アイオロスと最後に繋いだ手のぬくもりが、まだ残っているような気がした。
当然それは別れを惜しむ心が成す幻で、今はもう、暗い部屋の空気が体を冷やすだけだった。
地上へと戻ったアイオロスは、極めて情緒不安定だった。
右手を何度も握ったりひらいたり、じっと見つめたりを繰り返していた。
うろうろと人馬宮の中を歩きまわり落ち着かず、心配した弟が尋ねると、アイオロスは不可解な様子でこう言った。
「大事なものを失った気がする。手にまだ感触が残っている。離してはいけなかった気がしてならないんだ・・・」
アイオロスとサガのやりとりをなんとなく察していたアイオリアは、答えることができなかった。
アイオロスはサガのことを忘れているし、これ以上刺激するのも憚られた。
聖域ではもはやサガの名は禁忌に等しく、黄金聖闘士もそれぞれ気をつかっていた。一人の仲間を忘れるというのは酷な話だが、
それがサガの望んだことである以上、他の黄金聖闘士たちもサガの話をすることはなかった。
ただ、それぞれ心の内にやりきれなさだけを抱えていた。
カノンはもはや聖域にとどまる気はなかった。表向きは双子座は空位のままである。
アイオロスは皆に問い詰めたい気持ちを抑えていた。自分のためにやっているであろうことが分かっていたからだ。
しばらくは戦の兆候もなしと見なされ、黄金聖闘士たちも各地に散り散りとなった。
アイオロスだけが、聖域で教皇として残った。
アイオロスが教皇の座に就いてから幾年かが過ぎた。
かつての明朗な面影はなくなり、アイオロスは表情を変えなくなった。
冷酷な教皇としての側面が強く顕れるようになったのだ。
シオンが問いただすも、アイオロスはただ分かりませんとしか言わなかった。
アイオロス自身にも、分からなかったのだ。
ただ確かなことは、聖域に存在する者に何の慈悲も感じないということだった。
「私にも分からないのです。ただ、慈しむ心など微塵も生まれない。私はどうしてしまったのでしょう。
かつてはこうではなかった気がします。蘇るまでは・・・・。皆が隠しごとをしていることはわかっています。
私のことを考えてのことだということも。しかしこの喪失感は何なのでしょう。
こんな心を抱えた状態で、私は教皇にならねばならなかったのですか。今もこの右手が・・・何かを追い求めるのがわかるのです。
残された私の僅かな本心がそう訴えるのです。・・・憎しみすら抱いてしまう。理由などない。ただただ、聖域が憎い。
私の大切なものは、聖域に奪われてしまったのではないかと。そんなはずはない、仲間も弟も無事だと・・・そう言い聞かせても、
駄目なんです。憎い・・・私はいつ聖域に仇なすか分かりません。教皇の座など・・・・」
アイオロスは滅多に姿を見せなくなった。しかし、それでも民のアイオロスを信望する声は途絶えることがなかった。
皆、まだ“サガ”という悪を覚えているのだ。そして“英雄アイオロス”は真の教皇であると、悪の心など微塵も持ち合わせぬ、
真の優れた人間であると信じて疑わない。
アイオロスはそうした妄執を目にするたび、耳にするたび、聖域の民のその心の空洞を感じた。
自分がこれほど聖域の民を慈しむことなどできないというのに、その民は自分を信じて疑わぬのだ。
「愚かだ。なんと愚かなことか。聖域など焼き払ってしまいたい衝動すら持つ私を、まだ英雄などと崇めるのか」
アイオロスは民を慈しもうと努めることすらやめてしまった。
もう誰にもアイオロスを光満つる道へと誘うことはできなかった。
唯一、それを為そうとした者は、まず自らの存在を消してしまったのだ。
アイオロスが心から望んだその手を、離してしまった。
「愚かな・・・愚かな者どもが!」
アイオロスの憎しみはじわりじわりと聖域を侵していった。
女神は幾度もアイオロスを心配し対話を続けたが、罪を犯したわけでもない。教皇としての彼の行いに糾弾すべきところはないのだ。
ただ、民が憎い。人の心を愛する女神は、憎いと思うアイオロスの心を否定できようはずもなかった。
神はそもそも、人の行うことに対しては寛容すぎるほど寛容だ。かつてサガが悪へと走ったように、人としての心を止めることなどない。
冷え切った教皇の座で、アイオロスは右手の平をじっと見つめた。
気がつけば、こうしていた。いつからかは思い出せない。
俺は何を手放してしまったのだろうか。
何年経っても消えることのない喪失感。そして日ごとにます怒り、憎しみ。
耳に届く英雄アイオロスへの称賛の声。
アイオロスの心には大きな空洞ができてしまった。
覗けばそこには闇しかなく、何の声も彼には響かず、ただ底へと消えていくだけだ。