「知らない」

はぁ、はぁ

苦しそうな息遣いがバスルームから漏れる。
カノンは雑誌を読んでいた視線をバスルームに向けた。
「またか」
溜息をつきおもむろに立ち上がり、雑誌をローテーブルに投げた。

カノンの存在は秘されているとはいえ、生活する上で困ることなど特に無かった。
金もある。服も、食糧にも困らない。
幼い頃二人が過ごした境遇に比べれば、どれほどマシか。
カノンは現状に満足していた。
こんなものだろうと。
むしろ、黄金になりそこねた自分が、兄と共にこんな暮らしができることに感謝すらしていた。

だが、サガは違った。

より上に、高みに。
上り詰めようとした。

(教皇サマになれたからって、その先に何かあんのかねえ・・・)

サガには見えないのだろうか。
あのジジィの孤独が、背負うモノに圧し潰れそうな背中が。

(見えないんだろうなぁ)

輝ける聖闘士の頂点。
その光しかサガの目には届いていない。
誰よりも上へ、上へ。


何のために?


(・・・知ったことか)


ただひたすらに努力するサガは、当然それなりに力をつけていった。
射手座と共に任務につくことも少なくない。
二人はそれなりにうまくいっている。
表面上は。


「ぐ、あああああああ・・!」


チッ、と舌打ちをして、カノンはバスルームの扉を開けた。
中には、頭をかかえて蹲るサガの姿があった。

カノンはシャワーを止めると、バスタオルをサガに投げた。

「今度は何だ。今度は、誰を殺したって言うんだ」
「・・・」

サガはじろりとカノンを睨みつけた。

「お前、さ、何がしたいんだ?教皇になりたいんだろ?聖域は慈善事業団体じゃねえんだ。
人も殺す。町も焼く。アテナの正義とかいう名分をかざして、人を殺すんだ。
お前がその手で殺す人間には帰る家がある。親がいる。兄弟が、子供が、恋人がいる。
だが殺さなきゃなんねー時は殺す。それを覚悟した上で手を下す。
余計なこと考えて騒いでんじゃねーよ。馬鹿が」
「貴様に・・・貴様に何がわかる・・・」
「分かるわけねーだろバカ兄貴が。大体、そこまで神経スリ減らして教皇になろーって気が
知れねえよ・・・。一介の黄金ごときが背負う荷物とは違うんだぞ?分かるだろ?」
「うるさい!うるさいうるさいうるさい!!」
サガは手を振り上げ、カノンに殴りかかった。
が、カノンはあっさりとそれを掴むと、サガの腕を捻り挙げた。
「くっ・・・!」
「ほら、な。余計なこと考えてるから俺ごときも殺せねえ」
「・・・お前に・・・お前に何がわかる・・・・何が・・・」
カノンは腕を離すと、今度は優しく兄を抱きしめてやった。
サガは濡れたままだったので服が大いに濡れたが、そんなことも気にとめず抱きしめてやった。
髪を掻き分け、何度も何度もキスをし、顔を撫でた。
「バカな兄貴だ、寄越せ」
「・・・イヤだ」
「寄越せ」
カノンはサガの額に額を当て、こめかみに手をやり、小宇宙を高めた。
バスルームの温度がむっと高まった。
「はぁ・・・カノン、イヤだ、どこまで取る気だ」
「全部だ。全部、寄越せ」

イヤな記憶を。

サガが毎度毎度苦しみ、悶えることなど、カノンにとっては些細な出来事だった。
例えば、殺そうとした男に、産まれたばかりの子がいただとか。
やむにやまれぬ経済状況で言われるがまま悪事に手を染め後戻りできなくなっただとか。
そういう、下らない事情ばかりだった。

しかしサガにとってはどれもこれも、重大な事象らしく、
あんまり煩くサガが苦しむと、カノンは時々こうしてサガの記憶を強引に奪った。
サガの中の負の記憶は次第にカノンに蓄積していき、“サガが知らないサガの記憶”を、
カノンが多く持つことになった。副作用は、頭痛・吐き気。
大したことではなかったが。

そう、大したことないのだ。

(どんだけ神経脆弱なんだ)

ずるずると自分の頭の中にサガの苦しみを吸い取っていく。
どれもこれも、下らないことばかりだった。

(何が苦しいんだ、こんなの)

できれば、代わってやりたい。
黄金の名誉だとか、そんなものに興味はない。
ただ、自分が全く興味関心のないことに、兄が傷つき、苦しんでいる。
だったら自分がやったほうが効率がいいんじゃないか?

(まあ、コレが終われば、何で悩んでたかもわかんなくなるけどな)

これじゃ、俺が任務にあたってんのと一緒じゃねえか。めんどくせえ。

カノンは一通りサガの記憶を覗き、掃除し終えると、最後に額にキスをした。
「終わった」
「・・・長く、なかったか・・・?今日私は、そんなに・・・」
「知らねえよ。どれもこれも、くだらねえことだ。今日はさっさと寝ろ」
「・・・ああ」

本当は、サガがなぜ教皇の地位を欲しているのかも、全部知っている。
最近何をしたか、誰と会ったか、何を話したのかも、全部。
だがどれも、興味のないことだ。
どうでもいい。知らないのと一緒だ。


「・・・カノン、お前は・・・」


知っているさ、兄さん。あんたが最近俺の行為に疑念を抱いていることも。
俺の力が兄さんとさして変わらないことに不安を抱いていることも。
あんたが言いたがらないアイオロスとの記憶も持っているのに羞恥を感じていることも。

だがどれも興味がない。
そんなのは、知らないのと、一緒だろ?兄さん。

「いや・・・すまない、何でもない・・・」

俺は何も知らないさ。あんたが引け目を感じるようなことは何も。

だから、


そんな目で俺を見るな、馬鹿野郎。