| ●『自分ち』
あまりひとところに永く定住せず転々と渡り歩いてきた。フレキシブルに動けるように所持品、荷物も削ぎ落としてきた。
 引越のたびに自分の部屋を一から再構築してゆく。
 そのたびに手放したモノをまた買い揃えるようなこともする。けれど。
 モノを再び増やすようなことは、わしが必要というよりも
 間取りも環境も異なる個々の部屋ごとが必要としているのかもしれんな。
 
 部屋はたびたび変わるけれど
 部屋を再構築してゆく時の発想思想は変わっていない。それは。
 迎え入れる部屋づくり。
 寄ってくれたヒトが居心地よく思ってもらえるようなモノの配置や光や音。
 自分のウチでありながら自分が住まう以上に
 友が使いやすいように心がける。
 そうは言っても。何もかも揃えて便利を追求したいとも思わない。
 限られた空間をモノであふれさせてはヒトの居場所がない。
 そもそもビンボー暮らしに制約は多い。
 それでも。居心地のよい場にしたい。
 
 部屋の発想も旅先で多くを学んだ。
 直接的に宿から感じることもあるが。
 野宿でさえも居心地のよい場というものはある。
 
 そして。わしが居心地がよい部屋はわしを迎え入れてくれる場であり、
 なおかつ、わしが働きかけることで活き活きと変化してゆく場。
 ではないかと思う。
 立ち、歩き、座り、寝る。そこに居る。
 そこに「甲斐」がある。それこそが居心地なのではなかろうか。
 
 ただ客として扱われあれこれ至れりつくせり世話を焼かれるだけだと
 自分がそこに居る意義も甲斐もない。
 何か運ぶとか洗うとか手伝うとか料理をつくるとか
 小さなことであろうと役割分担をもって部屋に参加すると甲斐が生まれる。
 
 そんなことを想って部屋をつくる。だから。
 友が遊びに来て一緒に部屋を生かし呑み語りくつろいでる姿はうれしい。
 狭い部屋ながらも友たちが安心して雑魚寝してる姿を
 隅っこでひとりまだ起きて眺めているのが
 一日の終わりを締めくくる愉しみであり喜びなのだ。
 
 
 
 
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