麗らかな秋の日。柔らかな日差しの差し込むサガの寮長室で、星矢は今日ものんびりと紅茶と茶菓子を楽しんでいた。
本当ならばサガの騎士である星矢が用意すべきものだが、一度星矢が淹れて以来、サガがやるようになった。アフロディーテが訪れた時にありえない!と説教をされたが、星矢の淹れた茶を飲ませてからは、何も言わなくなった。
「舞踏会?」
サガの言葉に、星矢は首を傾げた。
舞踏会と言うと、幼い頃読んだ童話が思い出される。お城の中で、綺羅びやかなドレスをまとった女性たちと男性が踊るあれだ。
しかしこの学園には男子生徒しかいない。
「ドレス着て踊ったりする・・・あれか?」
「いや、知っての通りここには女性がいないからな。舞踏会といっても、剣舞を披露するものなんだ。昔、太陽寮(ソル)と月寮(ルナ)の寮長同士が剣による決闘を行ったと言われている。それが段々姿を変えて、毎年この時期になると、ソルとルナ両方の生徒たちが剣舞を披露する・・・まぁ、お祭りのようなものになったんだよ」
「へぇー」
「学年によって型が決められていて、お互い戦うような振りにはなっている。それと、星座を冠する生徒たちはソルとルナ同士、一応、決闘という形をとる」
「え?マジで戦うの?」
「そちらも型は決まっている。二度披露して、お互い勝ちを譲るようなものだな」
「ふーん・・・勝負じゃないんじゃ面白くねえなあ」
星矢が退屈そうに伸びをすると、サガはふふ、と笑った。
「一応真剣勝負もあるんだよ、星矢」
「えっ」
「祭の最後を締めくくるのは我々寮長だ。太陽寮の寮長と、最後は本当に決闘するんだよ」
ぎら、とサガの瞳に好戦的な光が宿った。
最近気づいたのだが、サガも大概負けず嫌いの勝負好きだ。そうでなくては教皇の座など狙わないのだろうが、月寮のサガ信者たちのように聖母か女神か、というような目で見ていると、そのギャップに驚かされる。とはいえ、寮生たちの前ではまさしく聖人か女神のように振舞っているので、そう思い込むのも無理はない。
「じゃ、じゃあアイオロスと・・・?」
「ああ」
サガの勝利が信じられぬわけではないが、星矢は少し心配になった。アイオロスはいかにもそういった”野蛮”な勝負には強そうだ。喧嘩ばかりして過ごしていた星矢から見ると、アイオロスはかなりそういったことに慣れてそうな気配がある。
うーん、と唸っていると、星矢、と少し強い声で呼ばれた。
星矢はハッとして顔を上げると、寮長の執務机に歩みよった。
「私の勝利が信じられないか?」
少し首を傾げながら優しい笑みを浮かべるサガに、星矢はうっと言葉に詰まった。
「まさか!」
星矢がゆったりと椅子に腰掛けるサガの足元に跪くと、サガはスッと実に滑らかな動作で手を差し出した。
「オレの賢者はサガだ。サガ以外の勝利は見えない」
星矢は差し出された手をぎゅっと握り、それから恭しく手の甲にキスを落とした。
「さて、では練習をしようか」
「は?練習?」
「勝つにはやはり準備がいる。星矢、見たところお前はかなりアイオロスにタイプが似ている。私の相手にはぴったりだ」
「で、でもオレそういう剣の心得はさっぱり・・・」
「それでいいんだよ。天性の勘の良さというのかな・・・存分に私を困らせてくれ」
眩しいばかりのサガの笑顔に、星矢はさーっと血の気が引いた。
これも最近気づいたことだが、こういう顔のときのサガはすごく、人が悪い。
それから毎日星矢は、暇さえあればサガの稽古に付き合った。
サガの剣捌きは本当に踊っているように優雅で美しく、後ろに纏めた髪がふわりと舞うのにも星矢は見とれてしまった。
しかし呆けているとサガからのキツい一撃がやってくる。年下相手でもサガは手を緩めない。むしろ、ぎりぎりまで追い込んでからの星矢の咄嗟の反撃や回避の仕方を観察しているようだった。
「うはーーーもうダメ!無理!」
バタッと大の字で倒れこんだ星矢に、サガはだらしないぞ、と笑いかけた。
「やはりお前は強い。もっと強くなれるよ星矢」
「戦うのはオレじゃなくてサガだろー!」
激しく胸を上下させ呼吸を整えていると、どこからか生徒が駆け寄り、サガにタオルを渡していた。
(・・・沙織さんの少女マンガみてえ)
サガはありがとう、と受け取るとそれを使って汗を拭った。
ここ数日の練習中、こんなことはしょっちゅうだった。どこにいてもやはりサガは目立つ。生徒のほうも、舞踏会の最後寮長同士の決闘があることは知っているので、皆注目していた。
初日はいつの間にか周囲にギャラリーができてしまって、それからはひと目につかない場所を選んではいたのだが、やはりどこからか人は集まってくる。
今も気づけばサガは4,5人の生徒に囲まれ、何やかやと声を掛けられている。
鬱陶しいなと思ってしまうが、サガは笑顔を崩さず、優しく応えていた。
「双子座様の勝利を心より祈っております」
生徒の一人が、そっと白い薔薇を差し出しサガの胸元を飾った。
「ありがとう」
花のような笑顔に生徒は顔を赤らめると、あの、と緊張した声を出した。
「キスをお許し頂けないでしょうか」
さすがの星矢もぎょっとして慌てて立ち上がるが、サガはためらわずに手を差し出した。
生徒は神からの賜り物を受け取るかのようにサガの手をとると、震えながらそっと手の甲と指先に小さくキスをした。
星矢はもやもやするものを感じながらも、サガが許したので黙っていると、生徒はさらに頭を垂れ、地面に這うようにしてサガの土のついた靴のつま先にまでキスをした。
これにはサガも驚いたようだが、取り乱すようなことはしなかった。
星矢はびっくりするあまりオイ、と声をかけてしまったが、生徒はこちらに顔を向けると、ギロリと恐ろしい形相で星矢を睨んだ。
「っ!」
生徒は立ち上がるとサガに一礼し、星矢の横を通りすぎていった。
「射手座風情が、調子に乗るなよ」
驚くほど冷たい声だった。ついでに足まで踏まれてしまった。
「ちぇ、何だぁアイツ」
射手座の自分が双子座主席のサガの騎士であることを、快く思わない連中も多い。
やっかまれるのにももう慣れっこだ。
フン、と足元の石を蹴っ飛ばしていると、サガが歩み寄り優しく星矢の服についた土埃を払った。
「ありがとう、星矢」
穏やかな声で言われ、星矢はほんの少しだけ涙を滲ませた。
誰にも祝福されない騎士の座ではあったが、サガだけが、誰より星矢を騎士と認め育ててくれる。
星矢にはそれだけで十分だった。
(もっと強くなんねえと)
星矢はヘヘっと笑うと、サガの手をとり、先ほど生徒にキスされていたあたりに乱暴にキスを落とした。
「星矢!」
「これくらいいいだろ!」
サガは呆れたように笑うと、星矢の前髪をかき上げ、額にちゅっとキスをした。
―――一方、そんな様子を建物の影から覗く人影があった。
「アイオロス、折れる折れる、アンタそれ模造刀でも結構すんだからな!?」
「うるさい、黙れ」
太陽寮寮長射手座主席アイオロスと、蟹座主席のデスマスクだった。
二人もサガたち同様、ひと目につかない場所を探してここにたどり着いたのだが、一足遅かった。サガたちに場所を取られていたばかりか、かなり面白く無い場面に出くわしてしまった。
「いやぁ、あいつらいつの間にか随分とまぁ・・・」
デスマスクがニヤニヤと笑っていると、背後でバキンッと音がした。
「・・・・」
剣舞の練習用に用意していた細いサーベルが、真っ二つになっていた。
「あんたって人はほんと・・・」
「・・・稽古を始めるぞデスマスク」
「ハッ?あんたそれ真っ二つにしちまったじゃねえか」
「お前には丁度いいハンデだろ。覚悟しろよ」
断末魔の叫びが、学園中に響いたとかなんとか。
サガの地獄の特訓の日々は過ぎ(途中から完全に星矢の修行になっていた)いよいよ舞踏会当日。
寮長室に呼ばれた星矢は、窓辺に佇む主の姿に息を飲んだ。
普段は背を覆う豊かな青銀の髪は一つに纏められ、銀色のリボンで束ねてあった。
黒の礼服はシンプルではあるが、サガの品の良さと美しさを一層際立てているようだった。
「おはよう、星矢」
「お、おはよう、サガ・・・」
見慣れぬサガの姿に思わず口ごもってしまう。
そんな星矢にサガは優しく微笑むと、おいで、と手招きした。
「この前採寸したものだ。城戸沙織女史から贈られる予定だと聞いたのだが、こちらからお願いして私のほうで作らせてもらったよ」
「そ、そうなのか?なんか悪い気がすんなぁ・・・」
差し出されたのは今日のための礼服だ。見るからに質のいい生地で気後れしてしまう。
沙織との付き合いやサガの騎士になったことで高級品には見慣れているが、星矢はもともと外で駆けまわって泥だらけになるような遊びを好むタイプだ。
これほど仕立てのいい服を身につけるのは躊躇われるし、何より似合わないに違いない。
星矢が珍しくおどおどとしているのに、サガがぴしゃりと肩を叩いた。
「さぁ、早く着替えるんだ。私が用意したものが着られないとでも?」
「着る!着るよ!」
星矢はばさばさと制服を脱ぎ捨てていくと、もたもたしながらも礼服に着替えた。
サガにタイを直され、姿見の前に立たされる。
「ふふ、よく似合っているよ、星矢」
「サガ笑ってるじゃん・・・!」
「いや、本当によく似合っている。お前はラフな格好で気楽にいるのが好きかもしれないが、こういうのもちゃんと似合うんだよ。格好いいぞ星矢」
「ほんとかよぉ」
「ああ。・・・本当に、似合ってる」
サガの瞳がどこか懐かしそうに細められたのを鏡越しに見て星矢は思わずムっとした。
(今絶対比べたな)
どこの誰とは言わないがあの射手座に違いない。
「サガ!」
星矢はくるりと後ろを向いてサガの手を取った。
「今日絶対勝ってくれよな」
「無論、そのつもりだ」
サガの瞳の奥に好戦的な光が宿った。これでこそサガだ。俺の賢者だ。
「さて、舞踏会は夜からだが、私たちもそれまでに仕事を済ませよう」
挨拶まわりに、催しの不手際が無いか、生徒たちの支度は整っているか、確認することは山ほどある。
「ああ、行こう、サガ」
星矢はサガの手を取り、寮長室を後にした。
一方太陽寮では、アイオロスがつまらなそうに机の上に紙を広げた。
見るからに高級紙で、金持ちが好みそうな便箋だ。
しかし内容は全く穏やかなものではなかった。
「おうおう、朝から不機嫌そうだな、寮長さんよ」
「デスマスク・・・お前、太陽寮に入寮希望なのか?俺の言うことを聞くなら入れてやらんこともない」
「アンタが寂しいだろうと思って会いに来てやったのさ。それに俺たちはサガの味方だ」
「それはよく知ってる。・・・まぁ、お前たちみたいなのがいたほうが安心だしな」
「何か言ったか?」
「何も。それより何か用か」
デスマスクは答えずに机の上に広げられた便箋をつまみ上げて声に出して読み上げた。
「下品で粗野な太陽寮寮長よ、今宵の決闘は棄権されたし。さもなくば命が危ない・・・何だこれ、金持ちってのは脅迫文の一つもまともに書けねえのか」
「全くお上品な文章で呆れるな。大方お前らと同じサガ信奉者だろ。はぁ、マメなことだな」
アイオロスの元にこの手の手紙が届くのは珍しいことではなかった。
今日は特に直接対決とあって、いつもよりも多い。
「命が危ない、だとよ。アンタ後ろから刺されんじゃないか?」
「その時はせめてサガの腕の中で死にたいものだ」
「よく言う」
デスマスクは手紙をくしゃくしゃと丸めるとゴミ箱に投げ入れた。
「まーでも、最近のサガ信者はちょっと殺気立ってるからな。気をつけたほうがいいぜ」
「誰に言ってる」
アイオロスは溜息をつくと立ち上がり、タイを締め礼服のジャケットを羽織った。
鍛えられた体躯が礼服に包まれると、普段の野性味が覆われ、紳士的な印象になる。
立ち姿から僅かに覗く獣のような雰囲気は、大人の男の色気を感じさせた。
「アンタもそうやってるとそれなりだな」
「・・・サガのようにはいかないだろ」
「褒めてんだぜ?」
「サガは―――・・・いや、何でもない」
「何だよ、気になるな」
「ちょっと思い出しただけだ」
入学した年のことだ。1年生たちは集団での剣舞になるのだが、アイオロスとサガは既に目立つ存在だった。
見目麗しく、童話に出てくる王子様のようだったサガの礼服姿にどきどきすると同時に、
自分はきっと似合わないに違いない、サガと比べられて悪目立ちするだけだと多少ふてくされていた。
しかしサガに無理やり着替えさせられ、鏡の前に立たされて『よく似合っている』と微笑まれたときに、もうそんな気分は飛んでいってしまった。
互いに純真すぎた頃の話だ。
「まぁ、一応気をつけといてくれよ。同じ寮生を悪く言うもんじゃないが、どういう手を使ってくるか分からないからな」
「覚えておく」
日暮れを迎え、ホールに蝋燭の火が灯された。いよいよ舞踏会の始まりである。
お祭りムードに生徒たちも浮き足だっていた。
始めに1年生の剣舞が披露され、学年が上がっていくとともに、その動きも難しいものになっていく。
下級生たちは上級生の統率のとれた動きと剣捌きに興奮気味だ。
そして各主席の剣舞である、が、今いる主席の生徒たちは困ったことに一癖も二癖もある者ばかりだった。
一対一のはずが、いつのまにか二対ニになっていたり、剣舞もせずに説法をはじめたりと、やりたい放題だ。
蠍座主席ミロや獅子座主席アイオリアは、互いの対戦相手では無いにも関わらず、型も無視して決闘を始めた。
アイオロスは面白そうに見ていたがサガは思わず頭を抱えた。
途中、なぜか星矢まで巻き込まれ、デスマスク、シュラ、アフロディーテにいいように遊ばれてしまった。
サガに剣を仕込まれていたので、それほど無様な姿を晒すことはなかったが、やはり年長の主席三人ともなるとレベルが違う。
主席たちの奔放な、しかし見事な剣技に会場内の熱気は否が応でも高まった。
そしていよいよ、寮長同士の対決だ。
生徒の一人が、二本の剣をゆっくりと運んでくる。
刀身は細く、柄や鍔には銀細工が施されている。模造刀ではあるが、装飾は美しく、蝋燭の火を反射させきらりと光った。
サガに渡すものは、星矢が一度受け取ってから、跪きサガに差し出した。
サガは静かに剣を受け取った。
アイオロスも剣を取り、二人は正面に向き合い礼をした。
(サガ、緊張してる)
星矢ははぶるりと体を震わせた。会場内に緊張感と、それにも勝る期待と興奮が渦巻いている。
二人の間にピンと糸を張ったような緊張感が走る。
二人の立ち姿に、生徒たちが固唾を飲んだ。
「胸の薔薇を散らされたほうが敗者となります」
審判を行う生徒がサガとアイオロスの胸に薔薇を差した。
サガが白、アイオロスは赤い薔薇である。
剣を構え、二人が相対する。
会場内に気迫が漲る。互いに、本気の力を出しあうであろうことが誰の目にも分かった。
ビリ、と肌を刺すような緊張感の中で、二人が剣を構える。
暫くは、そのままだった。
そして気が動いた、と思った瞬間に、二人は足を踏み出していた。
「!」
星矢がぎゅっと拳を握る。
互いに最初の一撃を躱し、立ち位置が入れ替わった。
そこからはもう止まることなく、キン、キンと剣がぶつかり合う軽やかな音を立てながら、
まるで踊るように互いに剣を繰り出した。
(サガ、笑ってる・・・)
ほんの小さな表情の変化だが、星矢は見逃さなかった。
それはアイオロスも同じで、二人とも心から楽しんでいるようだった。
実力が拮抗するからこそ、普段本気で戦えないからこそ、今の緊張感を楽しんでいるのだ。
危険を楽しみ、しかし絶対に勝つという強い心がある。
そうした部分では、二人は実によく似ていた。
くるくると、何度か位置を入れ替えながら剣を交わし合い、どちらが勝つのかと皆瞬きもせず見つめていた。
が、唐突にその時はやってきた。
サガの剣撃に、ほんの一瞬アイオロスの剣が鈍った。
(いける!)
ビュッ、と鋭い風切り音を立て、サガの切っ先がアイオロスの胸元に突き出された。
「・・・っ!」
しかしアイオロスの胸元の薔薇は散らされず、サガの剣先は胸元の寸前でアイオロスの手にぎゅっと握られていた。
「な、なんだ・・・?」
ポタ、と床に赤いものが散った。
「血だ!」
にわかに会場内が騒然とした。
「おいおい、模造刀じゃなかったのかよ?」
「サガ!」
周囲がざわざわと騒ぎはじめ、星矢がサガの元に駆け寄ろうとした。
「静まれ!」
アイオロスの怒声に、会場内が一瞬で声を無くす。
銀の剣を伝って、赤い血が流れていく。
アイオロスはゆっくりとサガの前に歩み寄ると、耳元でそっと囁いた。
「サガ、大丈夫。オレは大丈夫だよ」
優しく微笑みかけ、未だ固く柄を握ったままのサガの手を、血のついていないほうの手でそっと撫でた。
「サガ、大丈夫だから」
「わ、わたしは・・・」
サガは青ざめた顔でアイオロスの手をじっと見つめた。
(何だ・・・?)
星矢の場所からはアイオロスが何を話しているかまでは分からない。
しかし、サガの様子が常とは違うということだけははっきりとわかった。
(サガ、どうしたんだ?あんなに顔色が悪いとこ初めて見るな・・・)
「さぁ、離すんだ、サガ」
アイオロスに再び手を撫でられ、サガはゆっくりと手を離した。
ガラン、と音を立てて銀の剣が床に落ちた。
アイオロスは一歩下がると、駆け寄る生徒を手で制し、胸元の薔薇を掴んで散らせた。
「オレの負けだ、サガ」
「ロス・・・!」
「あのまま突かれていたら薔薇も散っていた」
「違う、お前はあの時気づいて―――」
アイオロスの剣が一瞬鈍った瞬間。あの瞬間にアイオロスは、サガの剣が模造刀ではないことに気づいたのだ。
そしてその僅かな隙に、サガの一撃に遭った。咄嗟に手で掴んでしまったが、あのまま突かれていればアイオロスもただでは済まなかっただろう。
「隙を見せたオレの負けさ」
アイオロスは肩を竦めて見せたが、サガはぎゅっと眉間に皺を寄せた。
そして一度静かに目を閉じると、サガは胸元の薔薇を掴み、アイオロスと同じように散らせた。
白い花弁がひらひらと舞い、床に滑り落ちた。
「サガ・・・」
「これは私の落ち度だ。本物の剣であることにも気づかず、お前に怪我を負わせてしまった。
私の、月寮の悪しき感情がお前に血を流させてしまった。・・・すまない」
そしてサガは床に落ちた剣を拾い上げると、刃を首元に近づけた。
「サガ、何を」
「これは私のけじめだ。許せ、アイオロス」
ざり、という音を立てて、サガは束ねていた長い髪を切り落とした。
アイオロスが驚きに目を見開いた。
ぱらぱらと、細長い銀糸が床に散らばっていく。
「ああああサガのバカ!こら、星矢!こういうときに駆け寄らなくて何が騎士だ!」
アフロディーテに尻を蹴られ、星矢はハッとしてサガに掛けよった。
アイオロスは呆然とした面持ちで切り落とされたサガの髪を見つめていたが、星矢が駆け寄ってくるとくるりと背を向けてしまった。
辺りがにわかに騒然とし、ワっと生徒たちが駆け寄ってくる。
星矢はサガから剣を受け取ると、サガの手を引いて人混みを押し分け会場から脱出した。
「なんてことを!ひどいざんばら頭になってしまった・・・サガの長い髪が、私が丹念に手入れしていた髪が!!」
「落ち着けアフロディーテ・・・まさか髪切り落とすとはなぁ・・・ありゃあサガ信者もショックだろうなあ・・・・オイ、シュラ、大丈夫か?」
「髪・・・サガの・・・髪・・・・サガの・・・」
「だめだこりゃ」
(あっちもひでえ顔してんな・・・)
会場の隅で太陽寮の生徒に囲まれたアイオロスが、鬼のような形相をしていた。
きっと取り巻きの生徒たちに太陽寮こそ勝者で正義であると叫ばれているのだろうが、恐らくアイオロスの頭の中にあるのはサガの髪だ。
サガの美しさや、神秘性を高めていたのが、あの豊かな長い髪だった。
デスマスクたちは知る由もないが、アイオロスはサガのあの長い髪を非常に気に入っていた。
色や手触りや、抱きしめたときの香りや感触が好きだったのだ。
切らないでくれ、と頼んだこともあった。
願掛けでもあるから、切るつもりはない、とサガははっきりと言ったのだ。
サガはそれを今日、切り捨てた。
誰かが仕組んだつまらぬ悪戯へのけじめとして。
(最悪だ)
手の平の怪我などいかほどのものでもない。
血を流した姿を見て硬直したサガに、アイオロスは悦びさえ感じたのだ。
後ろめたさでも何でもいい。あの瞬間確かにサガの心を独占できたのだから。
まさか全て切り捨てていくとは思わなかった。
髪を切り落としたサガの表情は、すっきりとしていた。
積み重ねてきた願掛けも、後ろめたさも、自分が触れた思い出も捨てられたような気がした。
(まさか目の前で切られるだけでこんなにショックだとはな・・・)
肩まで短くなったところでサガの美しさが損なわれるわけもないのだが、とにかく惜しい。
(髪の一房でも、手に入らないものか)
我ながら女々しい。
しかし本当に、あの長い髪が好きだったのだ。
「サガ、だ、だいじょうぶか・・・?」
星矢はサガの手を引っ張って寮長室まで戻ってきていた。
サガはソファに腰掛けると、乱暴にタイを抜き去って床に投げた。
サガらしからぬ行いだ。
「さっきのあれ―――」
「気遣いはいい。全く無様な姿を晒してしまった」
サガが眉間に皺を寄せた。乱暴な物言いだ。
(なんかすげー怒ってる!)
「剣がすり替えられていることにも気づかず、太陽寮寮長に怪我を負わせ動揺し、その上勝ちを譲られた・・・情けない」
「でもオレも全然気づかなくて・・・」
「それは、いい。お前が怪我でもしたら大変だ。・・・謝罪の意味もあるが、アイオロスに偏りかけた空気をこちらに戻すには、それなりのインパクトが必要だった・・・。
アイオロスもかなり驚いていたようだが・・・やりすぎただろうか」
ようやくサガの表情が少し和らいだ。
短くなった髪をつまみ苦笑するサガは、いつもの雰囲気に戻っている。しかし、
「なんか、サガ、雰囲気変わった・・・ような」
「そうだろうか?まぁ、そうだな・・・色々、軽くはなったかな」
「オレ、長い髪好きだったんだけど」
「短い髪の私も好きになってくれ」
「それは!当たり前だけど・・・!やっぱサガ、なんか意地悪な感じになったぜ。・・・す、すきだけど」
「ありがとう」
ちゅっ、と小さな音を立てて、星矢の額に口付けた。
「うっわ、何だよその頭」
夜中に現れた弟に、サガはハサミを手渡した。
「アイオロスとの決闘で少しな・・・」
「負けたのか?」
「どちらとも言えん」
カノンは鏡の前に立つと、何の躊躇いもなくざくりと髪にハサミを入れていった。
サガに成り代わることのあるカノンは、昔からサガに容姿を合わせてきた。
特に思い入れがあるわけではないので、どんどん切り落としていく。
「結構軽くなるもんだな」
「悪くないだろう」
「まぁな」
サガは外套を纏いフードを頭からかぶった。
「すまないが明日は代わってくれ」
「明日?別に構わないが、どこに行く」
「私の切り落とした髪を愛してくれた者のところに」
「それを聞いて行かせると思うのかよ」
手首を掴まれサガは苦笑した。互いに、兄弟の情を超えた執着であると理解はしている。カノンは特に、その情が他者への敵意として向くことが多かった。
その最たる例がアイオロスである。サガのアイオロスへの気持ちを知っているからこそ、いい気はしないのだろう。
それに、サガの代えとして過ごすことも多いカノンは何度かアイオロスと遭遇もしているはずなのだが、どうやら良い印象は持たなかったようだ。
「カノン・・・お願いだ。それに、今日限りだ。そういう予感がある」
「どういう予感だよっ!」
「何だろうか・・・私にもよく分からないのだが、髪を切り落としたことで随分気持ちも軽くなったようだ。これからは、一点の迷いも無く、闘える」
「・・・お前がそう言うなら。ただし今日だけだぞ!お前はアイツをブッ倒して、教皇になるんだ。そうだろう?」
「ああ、そうだ。私はアイオロスを倒し教皇になる・・・」
カノンが唇を寄せるのも避けず静かに受け入れる。ゆっくりと、何度か触れるだけのキスを繰り返し、ふいにカノンが半端な長さになった髪を引っ張った。
「カノン、痛い」
「誰かにちゃんと直してもらったほうがいいな。長さがめちゃくちゃだ」
「・・・そうだな、そうしよう」
今日だけだからな、明日の朝には必ず戻れよ、とうるさい弟を置いて、サガは部屋を抜け出ると真っ暗な森へ足早に向かった。
コツン、と窓に何か当たる音がして、はじめは枝先でも当たったのだろうと思って無視していたが、コツコツと何度も当たるのでアイオロスは渋々酒瓶を机に置いて立ち上がった。
カーテンを開け窓を開けてみると、枝が撓って窓に当たるような風も吹いていない。
何かと思って辺りを見回していると、ロス、と下から小さな声が聞こえた。
「・・・サガ!」
思わず窓から身を乗り出すと、真っ黒い外套に身を包んだサガがやわらかく微笑んだ。
「お前、何をして――」
「今そっちに行く」
サガは軽やかに一本の木に登っていくと、あっという間に窓の高さほどにある太い枝まで辿り着き腰を下ろした。
「何もこんな日に来なくたっていいだろう」
「お前が拗ねているんじゃないかと思って」
「何を拗ねることがある。今日は舞踏会の夜だ。皆楽しく宴を開いて盛り上がっている」
「お前は楽しそうな顔ではないな」
「・・・そんなことはない」
「そちらに行きたいのだが」
サガが積極的に会いにくるなど、ここ暫くの間には一切無かったことだ。互いの立場もある。サガは特に、感情に流されまいと強く思っているようだから余計に。
そちらに行きたいと言われて、断る理由も無い。無いのだが、正直今このタイミングは勘弁してほしかった。
舞踏会の騒ぎの後、なんやかやと人が纏わりついてくるのが鬱陶しくて一人で引きこもっていたのだが、そのせいで少々、部屋が荒れている。
サガにだらしがないところを見られるのはプライドに関わるのだ。
「・・・今はちょっと、まずいんだが・・・俺がそっちに行く」
「無茶を言うな。怪我をしているんだぞ」
「大した怪我じゃない」
「お前のことだ。酒瓶でも転がっているのだろう。私は月寮の寮長だから、ソルの生徒を監督する立場にない」
怒らずにいてくれるということか。しかしサガのこの積極性は一体なんだろうか。今まで一度もこんなに傍へと求められたことはない。
(やはり髪を切り落としたせいか。くそ、サガのやつ・・・本当に思い出ごと切り捨てたな)
「私に見られてはまずいものでも隠しているのか?仕方のないやつだ。期待通り叱ってやる。受け止めてくれ、アイオロス」
「おい、まさか飛ぶ気か」
「飛ばずには行けまい」
サガは立ち上がると、体のバネを精一杯使って思い切り跳んだ。そう大きくはない窓から飛び込んできた体を、両手を広げしっかりと受け止める。
そのまま抱きしめていると、サガが腕の中でくすくすと笑い声を上げた。本当に珍しい。
「・・・随分楽しそうだな、サガ」
「ああ。こんな無茶は久しぶりだ・・・」
するりと髪を撫でて、そしてその違和感に思わず眉間に皺を寄せた。いつものあの感触が、肩のあたりでぶっつりと途切れている。
「やはり拗ねているな、アイオロス」
「拗ねていない」
「許してくれ。この、手の傷も・・・」
「手の傷はサガのせいではない」
「ルナの生徒のしたことだ。私にその責任がある・・・最も避けなければならないことだったのに」
「本当に大した傷じゃない。サガが毎日手当てしてくれれば、すぐに治るだろう」
「できないと知っているくせに」
「今日みたいにこっそり飛び込んでくればいい」
サガは暫しの間黙りこむと、胸を押し返してそっと距離を取った。
「アイオロス。私は今日切り捨てたのだ。瑣末な情も、淡い思い出も、――苦しい恋も」
「サガ・・・」
「お前が好いてくれた髪も、切り捨ててしまった。今日までだ・・・今までの私は。明日からは――」
サガの瞳には、いつもの凪いだ湖面のような静けさではなく、赤く燃え上がるような戦いの炎が宿っていた。
変わったのだ。本当に、捨ててしまったのだ。
「全力でお前を、倒そう」
清々しいまでの宣戦布告だ。
サガは強い。長く美しい髪を切り捨てた瞬間に、サガの中の何かも切り捨てられたのだ。
「だが、今日だけは――・・・」
サガの瞳が、ゆらりと揺らいだ。薄く水の膜を張った青い瞳は、吸い寄せられるほどに美しい。
「今日だけは、私は、切り捨てられた私のままだ」
ゆっくりと、唇を重ねた。口づけは徐々に深くなり、サガの両手が背にまわされると同時に、静かに床に体を横たえた。