・・・・・・5/30
本来ならば双子座の生誕祭の行われる日であったが、聖域は静まり返り、ただ蝋燭の灯りが点々とともっているだけだった。
悪魔の生まれた日
悪夢の始まった日
この日はそう呼ばれていた。13年前の事件が発覚した日から。
双子座のサガ、カノンを慕う者も少なくはなかったが、周囲の目を憚り、いつになく静かな日であった。
しんと静まり返った夜、双子座サガは聖衣を纏い、女神神殿にいた。
サガはこの日をずっと待っていた。
十二宮全体に神話のころからの双子座の小宇宙が満ち、空気が濃くなるこの日を。
自分という悪魔が生まれ、そして“殺す”ことのできるこのチャンスを。
黄金聖闘士の生まれた日、その守護星座の最も輝く日、この日は、女神が唯一“神である力”を人のために使うことができた。
毎年黄金聖闘士たちはこの儀式化された行事を受けるが、多くは守護星座、女神の一層の加護を願った。
しかしサガが今年願うのは女神の加護でも、守護星座の導きでもない。
自らの消滅。
生み出すことは容易でなくとも、消し去ることは神にとって造作もないはず。
罪から逃げるわけではない。泥水を啜り地を這いながら生きろと言われればサガは従うだろう。
だが自らの存在が聖域にいつまでも消えぬ影をおとすのは我慢ならなかった。
他の黄金聖闘士たちには同朋から悪魔が出たという泥を塗ってしまった。
祭事に支障をきたすようになってしまった。
自らの存在のせいで、人々の聖域への信頼が薄れてしまった。
ならばいっそ、消えてしまえばいいのだ。
“最初からいなかったことにする”
歴史の闇を葬り去る。
(そうすれば・・・きっと・・・アイオロスも・・・)
聖戦後よみがえった命だったが、最も生きていてほしいと願う人は戻らなかった。
(私が殺したのだから)
だからどうか戻ってきて、アイオロス。
君が目覚めた世界に私はいない。何も憂うことはない・・・。
「・・・わかりました。しかし、歴史をかえることは私と、あなたの守護星座の力を借りてもできないのです」
「では」
「・・・皆の記憶から消すことなら、できます。しかし事実は曲げられません」
「構いません」
「サガ・・・あなたは残酷な人ね」
「・・・」
「誰も自分を覚えていないというのは、存在しないのと同義。・・・私は貴方を、幸せにしたかったのだけれど」
「この望みをかなえてくだされば、私にはこれ以上の幸せなど・・・」
「・・・」
女神はまだ何か、言いよどむような表情を見せた。
しかしサガはそれに気付かないふりをした。
「お許しください。女神・・・あなたが私の力を欲するのならば、私はいつでもこの身を賭しましょう」
「・・・あなたの大切な人に、鍵を預けます」
「鍵?」
「いつか必要になったら、とりに戻りなさい」
「それは・・・」
「いいですね」
「・・・は」
鍵とは何のことか。
どちらにしても、サガにはもはや必要のないことだった。
聖域にはもう、戻らないのだから。
・・・・・・11/30
射手座の生誕を祝う日。
天高くに座す星たちは、聖域に還ってきた英雄の生誕祭を喜ぶように輝いていた。
いつもは薄暗くしんと静まり返った十二宮も、この日は多くの人間が行き来し、ざわざわとしていた。
射手座アイオロスは、女神に拝謁し、慣例通り地上の平和と女神の祝福を受け、人馬宮に戻ってきた。
目覚めてまだ半年。もう半年。
アイオロスはかすかな違和感を覚えながら日々を過ごしていた。
「双子座の、サガ・・・」
教皇を殺した上教皇になりすまし、女神までも殺そうとしたという。
彼はシュラに命じて女神を連れて逃げた俺を殺した。
追い詰められ自害したのち、冥府に下り、嘆きの壁で消滅・・・。
双子の弟カノンも聖域に刃向い、挙句ポセイドンまでもを謀ろうとしたらしいが、聖戦で死亡。
復活後は海界へ引っ込んだ。
そう聞いている。
弟のカノンは存在を秘されていたと言うので、おそらく会ったことはないのだろう。
だが兄のサガのことを何も思い出せないのだ。
同じ黄金聖闘士。同じ候補者。同じ年。
何より解せないのは、冥界の僕となり十二宮を駆け抜けたほかの黄金聖闘士たちも揃って覚えていないと言う。
そんなことがありえるのだろうか。
逆賊、反逆者、悪魔・・・
ひどい言われようだ。仮にも黄金聖闘士であったのに。
(嘆きの壁の前で会った?なぜだ。顔も思い出せない。髪の色すら。共に散った聖闘士を)
復活を遂げる前の皆の記憶はひどく曖昧な気がした。
それでなくともアイオロスには13年という時間が経っている。
(仕方ないのか・・・?)
ヒトとして不自然な形で与えられた二度目の生。記憶が薄れるのは仕方ないのかもしれない。
だがアイオロスはどうしても忘れられなかった。
双子座のサガ
会えるのならば聞いてみたいことがたくさんある。
なぜ裏切ったのか、どうやって死んでいったのか、恨みがあったのか、悲しかったのか、うれしかったのか・・・
どんな人物だったのだろうか。だが彼を覚えている者は誰もいない。
(悲しいだろうな・・・)
サガという名前。長い歴史上最悪の反逆者。それを知っている者はいても、どんな人物だったか、
どんな顔だったかを知っている者がだれもいない。当事者である自分でさえ。
(サガ・・・サガ・・・・・きれいな名前だ。双子座はずっと空位のまま。聖衣だけは、忘れられないんだ。主のことを)
双児宮だけは通るたびいつも沈んでいた。悲しんでいた。主の裏切りを嘆いていたのかもしれない。
だが、そうではない気がする。聖戦までずっと、彼の傍にいたのだから。
(聖衣は悪魔には決して力を貸さない。美しい心がなければ輝きはしない。サガを求めて悲しんでいるのか)
射手座の生誕祭の夜、どの星座も喜び祝福してくれる。やさしい空気がつつんでくれる。暖かい。
だが双子座だけはいつまでも悲しみの小宇宙を漂わせていた。
(教えてくれるだろうか。双児宮は。聖衣は・・・)
双子座のサガがどんな人物だったのか。
何を想って散っていったのか。
アイオロスはマントを翻し、双児宮へ向かった。