| ●『流れる、時間、感覚』
放浪する本人は放浪してるつもりはなかったりする。それでも。流れてはいる。
 時間の感覚はどうやら周囲と違う気はする。
 
 流れ流れていてもひとところに落ち着くときもある。
 怪我や病気やさまざまな事情で留まることもあろう。
 
 一般的な旅行者にとって一週間、ある土地や宿に留まることは
 ずいぶん長逗留のように感じるかもしれない。
 しかし数ヶ月、数年の旅をする者にとっての一週間は、
 あくまでも一時的な滞在。
 
 カラダは地を求めるかもしれない。
 たどりついたあこがれの地、居心地のよい所で
 その土になるまで居ることになるかもしれない。
 
 タマシイは限定しない。
 地、所もひとところである必然性はない。
 どこにでもゆける。どこにでも在る。遍在できる。
 
 わたくしのタマシイなどというものは、ない。
 わたくしなんぞに限定されるものでは、ない。
 
 わたくしに限定されるものはカラダだけであり、
 わたくしはカラダである。
 
 わたくしがカラダである限りにおいて
 わたくしはある土地に留まることもあろう。
 
 そのタイムスパンは10年、100年というものかもしれない。
 
 ・・・
 わしはこの高知にこれから10年棲み暮らして
 カラダをこの土地のチカラと呼応させてみようと思う。
 (高知の中での引越はするかも。たぶん、するだろうな。)
 
 
 
 
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