「それ、いつの話?」
「さあ……出版の話は来てるけど、まだみたいです。なんか手直ししなきゃいけないところもあるからって恭さんが――一年、二年は先みたい」
「そんなに先なんか。よう判らんな、業界の話は」
大袈裟な言い方に由成は笑う。正直なところ、由成にも今ひとつ判らない世界の話だ。書いている内容が内容だからか、恭一は由成に仕事の話を余りしたがら
ない。
恥じることではないと本人も言っているにも関わらず、さすがに官能小説は未成年の教育上よろしくないものだと思っているらしい。
「どっちにしろ目出度い話や。好きなことやって食っていけるんが一番幸せやもんなあ……」
しみじみと呟きながら和秋は敷かれた布団に懐いた。由成という話相手を手に入れているせいか、それほど暇を持て余している様子もない。しかしただでさえ
カロリー消費の激しい風呂に繰り返し何度も浸かったせいで、疲れていることは確かだ。学習して明日は大人しくしてくれれば良いが。
「――ごめんなさい」
「ん? 何が?」
うつ伏せの姿勢から顔だけ上げて、和秋は首を傾いだ。
「明日は雄高さん、矢野さんと一緒にゆっくりできると思うから」
「……謝ることやないやろ、そんなん。こっちがごめんなさいやわ……」
ふっくらと柔らかい毛布を頭から被って、和秋は文字通り撃沈した。
見るからに照れている和秋の微笑ましい一面を具間見た由成は、そっと笑う。明日が待ち遠しいのは和秋だけじゃない。
明日になったらあの人は返って来る。
大人だけで楽しむのは狡いから――。
「もう寝る?」
「……寝る」
「おやすみなさい」
由成は小さく笑ってから、部屋の照明を落とした。
にこにこと機嫌よく笑う恭一というのは、由成にとっても凄まじく珍しい。
「……良いお湯だった?」
「ああ。朝イチだったからな。誰もいなくて俺ひとりだったしのんびり浸かれたし」
普段から不機嫌そうな顔をしている上、例え機嫌が良くとも不機嫌そうに見えてしまう損な顔付きの恭一は、しかし今朝は誰が見ても判るほどに上機嫌だ。
放っておいたら鼻歌でも歌い出しそうである。
「……由成、さっさとそれを引き取ってくれ。気持ち悪い」
早起きして風呂を浴びてきた恭一とは打って変わって、今起きたばかりの雄高は布団から身体を起こしながら顔を顰めて言い捨てる。
気持ち悪いはあんまりの言い草だとしても、確かににこにこ笑っている恭一は可愛らしいを通り越して不気味だった。湯上りでほかほかになった頬に手ぬぐい
を宛てている恭一は、この上なく幸せそうだ。
「こっちの部屋に矢野さん?」
「そのつもりだ。夕飯はどっちで摂る?」
「どっちでもいいよ。――恭さん、荷物運ぼう」
それくらい疲れていたのかもしれないと苦笑する。
温泉に来てここまですっきりした顔をするのは、日頃のストレスや疲れが溜まり切っていたせいなのだろう。
「おまえも今のうちに一風呂浴びとけよ。今なら誰もいねェぞ」
「あぁ、そうする――」
雄高の言葉は、途中大きな欠伸に遮られる。
つくづく珍しい。
「雄高さん、疲れてる?」
「いや。――昨日、そこの馬鹿に付き合って呑んでただけだ」
「何が付き合ってだ。ぐーすか寝てやがったくせに」
「途中で起きてやっただろ、ちゃんと。――由成、和秋と部屋交代な」
「うん。呼んで来る」
由成が部屋を出る際に声を掛けておいたから、そろそろ着換えも済んでいる頃だろう。恭一の荷物を持ち、部屋を出ると予想通り服を着換えた和秋と擦れ違
う。手には自分の荷物を詰めた鞄を持っている。察しが良い。
「はよーございます」
「おう。元気だな朝から」
和秋は恭一に頭を下げてから、由成へと首を傾げて見せた。
「あの人は?」
「部屋です。さっき起きたばっかりみたい」
「風呂入れって言っといたから一緒に入って来いよ。アイツまだ半分寝惚けてやがるから、眠気覚ましにはなるだろ」
隣で笑いながら告げた恭一の言葉に、あれで寝惚けていたのかと内心驚く。やはり雄高のことは、まだまだ自分なんかには判らない。
「今なら人も少ねえし、のんびり出来るぜ」
「そうします。ほな、またあとで」
奥深い、なんて思っているうちに、和秋は恭一の言葉に頷くと部屋へと去って行った。
「風呂場、誰も来ねェとは限らないからな。サカらせんなよ」
恭一がからかうように投げた言葉に、和秋の足が凍り付く。
振り返った和秋は、口をぱくぱくと泳がせて言葉を失っていた。
「……え、あ、あ……」
「――恭さん、」
気の毒な和秋に同情する視線を向けながら、由成は静かに兄を嗜める。
「セクハラ親父じゃないんだから……」
「ルセェ」
まだ固まっている和秋に、「すみません、」と由成は頭を下げた。
「気にしないで。――雄高さんも、そこまで理性がない人じゃないと思うから」
「……いやおまえそれフォローになってねェよ」
可哀想な和秋は今度こそ走り去り、部屋に消えた。
まさか一日に何度も風呂に入るつもりはないだろう、そう思いながらも「今日どうするの、」と尋ねれば、真顔で「風呂、風呂、風呂。」と返される。
冗談ではなく本気を匂わせているのだから恐ろしい。
「――俺は付き合わないよ。ひとりで入って来て。それか雄高さんと」
昨日散々和秋に付き合い、挙句には彼が逆上せたところを見ている身としては、今日くらい温泉三昧で過ごすのは遠慮したい。温泉ならもう十二分に堪能し
た。
「なんでこんなとこまで来てアイツと顔突き合わせなきゃなんねェんだ。風呂入りに来て他に何するってんだ」
「だから俺は昨日で満足したから。もう良い」
かと言って、恭一の言うように風呂にでも入っていなければ何もすることがないのも確かだった。寝るか食うか風呂に入るかだ。それはそれで楽しいのかもし
れないが、遊び盛りの高校生には些か物足りない。
「観光出来る場所なんざありゃしねェぞ――」
そこまで言って、恭一は言葉を区切った。
「……恭さん?」
何かを考え込んでいるような恭一の様子に、由成はそっと声を掛ける。
「……夕方になったら、良いとこに連れてってやるよ」
「良いとこ?」
一人の思考から放たれた恭一は、微笑うとそう告げた。
「唯一の観光名所だろ、多分。もうちょっと時期がズレてりゃ、桜も見れたらしいが――」
「それは良いんだけど、楽しみなんだけど。――俺、夕方まで何してたらいいの」
素朴な疑問を口に乗せた由成に、恭一は何を今更、と言う当然の顔をして答えた。
「だから風呂だろ、風呂」
道は、意外としっかり覚えていた。一度通っただけの道を正しく歩ける自信はなかったものの、さすがに昨日通ったばかりの道順を忘れるほど、脳みそは馬鹿
になっていなかったらしい。
「どこに行くの?」
「もうちょい。――疲れねェだろ、これくらいじゃ。時間はまだ早いかもしれねェ。遠回りしてくか?」
「俺は良いけど、あんた大丈夫なのか。歩いてて――」
結局一日で三回以上の浴湯を繰り返した自分の体力を心配する由成に、恭一は笑った。それくらいでへこたれるほど、柔に出来てはいない。
「体力は確かに落ちてきてるけどな。平気だろ」
「それもあるけど。――あんまり外にいたら、湯冷めする」
近所だからと浴衣のまま出て来た恭一は、しかし少しも寒さなど感じてはいなかった。湯上りのせいも勿論ある。あとほんの数分でも経てば、身体中凍えてし
まうに違いない。
「帰ってからまた風呂入るから良いんだよ」
「――いい加減逆上せるよ」
由成の声は、心配半分呆れ半分と言った感がある。しかし恭一を強く制止することは諦めたらしく、ただ静かに「湯冷めしないうちに帰ろう」と提案しただけ
だった。
「湯冷めしなきゃ良いがな。時間がまだ早ェ」
「だから、何――」
近付いた崖から見える海には、やはり昨日のような夕陽は見出せない。それでも辺りはほんのりと赤く染まっていた。あと少し、ほんの数分も経てばあの燃え
るような夕焼けに出会えるだろう。
「夕日があんまり綺麗だったんだよ、昨日」
「雄高さんと来たのか?」
「あぁ。夕陽と海が目的だったみてぇだな。他にもあちこち撮ってやがったが、たぶん一番の目的はそれなんだろう」
昨晩、同じように再び海を訪れた。
夜の海は静謐で、しかし穏やかなくせに波打つ音だけが激しくて、見えない場所で波立っている海はきっとひどく荒れていたのだろう。遠くから見れば穏やか
でも近付けば呑み込まれてしまいそうになる。夜の海は、そんな姿をしていた。
恐ろしかったと思う。
夜の海は、ただ恐ろしかった。
「雄高さんと何を話してた?」
「色々。――おまえのことだとか、矢野のことだとか、……お袋の話だとか」
気を抜けば飲み込まれてしまいそうなくらいの果てのない闇。
しかしそれは、過去恭一が誰よりも求めたものだ。
「――俺の、本の話だとか」
「やっぱり雄高さんに決まったのか、写真」
「……いや、まだ判んねェよ」
まだカメラマンに雄高を起用するという話は本決まりではない。知らない仲ではない分、気恥ずかしさや躊躇いがあることも確かだった。
それでも多分、あの幼馴染みに頭を下げることになるのだろうと、恭一はぼんやり予感している。あの話は、特別だ。
「まだ、手直しする部分があるって言ってただろう」
「ああ。俺自身もどうかと思ってたしな。子供が読むには――辛い」
「ラストのことか」
由成に読み聞かせた話の中でも、あのストーリーだけは格別に思入れが違っている。そもそも自己投影だなんてこっぱずかしい遣り方を気に入らない恭一が、
唯一自分の感情を、自分の過去を重ね合わせて、織り交ぜた物語だ。
「……そうだ」
主人公の少年は、ラストで死を迎える。
そのラストを巡っての葛藤だった。
「俺はあの終わりは、嫌いじゃないよ」
「……泣いてやがったくせに」
「うん。……悲しかった。悲しいけど、やさしいから。俺は、あの終わり方も好きだ」
絶望の末に世界の終わりを望み彷徨った少年は、長い旅の末にやさしい死を迎えた。望み通り世界の終わりを垣間見て。
そんな終わり方は、果して幸いだろうかと思う。
「世界の終わりを望むくらいに、悲しい気持ちっていうのは、俺にはよく判らない。けど――多分。あるんだろう」
自分が望んだ、子供たちを安らかな眠りへと導ける、そんな優しいストーリーに相応しいものだろうか。
――例えその悲しみが自分自身のものだとしても。
当たり前のように発露した、自分自身の悲しみと絶望だったとしても。
「あんたが書くくらいなら、あるんだろう。そういう……悲しみも。終わり方も」
だからこそ、「自分にしか撮れない」とあの友人は言った。
恭一自身の悲しみを積め込んだ小さなストーリーを、寸分の違いもなく表現出来るのは自分しかないと、そう言ったのだ。
「救いのない、悲しいだけの物語なら要らねェんだ」
母親を失って絶望ばかりしていた頃の恭一を、唯一知る人間だからだ。
見守る人が傍にいてくれることを、幸いなことだと気付くまでには時間がかかった。
無意味に自分に構う雄高を、心の底から厭った過去も確かにある。その時期、自分は幼かったのだろうと、恭一は冷静に思えた。
「救い――」
「あの終わり方じゃ、救いも何もねェだろ。俺はそう思う。だからこそ、……まだ時期じゃない」
その物語が納得の行く最後ではないことは、恭一自身が判っている。実際、出版社からはとっくの昔にゴーサインは出ていた。それでも、もう少しだけ待って
欲しいと恭一が頭を下げて、出版を見合わせている状況なのだ。
「あんまり我侭言ってると、せっかくの話自体も流れちまうからな。そのうち厭でも決着付けなきゃなんねェが。――それまでは、ゆっくり考えるさ」
救いとは何だろうと考える。
それほど大層なものでなくとも構わない。
例えば暗闇に浮かぶ月のように、ネオンに隠れる本物の星の輝きのように、そんなふうにささやかで、存在して当たり前のものであって欲しい。
そんな自分の想いを、託せるラストを迎えさせてやりたいと思う。
「……納得行ける終わり方になったら良いね」
由成はそう言って、小さく微笑んだ。
「簡単に言いやがって」
「だってあれは、あんたの一番に大切な話なんだろう」
憎まれ口を叩く恭一に、それでも由成は穏やかに笑った。
――誰よりも大切な子供に、自分の悲しみを分け与えた最初で最後の物語だから。
その本を閉じた後に、胸に何か残るものがあれば。そんな大仰なことは願わない。
だけどこの悲しみを知ってくれれば。
この悲しみを、誰かが少しでも知って、傍にある何かが途轍もなく大切なことに気付いてくれれば。
喪えないと思っていたものこそ、あっさりとこの掌から擦り抜けていく。それを痛みとして知る前に、一度でもそれを大切にしてくれたら……。
――救われる。
「恭さん」
由成が示す方向に恭一は顔を上げる。海が夕焼けの陽に、薄らと赤く染まっている。かと思えばその一部は綺麗なラベンダーの色をしていて、何色もの光が溶
け合い反射する水面をひどく神々しく見せた。
「綺麗だ」
「あぁ、綺麗だ――」
予想通り由成は嬉しそうに眼を眇めて、夕焼けを見つめている。連れてきてよかった。心から思う。
「……恭さん、寒い?」
「いや、大丈夫だ」
思わず身震いした恭一に、由成が怪訝に眉を潜めた。
寒いわけじゃない。なのに身体が震えるのは、心が震えるのはどうしてだろう。
――きっと、柄にも合わず真面目な話をしていたせいだと、恭一は無理矢理結論付けた。
本当にあの太陽は遠くで燃えているのだろうか。あんなに近く見えるのに。熱を感じられそうなくらい、近くで燃えているのに。
「……朝焼けも、見に来よう」
それなのにきっと、遠い太陽。いつかは沈む――。
永遠に昇っている太陽なんてものは存在しない。少なくとも、自分の胸の中には。
気を抜けばあっさりと闇に飲み込まれる、そんな弱い自分の中には存在しない。
「朝焼けもきっと同じくらい、綺麗だ」
自分の思いも知らず、そうやって穏やかな眼をして微笑んだりするから。
鼻の奥が痺れるように痛い。
「……そんな時間に起きれるかよ」
「ちゃんと早起きして。俺が起こしてあげるから」
綺麗なのはおまえだ。綺麗なおまえに俺がどれだけ救われたかおまえは知らないだろう。知らないだろう、由成――。
――手放せないのは。
俺の方だ。
「……恭さん?」
優しい声で由成が呼ぶ。その声が、少しだけ戸惑っているように聞こえた。
「泣かないで。……俺はあんたといる」
恭一の不安を少しも違わず汲み取った由成は、大きな腕で恭一を包み込むと、そっと囁いた。
「……あんたと一緒にいる。ずっとだ」
永遠を。
誓ってやれるほど、もう自分は綺麗でも純粋でもないけれど――。
「また――見に来ような。ここに」
恭一はそんな酷く曖昧な言葉で、由成の誓いに答えた。――答えることを、誤魔化した。
由成はほんの少しだけ寂しそうな顔をして、恭一の額に唇を押し当てる。
そして、おどけて「冷たい、」と笑った。
こんなにも小さな世界の太陽は沈む。
酷く鮮やかな、美しい輝きを見せて。
同じようにいつか終わりは来るだろう。
せめてそのときに心安らかに在れれば良い。
おまえのしあわせだけを。
安らかに、思える自分でいれたら良い――
――ひとりで逝くには寂しいから。
せめて終わりをと望んだのです――
少年は探している。
悲しみのない終わりを。
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