〜怪傑狐草紙〜 *3* 狐よ己が道を行け

 

 「女優を、捨てる・・・?!」
玉緒の口から擦れた声が漏れる。真剣な眼差しの礼子は、ゆっくりと頷いた。
「アンタ・・ホンマ自分が何言うてんのかわかってはるんか・・・?!なあ!何を言うて―――!!」
「社長!」
遮るように礼子が口を開く。
「・・・本気なの。それだけ、今回の結婚について真剣に考えてるの。智と―――子供と一緒に暮らしたいって、そう思ってる。智と暮らせるのなら、女優を辞めても構わない―――私にはその覚悟があるのよ!」
キッパリと言い切った言葉に、室内はしんと静まり返る。玉緒と智は、同じように大きく目を見開いて、ただ呆然と礼子の顔を見つめていた。
「ずっと、考えていたことなの」
重たい空気の中、礼子はポツリポツリと話し始めた。
「私のわがままで子供を産んで、私のわがままで子供と別れて―――智にはずっと寂しい思いをさせてきたんじゃないかって・・・。あの頃、私はただ自分の道を必死に歩いていくことしかできなかったから・・・、だから寛治さんが智を引き取ってくれた。あの頃の私には、それをどうすることもできなかったのよ!だから取り戻したいの。あの時できなかったことを・・・あの時、手に入れるはずだったものを、今取り戻したいのよ!」
悲痛な礼子の叫びが、智の胸に突き刺さる。玉緒もまた、複雑な表情で礼子の横顔を見つめるしかなかった。
「せ、せやけど・・・」
強張る顔付きのまま、やっとの思いで玉緒が口を開く。
「今はこうして親子として会うことだってできますやろ?なんの不満がある言うのんか?・・・確かに、あんたたちを引き離したんはわたしやけども・・・せやからこうして、この子が何の不自由なく暮らせるようにしたやおへんか。一体何が不満なんや?!」
縋るような眼差しを受け、礼子はわずかに眉根を寄せた。

 寛治が亡くなった後、智が不自由なく生活できたのも、全部玉緒の配慮があったおかげである。だからこそ、こうして親子として顔を合わせることも可能になったのだ。礼子にとっても智にとっても、不都合なことは何ひとつないはずである。
 しかし。

 「私は、普通の家庭が築きたかった」
礼子はそうつぶやいた。
「だから―――だからあの時、寛治さんと築くはずだった『家庭』を、今度こそちゃんと築きたいと思ってるの。ただの、ひとりの女として・・・」
玉緒は言葉を詰まらせたまま、じっと礼子の顔を見つめていた。玉緒もまた、子を持つ親として、礼子の気持ちがわからないでもなかったのだ。
「ね、智は・・・智はどう思う?!」
不意にそう振られ、智はビクリと身を震わせる。
「お、俺は―――」
「智は、私と一緒じゃ、イヤ?」
潤んだ瞳で見つめられ、そこに当惑した様子の己の姿が映り込む。智の心は大きく揺れ動いた。


 母親と暮らすことは、心のどこかで望んでいたことかもしれない。どこかにずっと寂しい思いをしまったまま過ごしてきたのかもしれない。大好きな父親といる時でさえ、それは確かに感じていた。

 だけど。

「なんで―――なんで、女優をやめる必要があるの?」
「え・・・?」
ようやく口を開いた智に、礼子はわずかに目を見開いた。
「結婚したって女優続ければいいじゃん。何もやめる必要なんてないでしょ?!イマドキ結婚しても仕事続ける女の人だって多いわけだし・・・」
その言葉に、玉緒も慌てて続けた。
「そ、そうや!なんで女優をやめなあかんのや?!仕事かて、別に結婚しても続けられるやろ?今のまま―――この子のコトを公表しないまま結婚すれば、アンタはただ『初めて結婚した』だけに過ぎんやおまへんか。別になんの問題もあらしまへんやろ?そら、ちょっとは仕事に響くかもしれへんけど・・・。でもこうしてこの子とだって――今まで通りとまではいかなくても、会えることには違いないんやから・・・!」
詰め寄る玉緒に、礼子はわずかに口元を緩めた。
「じつはもう、言っちゃったの」
「へっ?!」
瞬時に智と玉緒が聞き返す。
「もうね、相手の人に、智のコト、話したの」
「!!!!」
あっけらかんと応える礼子に、ふたりは目を見張った。
「か、か、母ちゃん・・・そ、それって・・・」
驚きで言葉を詰まらせた智に、礼子は優しく微笑みかける。
「相手の人もね、ちゃんと了承してくれたわ。智のコトも寛治さんのコトも、全部ひっくるめた上で私と結婚したいって、そう言ってくれたのよ」
「な、なんで・・・そんなっ・・・!」
そう言ったきり智は絶句した。


 智のことさえ今まで通りに世間に隠し通せれば、岬 礼子が結婚したところで大きな問題は出てこないだろう。まあ彼女ほどの女優であれば、各方面にそれなりに影響を与えるであろうことは確かだが。
 それを、今まで隠してきたことを、そうもあっさりと知られて―――というか、むしろ自ら暴露してしまっては、ただの『結婚騒動』というわけにはいかなくなるのだ。

 『岬 礼子結婚』と『岬 礼子に隠し子発覚』とでは、事の重大さが違ってくるのである。

「やっぱり結婚するからには、相手に私のすべてを知ってもらいたいじゃない?智のことだって、ずっと隠し通すわけにはいかないし・・・。だから予め話しておいたの。あ、でも安心して!絶対、誰かに話すような人じゃないから。今はどこにも漏れてない話よ。心配しなくても大丈夫だから」
そう言って微笑んだ礼子は、じつに満ち足りた顔をしていた。智はようやくゴクリと息を飲み、改めて口を開いた。
「じゃ、じゃあ母ちゃんは、俺と・・その、相手の人と一緒に暮らしたいから、女優をやめるって言うわけ?」
「・・・まあ、そういうことになるわね。智のコトを言うとなれば、それなりの反応があると思うから―――覚悟してるわ」
今まで貫き通した《秘密》を公表するとなれば、世間の反応がどう出るかは、すぐに想像がついた。礼子の応えを聞いた智の顔が急に曇る。
「智・・・?」
「・・・俺は・・・」


 『女優をやめて欲しくない』

 それが智の望みだった。なぜなら、それこそが、礼子が《女優》であることこそが、寛治の望んだことであるのだから―――
 《夢》の為に歩む礼子を見守ることこそが、寛治との《約束》だったのである。


 わずかに視線を伏せ、智は小さくつぶやいた。
「女優をやめなきゃいけないようなら、俺は一生このままでいい」
「・・・!」
礼子の驚きを感じ、智の胸がチクリと痛む。だが、それは間違いなく本音だった。
「俺、満足してるよ?こうして家だってあるし、食事の面倒も家事の面倒もちゃんと見てもらえるし、学校だって行けてるし・・・何も不便なことなんてないから。それに、こうして母ちゃんとも会えるし・・・俺、別にそれ以上は望まないよ」
ホントに、と付け加え、智はチラリと礼子の様子を窺った。礼子は胸元を苦しそうに押えながら、潤んだ瞳で、ただじっと智の顔を見つめていた。その瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいて、心の奥深いところまで抉ってくるような、そんな視線だった。

 その瞬間。
 逃げ出したいと思った。
 『そんな目で、そんな顔で、見ないでくれ!』
 そう叫んで逃げ出したい衝動に駆られている自分がいた。

 でも、そこから逃げるわけにはいかないのだ。
 これは紛れもなく《家族》の問題であるのだから。

 『きっと大丈夫』

 公美子の言葉をそっと心で反芻し、智はゆっくりと口を開く。
「俺は、母ちゃんに女優をやめて欲しくない。それが・・・俺の、一番の望みだから。それに一緒に暮らさなくても、母ちゃんは俺の《母ちゃん》なんだ。確かに戸籍とか法律上では違うかもしれない。でも、今も、これから先も、ずっとそれが変わることはないでしょ?母ちゃんが誰と結婚しても、母ちゃんが母ちゃんであるには変わりないんだから」
―――眉尻を下げた優しい笑み。その表情は、乳飲み子だった智を抱きながら、ゆっくりと背中を押してくれた寛治の姿と、まったく同じだった。
「・・・っ」
礼子の目に涙が溢れる。慌てて礼子は下唇を噛みしめ、漏れそうになる嗚咽を堪えた。
「母ちゃんが女優をやめないなら、結婚だってなんだって賛成するよ。反対する理由なんてないもん。その、相手の人がこのコト誰にも言わないって言うなら、そのままひとりの胸にしまっておいて欲しいんだ。俺のコトを隠してるのは母ちゃんも大変だろうから、やっぱそこはちゃんと相手に言っておいた方がイイと思うし。それを知った上で―――俺のことを知った上で、それでも母ちゃんと結婚したいって言うなら、迷うことなく結婚すりゃいいよ」
「智・・・」
礼子の顔がうっすらと歓喜の色に包まれる。智は照れくさそうに鼻を指先で掻きながら、ポツリと付け加えた。
「俺は母ちゃんが幸せになってくれるなら、それでいいからさ」
「智・・・」
複雑な笑顔を見せた礼子が、ハッとなって玉緒の方を振り返る。
「社長!わたし―――」
そう言いかけた礼子は、呆然と立ち尽くしていた玉緒の顔を覗き込み―――軽く首を傾げた。
「社長・・・?」
その声に、智も思わず顔を覗き込む。呆然と目を見開いたままの玉緒―――その顔は、いや、顔だけではない。身体自体がまるで氷のようにカチンと凍り付いていた。
「社長?!」
礼子がひらひらと顔の前で手を振ったが、玉緒はまったく反応を示さなかった。
「えっ、ちょ・・・ちょっと、やだ!社長!!もしかして気ぃ失ってる?!」
「ええっ?!」
慌てふためく親子の前で、楠木玉緒は器用に立ったまま気を失っていた。

 


 

 「とりあえず―――」
 ソファーに寝かせた玉緒に、固く絞った冷たいタオルを乗せた信吾が、こめかみに青筋を立てながらゆっくりと振り向いた。
「どうしてこうなったのか、ちゃんと説明していただきましょうか」


 信吾が駆け付けたのは、玉緒が気を失ってまもなくのことだった。慌ててやってきた彼が最初に見たのは、立ったまま気を失っている自分の母親だった。慌てふためくだけで何もできなかった礼子と智を前に、信吾はテキパキと処置をして、こうしてようやく横に寝かしつけられたのだった。
 ソファーの手前に正座した礼子が、恐縮しながら事の経緯を説明し、智もまたその隣で、神妙な面持ちのまま話を聞いていた。


 信吾はあらかた話を聞き終わると、ふーっと大きくため息を吐いて天を仰いだ。
「あー・・・もう、どうしてあなたはそう、短絡的に話を進めてしまうんでしょうねぇ・・・!」
「・・・ゴメンナサイ」
礼子は恥ずかしそうに、しょぼんとうな垂れる。それをチラリと見た信吾は、再び大きく嘆息すると、おもむろに口を開いた。
「ま、言ってしまったことは仕方ないですけどね。今更取り消しのきかないことですから。でも、せめて先に母に―――いや、社長にひとことくらい相談して欲しかったですよ。相談もなしに進める話ではないでしょ?!まあ、お互いもうオトナですから?結婚するのに誰かの意見を聞くまでもないんでしょうけど。でもあなたの場合は特別なんですよ?!それをもっとちゃんと自覚していただかないと・・・」
「はあ・・・ごもっともです」
さらに恐縮する礼子に、信吾は深いため息を漏らす。
「―――まあ、これ以上言ったところで、もうどうしようもありませんからね・・・。とりあえずそんなに恐縮していただかなくて結構ですよ、礼子さん」
いつも通りの穏やかな顔に戻った信吾がそう言ったが、礼子はまだ固くなったままだった。
「礼子さんの話だと、もうお相手に智くんのことを話されてだいぶ経つんですよね?それでまだマスコミに嗅ぎ回られていないところを見ると、やはりどこにも漏れていないってことになりますからね。今のところは安心でしょう」
こっくりと礼子が頷き、智はその様子にホッと胸を撫で下ろした。
「しかし・・・やはりこの問題は、そう簡単に解決することでもないですからね」
そう言うと、信吾はチラリと智の方に視線を流した。
「あっ、そのっ、俺は、別に結婚には反対しませんから。ハイ」
智は慌ててピシッと背を正しそう応える。信吾はわずかに不信そうに眉根を寄せたが、すぐに元の顔に戻ると礼子の方に向き直った。
「この際そちらの問題は、ちゃんとそちらで片付けていただくとして・・・。礼子さん!」
「は、はい」
「これからはきちんとしたビジネスの話をしましょうか」
そう言うなり、信吾は持ってきたカバンからコンパクトなボディの電子手帳を取り出した。その瞬間、ハッと気付いた智が立ち上がる。
「あの!・・・俺、ちょっと出かけてくる」
「え、ちょっと智・・・?」
きょとんと見上げる礼子と、それに動じることなく視線を落としたままの信吾。ふたりを前に、智は慌ててリビングを出ていく。その後ろ姿を、信吾は穏やかな瞳で見送り、こうつぶやいた。
「本当に、智くんはイイ子ですね」
「えっ?」
驚いて振り返る礼子に、信吾は優しい顔で微笑み返した。

 


 

 町が沈みかけた夕陽に染まる頃。智は軽い上着を羽織っただけの姿で、ボンヤリと行く当てもなく歩いていた。

 あのマンションに引き取られてから今に至るまで、母親の仕事に干渉したことはただの一度もない。だから母親と言えども、《岬 礼子》のスケジュールを知ることはなかった。もし緊急に何かあれば、マネージャーである信吾を通せば済むことだったし、そういう風にするようにと、楠木親子本人から言われたことなのである。それを不思議に思うこともなかったし、不自由と感じることもなかった。
 思えば聞き分けのいい子供だったかもしれない。複雑な家庭環境の中で、いつしか自分を内に秘めることが、なんともなくなってきたのだろう。

 いや、そうではない。
 ただ、嫌われたくなかったのだ。
 父親からも、そして母親からも。

 だからだろうか。いつしか周りの空気を読んで行動するのが当たり前になっていた。それでいながら、誰にも干渉せず、誰にも干渉されない―――そんな生活を続けてきた。誰かに干渉すれば、それだけその人間の私生活に立ち入ることになる。それが必ずしもいい方向へ向かうとは限らないのだ。

 誰も傷付けないように生きるのは、自分を傷付けたくなかったから―――。


 信吾が『ビジネスの話』と言った瞬間、そこから先は立ち入ってはいけない領域であるということをすぐに理解した。これから先の女優《岬 礼子》のあり方は、事務所の人間が考えていくことであって、家族である智が口出しのできることではないのだ。ひとりの人間として、母親としての礼子の《結婚話》については、これから先も《家族》として話し合っていかなければいけないのは確かなのだが。



 ふと気付くと、智の足はあの稲荷へと向かっていた。薄暗くなり始めた稲荷には、誰の姿も見えない。智はフラリと敷地内に入っていった。
 住宅街の真ん中に位置する茂みに覆われたそこは、なんとなく薄ら寒いような、冷たい空気を感じる所だった。中には無気味に思って近付かない人間もいるくらいだが、智にはそこは心が落ち着く場所だったのである。なんとなくそこの寂しさが、撮影所の独特な雰囲気に似ていたのかもしれない。懐かしさがこみ上げる場所だった。

 祠の前で手を合わせ、そのすぐ裏手にある折れた石柱のような所に腰を下ろした。そこに座ると、祠の正面側からは完全に姿が隠れる。それでいながら、自分の所からは外の様子が四方とも窺えるという、まるで要塞のような空間だった。智は、以前から何度かこの場所に《お世話》になったこともあった。

 しばしぼーっとその場に佇んでいた時、不意に茂みの向こうから人の声が聞こえてきた。葉の隙間から、何気なく外の様子を窺う。

「本当にイヤになるわよねぇ」
「ホント!消しても消しても書いてくんだもん!たまったもんじゃないわよ」
数名の主婦が、前と後ろのかごに荷物をいっぱい積んだ自転車を押しながら、愚痴をこぼしつつ歩いてきた。そしてちょうどその道の曲がり角である茂みの前で立ち止まった。
「知ってる?このあいだも、うちの裏の林さんトコがやられたんですって!」
「あらやだ、だってそこ、この前塗り直したばかりじゃない!?」
「そうなのよー、だから林さんの奥さん、お金がかかってばかりいるって嘆いていたわよ」
「でも林さんくらいの家なら、それくらいなんともないでしょうよ」
「ねえー」
「ホントよねぇー。だってあそこんちの壁、すっごい広いのよ〜?いいわよねぇ、余裕のある所はさぁ!」
主婦たちは同情してるのか羨ましがっているのかわからないような口調で、早口にまくし立てている。どうやら頻繁に起きている落書き事件のことについて話しているらしかった。智は小さくため息をつき、あの夜見かけた落書き犯のことを思い浮かべた。その時。
「でもね、聞いたところの話だと、犯人はニッペイ大の子なんじゃないかって!」
「?!」
突然出た自分の大学の名前に、智は目を見張った。
「え〜?ホントにぃ?」
「いや、そりゃわかんないけどさぁ。やっぱああいうことするのって、若い子じゃない?で、あそこ芸術系じゃない・・・ほら、なんていったっけ・・・」
「えっと、文化芸能・・だか、文化芸術だか?」
「そうそう!そこよ。あの大学、理数系は強いトコだけど、ここにある校舎の子達は、悪いけどちょっと・・・って感じじゃない?だから落書きしてるのもあそこの学生なんじゃないかって、もっぱらの噂なのよ」
「んまぁー!!」
「やだわぁ、なんか怖いわねー」
主婦たちは口々に驚き、そしてニッペイ大にまつわるくだらない話を始めた。しかしもはや智の耳には、それ以上の言葉は入ってこなかった。
 純の言っていたことは本当だった。落書き被害に遭っている住民は、犯人をニッペイ大の学生だと噂しているということは、本当だったのだ。
 いらぬ濡れ衣を着せられ、そのことを目の当たりにした智の心には、フツフツと怒りが湧いてくる。
「やっぱりあのガキ・・・許せねぇ・・・!」
太腿の上でギュッと拳を握り締め、智は勢いよく立ち上がった。だが、すぐに眉根を寄せた情けない顔へと戻る。
「ん・・・?でもどうしたらいいんだ??」
犯人グループの顔をしっかりと見たわけではない。それに、相手がどこの誰だか見当さえもつかない。それでは、怒りの矛先をどこへ向けたらいいのかわからないのである。
「!」
ピンと智の脳裏に閃くものがあった。
「そっか、怒ってるのは俺だけじゃないか・・・!」

 


 

 「ほほう」
低い声が本の向こうから響く。
「なるほどな・・・そんな噂立てられてるんか」
聞き取り難いほど小さい声ながらも、そこには静かな怒りが込められていた。


 駅前の商店街にある小さな古本屋。そこは侯隆が足しげく通うお気に入りの店だった。それを知ってか、侯隆の姿を見たいと集まる女子高生や女子中学生が、こっそりあとをつけてくる場所でもあった。
 その日も、店の外には3名ほどの女子高生が固まって、中の様子を必死に窺っていた。智はそれを遠くから確認し、彼女たちに気付かれないように、堆く積まれた在庫の商品箱の隙間から、こっそり店内に足を踏み入れる。案の定、奥の書棚の前では、熱心に書物に目を走らせていた侯隆の姿があった。
 智は、女子高生たちからは見えない本棚の死角に入り、適当に目の前に並んだ本を一冊手にすると、侯隆の隣に並んだ。侯隆は特に驚くでもなく、そのまますました顔で難しい書物に目を通している。その書物を持つ手が、ぐぐっと顔に近付いた時が合図だった。智は侯隆にしか聞こえないくらいの声で、素早く説明を述べた。
 ―――その間も、外にいる女子高生たちには、『インテリ風のイケメンが難しい本を熱心に読んでいる』姿としか見えないのである。


 一通り話を聞き終わった侯隆の顔には、邪悪ともいえる引き攣った笑みが浮かんでいた。明らかに不機嫌な証拠である。
「なにがニッペイの仕業じゃ、ボケ!勝手なこと抜かすなや、ムッチャ腹立つわ・・・!」
ボショボショと書物越しに悪態をつく侯隆からは、とても『インテリ風のイケメン』などというイメージは湧かない。
「それで、どうする?」
智が囁くような声で尋ねる。
「俺、ちゃんと顔見たわけでもないし、どこのガキかもわかんないし・・・。落書き犯ってのは、現場を押さえなきゃダメだっていうしさ。捕まえるって言っても、そう簡単にはいかないと思うんだ」
「ああ、そうやね。町ぐるみで見廻りしてても、なかなか捕まらんヤツらやからな。おまえみたいに2度も遭遇する方が珍しいんとちゃうかな」
そう応える侯隆を前に、智は小さくため息を漏らした。
「だよねぇ・・・。一応お巡りさんも出てるって言うのに、相変わらず掴まんないんだもん。俺たちでなんとかできるってもんでもないよなぁ・・・」
その言葉に、侯隆の手がピクリと反応する。
「アホなこと抜かすな」
「へ?」
「俺のことなめとんのか?!―――3日・・・いや、2日くれ!」
そう言って、侯隆はパタンと本を閉じた。
「2日ありゃ、今までの行動パターンを分析して、次にヤツらがどこらへんに出没するか、どこを根城にしてんのか、それくらいならわかるわ」
「な・・・っ、マジ?」
驚く智に、侯隆は目の前の本棚を見据えたまま、自信に溢れた顔で頷いた。
「ああ。俺の《ここ》をなめたらアカン」」
そう言って、「トン」と軽く自分のこめかみを叩く。
「多分それくらいやったら、予測も可能や思うわ。相手がガキなら余計わかりやすいしな。せやから、オトナにはわからんやろうけど・・・。まあ見ててや。そういうヤツらには、ちゃーんと罰を与えなアカンわ」
「?」
不思議そうに顔を覗き込む智に、侯隆は不敵な笑みを返した。
「ただ捕まえて警察に突き出したところで、ああいうヤツは反省なんてせぇへんわ。せやから、俺らが《罰》を与えんねん。俺らの大事な《仕事》をメチャメチャにしてくれたんやからな・・・!」
侯隆の瞳がギラリと輝いた。

「見てろや、落書き犯・・・!《お狐様の天罰》が下るで!」

 

 

 

****つづく****