笑顔

「サガ!これを見てくれ!」
「今度は何だ」
なにやら嬉しそうな顔で駆け寄るアイオロスの手には一枚の紙切れ。
何かと思ってアイオロスから受け取ると、なにやら胡散臭げなチラシであった。
「”笑顔でストレス発散”・・・?」
「そうなんだ。人間とはどうも、やはり笑わねばならないらしい。このままストレスで倒れられても困るしな」
「私は笑っていないか?」
13年前、アイオロスの知るサガは優しい笑顔に満ちていた。
無論、それを変えたのはサガ自身であるが、
アイオロスは久しく会う恋人があまりに寂しげな顔ばかりするのが悲しくてならなかった。

気付けなかった自分。
話してはもらえなかった自分。

サガの性格を考えれば仕方のないことだったのかもしれないが、アイオロスに優しく微笑む内面は、
心に巣食う黒い病と独り闘っていたのかと己の無力さを感じずにはいられない。

長い年月をかけ、己の心と向き合い、打ち勝ったサガ。
同じ立場にある黄金聖闘士たちとは、何ひとつ変わらずというわけにはいかないが、既に和解は済んでいる。
弟カノンとの関係も、少しずつ溝を埋めるように、互いが歩み寄っている。
だが、未だ周囲からの疑念を拭うことはできない。
サガはそれは自分の罪であり、これから贖うべきことだと言うが、
実際にこうも長くサガへの冷たい眼が続けばサガとはいえ堪えないはずがない。
サガの数少ない笑顔は、聖戦後はじめて会ったときに比べれば目覚しい変化ではあるものの、
13年前に比べれば翳りの多い笑顔である。

せめてもうすこし明るく笑ってもらいたいと、アイオロスは日々様々なものをサガに見せにくる。

「そうではない。ただ、本当に楽しそうに笑うことが少なくなった」
「・・・・そんなことを・・・するわけには」 「サガ、お前がそう自分を抑えれば抑えるほど、
つらい状態は続くばかりだ」
「つらくなどない。それに、私は自分を抑えてなどいない・・・」
「サガ、お前は一人で死に物狂いで頑張ってきたんだ。
なのにこれからもまた楽しいことも何もせずに一生を終えるつもりか」
「それが私の罪であり、私の業だ。それを償うには、一生をかけても足りんくらいだ」
「だがな、サガ。せめてもう少し、息をぬいてくれないか。このままでは本当に倒れてしまう。
女神はそんなことはお望みではない」
「・・・・」
怒りを殺し、悲しみを殺し、喜びも楽しみも手にはしない。そうしてこのままなすべきことをするのだと。
それが己が罪であり、罰であると、サガは何度自分自身に言い聞かせただろうか。
どんなに手をさしのべても決してとりはしない。
そんな生き方は、息苦しいだけのなにものでもないのに。
寂しき恋人。愛しき恋人。
アイオロスは、サガの豊かな青銀の髪を手にとり、口づけを落とした。

「俺はもう一度、いや、もっとたくさん、お前のあの優しく、美しい笑顔を見たい」

手を引き寄せ、胸に抱く。体に馴染んだその美しい人は、
抵抗するでもなくただ静かにアイオロスの腕に包まれる。
誰よりも愛を欲し、愛することを望むサガ。
どんなに望もうと、自分自身でその想いを消し去ってきた。
消し去っても消し去っても、奥底に積もり、染み込んだ想いは、決して拭うことはできない。
本当は愛されたいのだと、誰より深くひとを愛したいのだと言うことができたならば、
どんなにか楽になるだろう。
しかしサガはそれをしない。
アイオロスもそれを知っている。
だからこうして優しく包むことで、自分が誰よりもサガを愛し、
そしてサガも愛してくれているのだと伝える。
「アイオロス・・・」
「せめてもっと素直に笑うことを覚えてくれ。
お前のあの笑顔を見れば、俺はもちろん、他の者だって天にも昇る思いだ」
「大げさな・・・」
「そんなことはない。それほど魅力的な表情をするのだ。
いや、もちろん笑顔だけではないが、やはり笑った顔が一番美しい」
「大げさだ。アイオロスは。私はそんな人間ではないよ」
ふふ、と小さく笑みをこぼすサガに、アイオロスも笑顔になる。
「まあいいさ。お前が腹をかかえて笑うまで、俺はいつまでも下らないことをし続けるぞ」
「下らないという自覚はあったのか」
派手な見出しのチラシに再び目を通す。
「・・・それほどストレスを溜めているように見えるか?私は」
「お前には色々と気苦労をかけているからな。
それに、恐らくストレスの量に笑顔の数が追いついていないのだ」
「そうか・・・」
「まああれもこれも気にしすぎるなということだ」
「そういうわけにもいくまい・・・ただ」
「?」

「お前が私を笑顔にしてくれるのだから、問題はないだろう」

愛しい恋人。
その寂しさを押し隠す優しげな、花も開くような笑顔に、アイオロスは暫し見とれた。