の身体を、宝物のように抱き締める。
言葉は要らないと痛烈に思った。何も言わなくていい。今この瞬間なら吐息だけで生きていける。
衣擦れの音が鼓膜に届いただけで震える身体は、確かに自分のものだ。
この腕を振り払うことが己のためだと知りながら、求めることを止められない。こんな衝動はただの悲しいエゴだと、誰よりも自分自身が知っていた。
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