梶原雄高の一日の始まりは割合しっかりしている。疲れを持ち越してつい寝過ごしてしまったりすることは殆どない。元々二、三時間程
度の睡眠で持ち応える便利な体で、明け方近くまで仕事に励んでも真っ昼間に眠ることもなく、規則正しい生活を送れる人間だった。
朝食で使った食器をのんびりと洗い、ついでに洗濯物を済ませた雄高が車を走らせた先は、友人の楠田恭一宅だった。
これでいて現在多忙な身ではあるものの、今日は仕事関係の用事もある。恭一宅に大切な資料の一部を置きっぱなしにしていることを思い出したのだ。
また来やがったのかと顔を顰められるのは覚悟の上で、雄高は三日振りに友人宅を訪れた。
どうせまだ寝ているだろう――そう予想しながらも開けた玄関は、意外なことに来客を知らせるかのように見知らぬ靴が並べられてあった。
リビングから漏れ聞こえている声は、二つ。ひとつは馴染み深い友人のもので、もうひとつは――
「こんにちは、山内さん」
「梶原さん!」
リビングに姿を現した雄高に、客は腰を浮かせて頭を下げる。
「梶原さんもいらっしゃる予定だったんですか、それはすみません長居しちゃって……」
「気にするこたァねェよ山内さん、コイツが来やがるときはいつだってアポなしだ。三日前も五日前も一週間前だってそうだった。そんなヤツに頭下げるだけ勿
体ねェっての」
ぺこぺこと頭を下げる腰の低い男は、恭一と付き合いの長い編集者の山内だった。デビュー当時から恭一の面倒を見てやっているのは何を隠そうこの山内で、
その世話になっている山内に対しても変わらぬ口の悪さなのは、恭一が恭一である所以だろう。
「おまえが言うな。――こちらこそすみません。仕事の話なら俺は席を外しますが」
「いいえ、別に梶原さんに同席して頂いても不都合のある話じゃありませんし。むしろ好都合で、というか、僕はそろそろ失礼しようかと思っていたところです
から」
山内は言うなり腰を上げ、じゃあお邪魔しました楠田さん、と恭一に向かって深々と頭を下げる。
「まだ時間はありますから、ゆっくり考えてくださいね。――あ、そうそう梶原さん、聞きましたよ。中々評判がよろしいようで。神城君が喜んでました」
「――それはどうも」
山内の言う「評判」とは、恐らく先日売り出された雄高の写真集のことを示しているのだろう。写真集と呼ぶには余りにお粗末で、実際は雄高がこれまで寄稿
したコラムやら小説もどき、旅行記などを一纏めにした単行本だ。ただしその内容は、雄高自身が撮影した写真が占める割合が多かった。神城にしてみれば、そ
の写真が評価されてこその喜びなのだろう。
雄高と編集部の不安を裏切って、その単行本はそこそこに売れたのだ。おかげで出版の話を推したと言う神城の首も今のところ繋がっている。
「写真の方のお仕事も順調に増えそうでよかったですね。ウチからも何かお願いしたときはどうぞよろしくお願いします」
――お願いって。官能小説部門がしがない写真家もどきに一体何をお願いすることがあるんだ。
そうツッコミたいのを堪えて、雄高は「こちらこそ」と微笑みながら山内を見送った。今のは単なる世辞だろう。
「あれ、世辞じゃねェぞ」
山内がいなくなったのを確認してから、恭一が唐突に口を開いた。
「あの人、俺が書きたい話ってヤツを由成から聞いたみてェでな。担当者に声を掛けてくれたらしいんだ」
「ああ――あの童話か?」
「童話ってほど立派なもんじゃねェ。……アレは何て言うんだろうな、児童向け文学か? そんな大層なモンでもねェけどな。山内さん経由で担当の人に何作か
見てもらったんだが……」
「……出版されそうなのか?」
恭一は微かに頷いた。本当は嬉しいのだろうが、それを無理矢理押し隠しているような複雑な表情だ。
「……そうか、そりゃ良かった」
それは初耳だ。驚きに軽く目を丸めつつ、許可を求めずに向かいのソファに腰を降ろした雄高は続けて尋ねた。
「それで、世辞じゃないってのはどういう意味だ」
「――ほんとに不本意なんだがな。おまえと俺の初の共同作業になるかもしんねェ」
恭一は厭そうに顔を顰め、数枚の原稿用紙のコピーを雄高に渡した。共同作業とは何事だと思いながらそれを何枚か捲り、流し読みしただけで、それが官能小
説ではないことだけははっきり判る。
いつ出版されるのか知らないが、つまりこれが将来本になる予定の原稿なのだろう。
「妙なことを言うんじゃない。……それで?」
「カバーやら挿絵やらがな。イラストじゃなくって……写真になる。元々そんなに長い話でもねェ、何枚か写真を挟み込もうって話だ」
ここまで来れば雄高にも話は理解出来る。
「俺が?」
「おまえの名前が上がってるってだけだ。新人のカメラマンを何人かピックアップしてくれてるからまだ判ンねェ、どうしても撮って欲しいっていうヤツがいる
なら、それでも良いって言ってくれてる。だが俺がカメラマンなんか判るはずあるか。北沢さんくらいしか知らねェっての」
「――風景写真は専門じゃないぞ、あの人は」
さっと恭一から渡された原稿用紙を流し読みする。イメージはすぐに沸いた。
求められているのは夜だ。
主人公は――幼い少年だった。喋り方が少し古臭いところを見ると時代物かと思ったものの、そうではないらしい。少年はどことも知れぬ空を歩いている。途
中で辿り着いた星で、砂を食みながら旅をしている。雄高は詳しくを知らないが――所謂、幻想文学と呼ばれるのだろう。
「……星は撮れるか、」
「撮れないことはない。――おまえ俺を何だと思ってるんだ…」
少年は探している。
世界の終わりを。
「俺は写真のことなんざ判らねェ。だけど、その話にはイラストじゃなく敢えて写真を持って来ようって話には賛成だ。――おまえ、撮れるか、」
幻想的なのに、そことなくリアルで――儚く、悲しい。
そんなストーリーに相応しい画が、なぜか雄高には鮮明に浮かんだ。
――世界に終わりがくれば良いと思う。
――そうしたら、この悲しみはやがて終わるだろうから。
少年は祈るように願っていた。裸足の足を擦り切れさせながら。
終わりを待ち望む。
果てのない夜を歩きながら、純粋にただ祈る少年の姿が、ふいに何かと重なった。
「馬鹿言うな。――俺にしか撮れないだろう。これは」
いつかの恭一の悲しみだ。
恭一はふっと微かに笑うと、雄高が目を通している原稿用紙を指先で弾いた。
「……おかしなもんだな。おまえとこういう話をするたァ、思いもしなかった」
思えば、恭一が十九歳で家を出てからというもの、道は大きく別れてしまった。そのまま恭一は官能小説家となり、更には血の繋がらない弟を養って家族ごっ
こをしている間、雄高は予定通り平凡に大学へ進んでいた。
にも関わらず、付かず離れずの友人関係を保てているのは最早不思議としか言いようがない。
「それはこっちの台詞だ。おまえと真面目に仕事の話をするなんて、ぞっとしない」
恭一が家を出ることを、雄高は一度止めた。それでも彼は頑なに首を振って、まだ幼かった弟の手を握り締めて言ったのだ。
――こいつをきちんと育ててやりてェ。あんな家に置いていけねェんだ。俺に手を貸してくれ、雄高。助けてくれ。
そう言って――泣いた。
「まあ、まだ先の話だ。まだ完全じゃねェ、手直ししてくれって話も来てるし、俺もそう思う。だからのんびり考えるさ」
恭一はそう言うとうんと伸びをして、大きな欠伸をひとつかました。
まだ時間はありますからゆっくりどうぞ――そう言った山内の言葉が甦る。
「そんなに先の話なのか?」
「少なくとも一年、二年。……まだ、時期じゃねェ」
時期じゃない。その言葉を、雄高は神城からも聞いている。
「だからテメェと真面目腐った話をするのも、当分先だ。暫くはエロ小説で食ってくつもりだしな」
「さっき、何作か見てもらったと言ってただろう。他にも使えそうなヤツはなかったのか」
恭一は「耳聡いな」と顔を顰めると、居住まいを正して僅かに真剣な顔付きになる。
「……さ来月な、」
開かれた口からは、零れるように小さな声が落ちた。
「雑誌に――載る。短いヤツだ、三十枚くらいの。……それが、載る。昔、由成に読み聞かせてやったヤツが」
どこか照れ臭そうに視線を反らせながら、恭一は切れ切れに呟いた。
「……由成、喜んだだろう」
「あぁ。……俺以上に、喜んでやがった」
恭一が何よりも描きたかった世界が、漸く日の目を見る。恭一を誰よりも想っている由成が、どうしてそれを喜ばないだろう。
――漸く。
恭一が本当に表現したかったものが――本当に求めたかったものが、動かしようのない真実として目の前にある。
「良かったな」
彼にとって今以上に幸せな時期はきっとないだろう。
雄高が本心から告げると、恭一は少年のように笑った。
「――ところで恭一、おまえ温泉は好きか」
それから暫くのんびりと世間話を交わしている最中、雄高は最初から告げるつもりだった用件を思い出しす。
「――あ? 何を言ってやがるんだテメェは。とうとう惚けたか」
「うるさい。――好きか嫌いかと訊いている」
「訊くまでもねェよ」
温泉嫌いの日本人はそう多くはないはずで、学生時代友人たちと旅行にも出かけたくらいには好きだ。恭一にしてみれば、その旅行も一緒に行っているはずの
雄高が今更何を訊く、である。
「行きたいか」
「――何の話だ?」
「だから温泉。親父の知り合いから良いものを貰ったんだが。折角だからおまえたちも誘ってやろうかと思ってな」
そう言って雄高が取り出したものは、某旅館の宿泊券だった。全額オフとまでは行かなくとも、半額以下の金額で宿泊が出来るらしい。こう見えても旅行記な
どを書いている雄高にしてみれば、仕事でもプライベートでも旅行は身近なもので、普通よりは観光地やホテル系の情報には強い。
「おまえは知らないかもしれないが、結構有名な旅館なんだ、そこは」
雄高が握っている宿泊券に書かれた旅館名は、温泉で有名なその土地では一二を争う老舗旅館で、人気度も高い。そう前置きしてから、雄高は続けた。
「有効期限があるんだが、この時期なら由成は春休み入ってるし、微妙にシーズンは外してるが構わないだろ。おまえんとこのスケジュールはどうだ?」
「――…温泉、なあ」
なんか怪しい話なんだよなァ――恭一は頭を掻きながら雄高を睨み付ける。
「テメェがわざわざそんな甘い話を持って来ること自体、怪しいんだよ」
「失礼なこと言ってるんじゃない。……俺だって元々誘うつもりはなかったが、由成が」
「由成が?」
「あいつにこの話を漏らしたら、随分羨ましがってたからな。行きたいとは言わなかったが――行きたいんだろうよ。おまえ、最後にあいつを旅行に連れてって
やったのはいつだ、」
――いつだっけ。恭一は真剣な顔をして考え込む。つまり、真剣に考えなければ思い出せないほど昔という意味だ。
「……そうか、由成が」
「俺は半分仕事で行かなきゃならないんだが、ついでだ。おまえと由成の予定が合うようなら、連れてってやらんこともない。――わざわざおまえなんかを喜ば
せるために誘うわけがないだろ」
恭一を喜ばせるためには誘わなくても、由成を喜ばせるために誘う辺り性格がよろしくない。結局、雄高は由成に甘いということだ。
しかし由成に甘いのはその兄も同じで、「判った、何とかする」と至極真面目な顔をした恭一が頷いたことで、この旅行は決定した。
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