闇夜と白い月

幽霊が出ると、噂だったのだ。

だがそれは娯楽の少ない十二宮では大したことではない。
根も葉もない噂を話し合っては、笑いあう。
暇をもてあます昼下がり。

双児宮には現在黄金聖闘士はいない。先代の双子座の後継者がまだ見つからないのだ。現在空位はこの双子座だけで、無人の宮は当然しんと静まり返り、闇に包まれている。人々が通る中央の広い道だけは蝋燭のあかりが灯されていたが、夜になるとなんとも不気味な雰囲気をかもし出すのだ。幽霊の噂が出たとしても、仕方がない。
しかも先代双子座は、先代射手座に誅殺された罪人だと言うではないか。だが、この聖域で霊や妖精の存在はさして不思議なことではない。自分たちもとても普通とはいえぬ力を操るのだから、こんな噂はほんの退屈しのぎだ。

星矢もそのはずだった。だがある夜、町から戻り十二宮の階段を上る途中、双児宮に入りかかったときだった。どこからともなくしくしくと涙を流すような声が聞こえる。

「ま、まさか・・・ね」

敵であればどんなものであろうと恐れない自信はあるが、星矢とてジャパニーズホラーは怖いし、着信アリを見たあとはケータイが気になって仕方がない。

だが自分の宮に戻るには双児宮は必ず通らねばならない。コツコツコツと、靴音だけが廊下に響く。奥へと進むにつれてだんだんとその泣き声は大きくなっているような気がする。

(何なんだよ・・・!)

あと少しで双児宮をぬけるというところで、星矢はぴたりと立ち止まった。ふと右に目を向けると、居住スペースへの扉がある。
(仮にも黄金聖闘士のあずかるべき宮だ・・・もしかしたら、何か危険なものかもしれない・・・)
意を決して、星矢はその扉へ手を伸ばした。


「やっぱ何もないなあ・・・」
だが、そこに確かに人がいたのだという痕跡がある。本棚にはびっしりと本が並び、食器類もそのままにしてある。
(ちょっと不気味だな・・・)
主のいない双児宮の、使われない生活用具たち。
(なんかもしかして・・・・結構几帳面な人だったのかも)
整然とした部屋には、必要最低限のものしかおかれていない。家具が残っているのは皆死した罪人を恐れてのことだ。聞くところによると、どうも女神の意向もあってのことらしい。
(なんかイメージ違うな・・・もっとこう、荒れてて、凶暴で山賊みてえなヤツかと思ってたんだけど)
白を基調とした部屋はかつてはとても清潔感のある綺麗な部屋だったに違いない。
「さて・・・」
一通り部屋をまわって、最後に残ったのは寝室だけだ。どうやら、泣き声はここからするらしい。
「お邪魔しま~す・・・」
そっと、扉を開けてみた。
(暗い・・・)
星矢は扉のすぐ傍に備えられていた蝋燭を手にとり、手をかざして火を灯した。
「誰か・・・・いるのか・・・?」
右手で蝋燭を翳してみるが、奥のほうは暗くてよく見えない。ゆっくりと奥へと進むと、ベッドのようなものが見えた。

『誰だ・・・・・』

一瞬、ぞくりと背筋に悪寒がはしった。


(本物・・・!)
『そこにいるのは・・・・』
小宇宙を全身に滾らせ、神経を集中させた。

『その小宇宙・・・射手座・・・射手座か・・・?』
どこか、切ない声だった。
(敵じゃないのか・・・?)
小宇宙によって高められた視力は、暗視カメラのように部屋をうつしだした。だがその気配はどうにも稀薄で、あまりはっきりと捕らえることはできない。
「そこにいるのは、誰だ」
一歩近づくと、それはそろりと立ち上がった。

『黄金聖闘士か・・・・ならば、挨拶をせねばな・・・』

だんだんと近づいてくる。すぐ傍に、気配を感じる。
(心臓が・・・うるさい・・・)
『その目には私の姿は見えにくいだろう・・・』
「えっ!?」
そっと、その人は手を星矢の目に翳した。
「あ、あれ・・」
『私の姿が、見えるか・・・?』
その声に顔をあげると、そこには一人の男がいた。見えなかった姿が、はっきりと見える。蒼銀の髪、白い肌、青い瞳に、悲しげな表情―――

「あ・・・」

きれいだ!

『はじめまして・・・射手座の聖闘士よ。私が双子座の、罪人だ・・・』
「双子座・・・・・!」
(あの、女神を殺そうとした罪人の・・・!)
「双子座の、サガ・・・・!?」
「如何にも・・・」
サガ、はそっと目を伏せた。あまりのイメージの違いに、星矢は驚いた。まさかこんなにも美しい聖闘士だったとは思わなかったのだ。
「あ、あれ」
ふと、星矢がサガの頬を見つめた。涙を流していた様子はない。
「泣いていたのは、アンタじゃないのか・・・?」
「泣いて・・・ああ、あの声が聞こえたのか・・・」
そう言われ、サガが指差す方を見ると、そこには双子座の聖衣が闇の中で鈍い光を放っていた。
「聖衣が・・・?」
よく見ると、聖衣が涙を流している。
「聖衣が泣いている・・・」
「私のせいで、双子座は罪深い星座になってしまった・・・。再び私がここへ来たので、憎しみと屈辱に涙を流しているのだろう・・・」
その声に抑揚はない。何も感じてはいないように、淡々と言った。
「・・・どうして、ここに?」
「分からない」
「分からない・・・?アンタ、死んでるんだろう?」
「ああ」
「死んでからの、記憶とかないのか?」
「・・・分からない・・・気がついたら、ここに居たのだ。・・・射手座よ、女神は御歳幾つになられた」
「じゅう、さん・・・だったと思う」
曖昧な答えに、サガは口元で少し微笑んだようだった。だがすぐに暗い表情になり、そうか、とだけ言った。
「十三年・・・十三年も経ってしまった。私はここで、何をしているのか・・・」
「十三年前・・・双子座のサガは、射手座のアイオロスと刺し違えたと・・・」
「そう・・私は聖域の英雄に殺された。醜悪で汚濁にまみれた私の本性と共に、私はたしかに死んだのだ・・・」
「・・・とてもそうは見えないけど」
「お前の目に、私はどう映る?」
サガは、目を開き星矢の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「き、きれいだなあと思うよ。なんとなく・・・だけど優しそうだし」
「・・・私は、汚い」
星矢の答えに、サガは顔を伏せた。今にも涙を流しかねない姿に、星矢は慌てて言葉を発した。
「あっ、あのさ、射手座の・・・アイオロス、には会わなかったのか?」
アイオロス、という言葉にサガの肩がぴくりと揺れた。
「彼には会っていない・・・もっとも、彼と私とでは逝く場所が違う」
「そうなのか・・・?」
「彼は罪人から神を救った英雄・・・今は心安らかな眠りについていることだろう」
サガはどこか、嬉しそうにそう語った。
「・・・あんたは、そこにはいかないのか・・?」
「罪人が行くのは冥界の底・・・寒く暗い永遠の孤独・・・」
「なあ、もしかして、アイオロスに会いたいんじゃないか・・・?」
「私が・・・・?」
「アイオロスに会いたいから、その、冥界にもいけないのかもしれない」
「冥界は死者に対して常に平等な世界だ。未練があったからといっていくのが遅れたりすることはないだろう。・・・・私は何か、おかしな殺され方でもしたのだろうか・・・?」
そう言うと、サガは胸の辺りを軽く撫でた。
「おかしな・・・?」
「覚えがない・・・死の瞬間、彼が私を見つめてくれたことしか・・・。私は彼に、どうやって殺された・・・?」
サガは頭を抱え、その場に蹲った。
「だ、大丈夫か!?」
星矢が慌てて支えようとした手は、サガの肩を掴むことなくそのまま地面に届いた。
「・・・・!?」
星矢の右手が、サガの体を貫通している。よく見れば、自分の手を透けて見えるではないか。驚いて手を引っ込めると、サガは星矢の顔を見上げた。
「・・・サガ、その」
「すまない・・・大丈夫だ・・・」
よろよろとサガは立ち上がり、自分の手を見つめた。
「・・・やはり人には触れられぬか・・・」
星矢は、自分の心が落ち着かないのに気付いた。目の前の人間の一挙一動にも胸が苦しくなる。
「・・・射手座よ、名は何と言う」
「―――星矢」
「せいや・・・射手座に就いて、何年になる」
「・・・俺は、遅かったってからかわれたよ。二年前に女神から射手座の聖衣を賜ったばかりだ」
「女神から・・・?・・教皇は」
「いない。・・・その、前の教皇が死んでから、新しい教皇にはまだ誰も就いていない」
サガは悲愴な表情を浮かべると、再び俯いた。星矢はそんな様子に慌て、違うんだ、と言った。
「今は平和だから、あんまり、その・・・何も急ぐことはないし、それに、今の黄金の中にはまだふさわしい人がいないだけかも!」
「教皇になるべき者は私が殺した。・・・なんという・・・彼のあとを、継いでいる者がいないなど・・・」
「サ、サガ・・・」
「・・・・黄金聖闘士は・・・今何人ここにいるのだ・・・」
「聖域にいるのは・・・10人・・・かな。天秤座の老師は中国だし、双子座は・・・まだ、現れていない」
「10人・・・10人もの黄金聖闘士が聖域にいるのか・・・」
「普通じゃないのか?」
「聖闘士が聖域に集結するというのは、戦が近い証・・・。聖戦が近いのだ」
「聖戦が・・・!」
「教皇がいないなど・・・私は・・・」
「サガ!その・・・あんまり、思い詰めないでくれ・・・俺、まだあんまり強くないけど・・・双子座が埋まってない分も・・・頑張るから・・・」
星矢は少し俯いて言った。その様子にサガは苦笑した。
「・・・すまない・・・とりみだしてばかりで・・・・。星矢、今宵はもう戻れ。そしてもうここには近づかぬことだ。罪人になど構っているとお前の心も病んでしまう」
星矢は思い切り首を振った。
「そんなことない!・・・サガは、絶対に、いい人だ・・・!」
「・・・お前も、欺かれているだけだ。13年前と同じように。私は今でも偽ることを捨てられないでいる・・・」
「そんなことない・・・」
「星矢」
サガに名を呼ばれ、星矢はどきりとした。なんていう声だろうか。静かな声には悲しみと、無念と、そして聖域への愛情が未だ溢れている。
「そんなこと、ない。聖衣が泣いてたのだって、きっとサガにまた会えて嬉しかったからだ!俺に声が聞こえたのだって・・・きっと、サガがここに来てくれたって・・・教えてくれたんだ・・・」
星矢は言いながら、どうしようもないこじつけだと思った。ただ聖衣が泣いていたのは、サガを恨む、憎しみの涙だとは思えなかった。言葉が弱気になっていったのが分かったのだろう。サガは苦笑すると、ありがとう、と言った。
「・・・俺、ちょっと調べてみるよ。死んだ人がいつまでもここに留まるのは、サガにとってもよくないんじゃないか・・・?」
「・・・分からない。だが、然るべきところへ逝き、然るべき裁きは受けねばならない」
「知りたくないかもしれないけど、サガの・・・死んだときのことも、調べてみる。だから・・・」
星矢はサガの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だから、またここに来てもいいだろう!?」
サガは少し驚いたようだったが、すぐに表情を和らげた。
「・・・生憎私は、双児宮から出られないようだから・・・頼んでもいいだろうか・・・・」
その言葉に、星矢は嬉しそうに頷いた。
「俺、本とか探すの得意じゃないけど・・・絶対、ちゃんと調べるから!サガが・・・もう一度、射手座のアイオロスにも会えるように・・・」
「彼には・・・もう会うことはない。・・・冥界へ、逝ければ・・・」
「・・・分かった」
星矢はもう一度頷いた。
「じゃあ、俺・・・戻るよ。あ、勝手に消えたりするなよ!」
サガは少しだけ微笑んで頷いた。


「射手座の・・・星矢・・・。時代は変わったのだな・・・・」

もはや、醜い嫉妬や、羨望や、妙な緊張感の漂っていたあの頃とは、違う。屈託なく笑う星矢に、サガは密かに暗い表情を浮かべた。
「なぜ・・・なぜ13年も経って・・・こんなところに・・・。私はどこで裁かれるのだ・・・教えてくれないか・・・・」
サガは空虚な部屋を眺め、呟いた。


それからというもの、星矢は何かと理由を見つけては双児宮を訪れるようになった。騒ぎになってはいけないと―――というより、聖域の歴史上、サガは間違いなく罪人として名を刻んでいる。自分が誰かに話すことで、サガが消されてしまうのではないかと、一人で書庫に通い、参考になりそうな文献を見つけては何冊も抱えて双児宮へ来ていた。サガは物質には触れることができない。“座ったり”“寝たり”しているようにすることはできるが、サガ本人にその感覚はない。いつまで立っていようと、疲れもしなければ特別な感覚もない。ただ星矢が来たときには、二人で椅子に座り、星矢が持ってくる書物に真剣に目を通していた。といっても、2時間もすると星矢がページを捲るのに飽きてしまうので、サガは進むことのないページの文節をいったりきたりしたりもする。星矢は双児宮を気に入ったようで、何かと物を持ち込んでは暇を潰しているようだった。サガはそれを咎めもしなかったし、居心地が良いのならばと好きに使わせていた。
「なぜ・・・ここに来るのだ・・・・?」
「あっ・・・ごめん・・・邪魔だよな、やっぱり」
「そうではない。・・・単に知りたいだけだ」
「ここ・・落ち着くんだよなあー・・・静かだし、風が通って気持ちいいし、・・・人馬宮には世話役のおっさんもいるし・・・あ、別にその人がいやなわけじゃないけど!・・・ここには、サガもいるし」
「私・・・?」
「サガといると、落ち着くんだ」
星矢は自分の顔が赤くなっているのを感じた。サガはそれをどこか落ち着かない気分で見ていた。
「ごめん・・・本、読まなきゃな。どれ見る?」
「・・・星矢」
「え、あ、何」
「私のことは・・・何も気にすることはない。だがお前は射手座の黄金聖闘士。身の回りの世話をしてくれる者への感謝と気遣いを・・・忘れぬように。心配させてはいけないだろう。ここに出入りするのは、少し控えたほうがいい」
「・・・はい・・・」
サガが迷惑がっていると思ったのだろう。しゅんと項垂れた星矢に、サガは苦笑した。
「私のことは気にすることはないと言っただろう・・・。ただ私は、お前の妨げになるのが・・・その射手座の名に、傷がつくのが嫌なんだ・・・」
「サガ・・・」
「今日はもう文献をあさるのはやめよう・・・もう戻りなさい」
サガはくるりと背を向けた。星矢が戸惑う様子を感じたが、サガはそれを無視した。
「・・・俺は・・・ここに来てるのがバレて、何て言われたって大丈夫だ。俺はサガの・・そ、傍にいたいし、迷惑かもしれないけど、サガのために・・・何かしたい・・・」
「・・・」
「・・でも、それでサガが、嫌な思いをするのも・・・嫌だから・・・今度はもうちょっと、資料をまとめて出直すよ・・・だから」
「星矢」
「・・・なに」
「私に気遣う必要はない。・・・私は・・・お前が来るのを拒んだりは・・・しないから」
サガはゆっくりと振り向いて言った。星矢は嬉しそうに数回頷くと、何度も何度も後ろを振り返りながら宮を出ていった。人馬宮へ戻る途中、星矢は嬉しさを噛み締めていた。サガが自分を認めてくれる。傍にいることを許してくれる。それだけでこんなにも気分がよかった。冥界へ行く資料を探しながらも、星矢はサガがいなくなることなど考えられなかった。
(あそこからいなくなるなんて・・・イヤだ・・・)
いつも哀しそうに笑っている。自分の前の射手座は、アイオロスは何をやっているのだろうか。サガを置いて、どこかへ還っていったのだろうか。サガを独りにして――――星矢は自分の中に、じわじわと暗い感情が広がっていくのを感じた。
(ヤバイ・・・ダメだ、俺)

『射手座の名に、傷がつくのが嫌なんだ・・・』

(射手座の・・・誰だよ、サガ)

自分ではない誰か。自分の影に――いや、自分を影にしている射手座。
(悔しい―――)
先ほどまでの明るい気分は一気に沈んだ。軽い足取りで上っていた階段の途中でぴたりと止まる。夕日が山の合間に消えていく。空気がだんだんと冷えていく。
(俺・・・・嫉妬してる?)
射手座のアイオロスに。星矢は小石を思い切り蹴飛ばすと、一気に十二宮の階段を駆け上がった。それから数日後、星矢が双児宮を訪れると、いつもは寝室かリビングにいるサガが見当たらない。
「サガ~・・・?」
一部屋一部屋覗き込んでまわるが、見つからない。
「いないのか・・・?」
サガがいない。そう思った瞬間に、妙な緊張感が星矢を襲った。
(消えないよな、まだ、何も解決してないじゃないか・・・!)
持ってきた数冊の本をどさりとテーブルの上におき、星矢は宮内を走り回った。
「サガ!サガ、どこだよサガ!」
廊下を走り、突き当たった。ふと右側に目を向けると、柔らかな日差しが廊下まで差し込み、外には緑が広がっていた。そしてその中心には、美しい蒼と銀が混ざり合い輝く髪をした人がいた。
「サガ・・・?」
恐る恐る名を呼ぶと、その人はゆっくりと振り返った。
「・・・ああ、星矢・・・」
「よかった・・・びっくりさせるなよ!」
星矢は草を踏みしめサガに近寄った。明るい日差しの中のサガを見るのは初めてかもしれない、と星矢は思った。白い肌は一層輝き、髪は不思議な色合いで光を反射している。星矢を見つめる瞳は、空のような海のような深い蒼をしていた。
(やっぱり・・・きれいだ・・・)
「星矢・・?」
「あ、ああ、ごめん。本、また持ってきたよ」
「ありがとう」
中に戻ろうとして、星矢はふと気がついた。
「庭まで出られたのか?」
「ああ・・・試しにな」
「そっ・・そんな一か八かみたいなことするなよ!どうなるかわからないじゃないか!」
「ふふ・・大丈夫だ。どうやらこの宮の守護範囲内であれば問題はないらしい。だが・・・どこまで外に出ても平気なのか・・・外に出ると、どうなるのか・・・」
「おとなしくしててくれ!俺が・・・俺が絶対なんとかするから・・・」
「ありがとう、星矢」
微笑まれて、どきりとした。会ったばかりの頃は暗い顔ばかりしていたが、最近は穏やかな笑顔も向けてくれるようになった。
(本当に・・・優しいんだ、絶対。なのに、どうして・・・)
こんなにも穏やかで、繊細で優しい人が、なぜ罪人として歴史に名を刻んでしまったのか。双子座と先代射手座は、聖域の歴史上でも強大な力・知恵・勇猛さを誇る偉大な黄金聖闘士のはずだった。これからの聖域を担うべき聖闘士であったのが、なぜ。
「星矢?」
「ああ・・・ごめん」
視線を落として、星矢の視界にサガの手が入った。
「サガ、手・・・」
「手?」
サガが手を見つめる。
「なんか・・・この間より薄くなってないか?」
「そうだろうか」
「だって、ホラ!」
星矢は自分の手をサガに突き出した。
「会ったばっかのときは、俺とほとんど変わらないくらいだったのに」
よく見れば、サガの手はうっすらと透けている。先日は確かに、よほど目を凝らさねば気付かぬ程度であったのだが。
「手を透かしてお前が見えるな」
「妙な事言うなって!」
星矢は言いようのない焦燥感を感じた。今この瞬間にも、サガが消えてしまうのではないかと思った。
「どっか変な感じとか、ないのか?!」
「大丈夫だ・・・。それに、私の今の状態では仕方ないのでは・・・」
「でも!」
「お前が調べてくれているのだから・・・」
「サガ・・・」
「さあ・・・中へ戻ろう」
星矢を促そうとしたサガの手は、その肩に触れることはない。触れた瞬間、そこに何も感じることができないと気付いたサガは、それとなく手を引っ込めた。星矢はそれを、もどかしく思った。
「月・・・」
満月に近い月が、夜を優しく照らしている。サガは窓枠に寄りかかり、手をそっと月に翳した。
「・・・やはり近いか・・・」
消滅の時が。恐らくこのままどんどん薄くなっていって、最後はもやのように消えてしまうだろう。そのあとの魂の行方など、分かりはしない。このまま本当に、どこへも逝かずに消えてしまってもよいと思っていた。裁かれるまでもなく、自分は地の底に封じられるのだ。罪深い人間の魂がここで消滅してしまったからといって、喜ばしく思いこそすれ悲観すべきことも危険視することも何もない。
(星矢・・・)
彼はどうするだろうか。私がある日突然消えてしまったら。
(・・・・何を馬鹿なことを・・・)
罪人の魂が消えたからといって、彼に何の差しさわりがあろう。むしろ、良いことではないか。“射手座”の彼には、罪などは似つかわしくない。
「・・・射手座の・・・星矢・・・」
彼の真っ直ぐな視線の向こうに、思い描いてはならない人を見ている。そして、その人とは別に、彼の純粋な視線に心が打たれるのを感じている。
「なぜ・・・なぜ13年もして・・・私はまだ現世に留まるのだ・・・?」
流す涙もないと信じていた瞳が、ぼんやりと滲むのが分かった。こんな想いはもう十分だ。あの時彼を信じきることができなかった自分が、まだ惨めに誰かに縋ろうとしている。
「星矢・・・」

君は今、何をしている?


『俺にお前が殺せると思うか・・・・!?』

『お願いだ・・・それが、私が望む全て・・・』

『貴様が死ねばいい!貴様も、アテナも・・・!』

『サガ・・・すまない・・・・・サガ・・・・』

『殺してくれ・・・・・』

『死ね・・・死ね・・死ね、死ね死ね・・・!』

『サガ・・・』

『ロ・・・ス・・・・・』

『サガ・・・・』


サガ―――――


「サ・・・ガ・・・・?」
星矢がうっすらと目を開けると、そこには見慣れた天井があった。
「夢・・・・?」
サガと、射手座のアイオロス。そして黒髪の少年が見えた。
「あれも・・・サガ・・・?」
サガが“汚い”といっていたのは、あの“サガ”なのだろうか。
「汚くなんかない・・・」
じわ、と涙が滲んで、こめかみを伝って枕にしみた。
「汚くなんかないよ・・・」
ぼやける天井を見つめながら、星矢はしゃくりあげるようにして涙を流した。
「サガはサガだ・・・・!」
夢の中に見た彼らの姿。あれは、彼らの真実なのだろうか?互いに殺したくないと、心の中で涙を流していた。闇の中に二人の放つ拳の光だけが弾け、赤ん坊の泣き声と、二人の悲鳴のような叫びだけが聞こえてきた。
「何で死んだんだ・・・・」
どうして二人で、歩み寄る事が出来なかったのだろう。一番信頼しあっていたはずなのに。どこで、二人の道が別れてしまったのだろう。星矢の脳裏に、二人の交わす悲痛なまでの視線がよぎった。

(きっとお互い・・・好きだったんだ・・・)

どくん、と心臓が強く脈打った。

(・・・好き・・・だったんだ・・・・)

きっと今の自分みたいに。

「サガ・・・」
(俺はサガに泣いてほしくない・・・消えてほしくないよ・・・)
サガは既に死んでいる。死者の魂は冥界へ行かねばならない。それが自然の摂理であり、絶対の掟だ。だが
(もっと傍にいたい・・・・!)
星矢は乱暴に袖で涙を拭うと、ベッドを飛び出した。心臓が痛いくらいに動いている。心が悲鳴をあげている。
「サガ――――!」
星矢は十二宮の階段を、全速力で駆け下りた。なんだか胸騒ぎがした。走っている途中に、涙が出そうになった。
「サガ!」
「サガ?!」
「どこだ、サガ!」
双児宮に入り、星矢はあらゆる扉を開けていった。一部屋一部屋、サガを探して走り回った。
「サガ・・・・?」
星矢はよろよろと、中庭の方へ向かった。薄暗闇の中、月明かりがきらきらと美しい髪を照らしていた。
「サガ・・・」
「星矢・・・?」
サガは少し驚いたような顔をして、振り向いた。
「星矢・・・どうしたんだ、こんな時間に・・・」
「サ、ガ・・・サガ・・・!」
星矢は駆け寄った。躓きそうになりながら駆け寄って、サガに腕を伸ばした。強く抱き締めようとしたが、もちろんそこには実体などない。星矢の体はサガの体をすりぬけて、星矢はそのまま倒れこんだ。
「・・・星矢・・・?」
「サガ・・・俺・・・」
星矢はごしごしと目を擦って、サガの方を振り向いた。サガは星矢の前にしゃがみこんで、じっと星矢の瞳を見つめた。
「俺、サガのことが好きだ・・・!」
「え・・」
「サガが・・・サガが、好きだ・・・好きで好きで、どうしようもないんだ・・」
「星矢・・・私は、」
星矢は手を伸ばし、サガの頬に触れないようにして、撫でた。サガはほとんど消えかかっている。自分の手と比べると、それがよく分かる。星矢の瞳に、涙がこみあげてきた。
「サガは・・・アイオロスが好きなんだろ・・・?」
サガは答えなかった。星矢は顔をくしゃくしゃにして、それでもなんとか笑った。
「俺は、どんなサガでも好きだ。アイオロスが好きなサガでも、サガが嫌いなサガでも、俺は好きだ」
その言葉に、サガははっと顔をあげた。
「好きだ・・・俺・・・俺は・・・」
言いかけて、星矢は頭を抱えだした。
「・・・星矢・・・?」
「サ、ガ・・・」
「星矢!」
星矢は少し呻いたかと思うと、そのままどさりと倒れてしまった。
「星矢・・・!」


また夢を見ているのだろうか。闇の中に人影が見える。

『サガ―――』

アイオロス射手座のアイオロス・・・。

『俺は嫌だ・・・お前がいないのは・・・!』

英雄が涙を流して傷ついている。まだ俺とそう歳も変わらなかったのに。親友を、大切な人を殺した。でも、この二人は相討ちになって―――相討ち?

『こんな世界に何の意味がある・・・もう何も・・・・見たくは―――』


「・・・ス、ロス、大丈夫か?」
「・・・サガ・・・?」

明るい

「電気がついてる・・・」
「は?何を言っているんだ。それより大丈夫か?」
「え?」
「急に倒れたから・・・・」
ほら、と言ってサガは手を差し出した。
「ああ、ごめん・・・」
その手を掴み立ち上がり、星矢は違和感を感じた。
「あれ?て・・・えええええ!!?」
星矢は確かに手を掴んだ。
「どうしたんだ、アイオロス」
アイオロス?「えっ・・俺・・・な・・・なにが・・・」
目の前のサガは心配そうな顔をしている。星矢は思わず自分の顔を触った。
「お、俺・・・誰・・・?」


「星矢・・・」
サガは突然倒れてしまった星矢をどうすることもできずに、ただしゃがみこんで顔を覗き込んでいた。外傷があるわけでもない。突然頭をおさえて倒れてしまった。息苦しいのではないか、せめてちゃんと寝かせてやりたいと思っても、触れる事もできない。サガはかすかに聞こえる吐息で、星矢が確かに生きていることを確かめた。
「う・・・」
「星矢?」
突然うめき声をあげ、星矢はうっすらと目を開いた。
「・・・ここは・・・」
「双児宮の庭だ・・・大丈夫か?」
「ああ・・・・・・サガ?」
「どうしたんだ」
「俺、いつのまに庭に・・・・中にいたんじゃ・・・」
「え?」
まだ混乱しているのだろうかと、サガは眉を寄せた。
「寒いだろ。早く戻ろう」
「星矢?」
「セイヤ?」
目の前にいる星矢は、土を払って立ち上がると、何だよそれ、と言った。
「お前・・・一体・・・」
「――――サガ?」
星矢は不思議そうな顔をして、暗い双児宮に目を向けた。
「・・・暗い。暗すぎないか?俺が眠っている間に何かあったのか?」
星矢は眉を顰めた。
(いや、彼は星矢ではない・・・・)

「・・ロ、ス・・・?」

恐る恐る、サガは彼の名を呼んだ。もう13年も口にすることのなかった彼の名を。
「ん?どうかしたか」
星矢――アイオロスは、懐かしい笑顔でサガの方を振り向いた。
「ロス・・・」
「・・・サガ、何か・・・」
「なぜ・・・どうして・・・」
「サガ?」
じっとサガの顔を見つめて、アイオロスはサガの姿が自分が知るものよりずっっと儚く、生気のないものだと感じた。
「サガ、一体どうしたんだ!」
アイオロスはサガの肩を掴もうとして、目を見開いた。
「サガ・・・?」
アイオロスはサガを突き抜けた自分の手を見つめた。
「ロス・・・私はもう・・この世のものではない」
「何!?」
「アイオロス、お前は今いくつになった?」
「じ、13」

(13・・・・あの夜の、2年も前・・・)

サガは静かに目を伏せた。アイオロスはただならぬ雰囲気に、サガの出方を伺った。
「ずっと・・・ずっと伝えたいことがあった」
「伝えたいこと・・・?」
「私は何も、お前に伝えることもできずに・・・愚かなことをした」
「サガ・・・お前は一体、何を・・・」
サガは、自分の手のひらを見つめた。心なしか、先ほどよりも更に透けている気がする。闇に溶ける。
「私の気持ちは、常にお前と共にあった。伝えることはできなかったが・・・それでも、私はお前を愛していたよ・・・」
サガは静かに涙を流した。死んでから、涙を流してばかりだと思った。
「サガ・・・」
アイオロスは少し考えるようにして地面を見つめた。
「・・・俺には、今サガがどうして死んでいるのか、何で俺がここにいるのかわからない・・・」
アイオロスは顔を上げた。
「でも、俺は・・・」
サガは黙って見つめていた。今にも月明かりに消えてしまいそうだった。
「俺は何年たったって、どんなサガだって全部愛してる」
サガは目を見開いた。心のどこかにあった隙間に、その言葉はすっと馴染むようだった。
「どんなことになったって、何が起こっても・・・それは絶対に、変わらない」
「ロス・・・」
サガは控えめに微笑んだ。
「もっと早く・・・それを聞きたかった・・・・いや、私の・・驕りだな・・・」
「サガ、お前一体・・・」
アイオロスが一歩足を踏み出した途端、がくりと膝をついた。
「ロス?」
「う・・・」
先ほど星矢が倒れたように、アイオロスも頭を押さえ、呻き始めた。
「サ・・・ガ・・・!」
「ロス!」
行かないでくれ、と言いそうになったが、不思議とその言葉が発せられることはなかった。
「ほら、わけのわからないことを言っていないで、早く寝るんだ!」
「サガ!だから俺はアイオロスじゃなくて、」
「射手座の黄金聖闘士ともあろう者が何を言っているんだ!」
「サガ!」
星矢はサガの腕を引っ張り、顔を寄せた。
「俺は・・・俺はアイオロスじゃない!」
「何を・・・」
「でも・・・アイオロスと・・・気持ちはきっと変わらない・・・」
「え・・?」
星矢はサガの手をぎゅっと握った。会ってから触れられることのなかった想いもこめて。
「・・・じゃあお前は、一体誰なんだ・・・」
「・・・星矢。・・・忘れてくれてもいいよ。でも・・・」
何かを言おうとして、再びずきりと頭が痛んだ。
「・・・?どうしたんだ」
「お、俺は・・・・!」
耐え切れずに、ぎゅっと目を瞑った。
(痛ぇ・・・・!)
もっと何か伝えたいことがあったはずなのに。まだ何も伝えてない。せっかく、生きているサガがいるのに。ああ、でも、きっとあの庭でサガが待っている―――


「サガ・・・・」
「せ・・・セイヤ?」
「セイヤ・・・?何なんだ、一体・・・」
俺のことは呼んでないのか、とアイオロスは顔をしかめた。
「・・・何だったんだ・・・あれ・・・」
「ロ、ロス?」
「俺・・・・」
アイオロスは手のひらを見つめた。
「どうかしたのか?」
「いや・・・何でもない」


「星矢――――」
「ああ・・・・こんどこそ・・・俺の知ってるサガだ・・・」
「大丈夫か?」
「ああ・・・今のは・・・一体・・・・」
星矢が立ち上がると、サガは少し寂しそうに微笑んだ。
「星矢、できればもう少し、お前と一緒にいたかった」
「え・・・?」

「ありがとう・・・」

サガはそう言うと、星矢の額に、そっと口付けた。
「サガ・・・!?」
星矢は触れられぬ背を、それでも抱き締めるように手を伸ばした。

月にかかっていた雲が消え、双児宮の庭を一層明るく照らし出した。

「お前に会ったときに、言っていたな・・・私に未練があるから、消えることもできないのだと」
「ああ・・・」
「お前の言った通りだった・・・・私が13年もたってここにきたのは・・・」

あの言葉を聞くためか・・・。

「サガ・・・?」

抱き締めたサガの体が、白く輝いている。
ふわふわと蛍のように、端のほうから散っていく。

「サガ・・・!俺は・・・!」

―――わかっているよ、

星矢―――

「嫌だ!消えるな・・・消えるなよ・・・!」

星矢は光を掻き抱いた。
しかし白い光は腕をすり抜け、闇に消えていく。

「サガ―――!」


後には何も、残らなかった。