>>>デザイア =暗鬼=

 「すみませ〜ん」

 不意に二ノ宮家の玄関先に、聞き覚えのある声が響く。母屋の客間にいた翔たちにもわずかにその声は届いた。
「・・・今の潤じゃねぇ?」
翔が智の方を振り返って尋ねる。そう言われて、智は眉根を寄せじっと耳を澄ませた。
「ごめんくださ〜い」
再び同じ声が響き、今度は智の耳にも届いたようだった。
「潤だよ!」
言うが早いか、ふたりは慌てて客間から飛び出していった。

 「すいませ〜ん!!」
玄関先にいた潤が、必死に中を覗き込みながら声を上げている。後ろに付いていためぐみも心配そうに中を覗き込んでいた。しかし、いくら潤が叫ぼうとも、そこに二ノ宮家の人間は誰一人現れない。小さくため息をついた潤が、もう一声かけようと口を開いた時だった。
「潤!どうしたんだよ?」
ドタバタと騒々しく奥から出てきたのは翔と智だ。その瞬間、曇りかけていた潤の顔がパアッと明るくなる。
「ふたりともここにいたんだっけ」
翔たちが二ノ宮家に残ると決まった時はすでに自分の家に帰っていた潤は、少しだけ驚いたような、それでいてどこか嬉しそうな顔でそう言った。
「うん、まあ、もうしばらくここに置いてもらおうと思ってね」
智がそう言って翔に同意を求める。
「そうそう。まだカズんちにちゃんと話したわけじゃないけど、俺たちはもうしばらくここにいようってことに決めてさ」
そう翔が応えると、潤はさらに嬉しそうに目を細めた。
「そっかぁ!じゃあしばらくはこの村にいるってことだね」
「まあね・・・ところで潤、おまえ家に帰ったんじゃないの?」
翔が不思議そうな顔で尋ねる。すると潤は、自分が何をしにここへ来たのかハッと思い出したようで、慌てて口を開いた。
「あ、あのねっ、これ・・・少しは役に立つんじゃないかなぁって・・・」
そう言って後ろのめぐみを促す。めぐみは手にした茶筒を翔たちの目の前に差し出した。
「これ、もしかして・・・」
翔がピンと閃いたように言うと、潤は大きく頷いて続ける。
「そう、ハーブティー!気分を静めるにはちょうどいいかと思って―――」

 潤が持ってきたのは、めぐみの家に代々伝わると言う、秘伝の香草茶葉だった。めぐみの家は古くからこの地にあり、山に生える野草を使っての茶葉作りを生業(なりわい)としてきた家系らしい。
 じつは翔たちは、昨夜寝る前にめぐみが土産代わりに持参していたお茶を飲んだばかりだった。なんでもそれはリラックス効果の高いお茶だとかで、久しぶりに集った仲間との夜に興奮した脳には、安らかな睡眠をもたらしてくれるものだった。

「ゆうべ飲んだのも、すっごくうまかったよね」
翔がそう言ってめぐみに笑いかける。めぐみは少しだけはにかんだ様子で口を開いた。
「これは昨夜のものとは少し違う配合ですけど、興奮した神経を収めてくれる働きがあるそうです。皆さん、きっとあんなことがあって落ち着かないのではないかと思いまして・・・」
どうやら喜太郎の自殺騒ぎがあったあと、どうにも落ち着かなくなった二ノ宮家一同を案じて、わざわざ持ってきたようだった。
「そっか、わざわざありがとう」
智はまるで自分の家であるかのような慣れた態度でそう言って、差し出された茶筒を受け取った。すると隣でそわそわしていた潤が、奥を覗き込むようにしながら尋ねる。
「ねえ・・・カズたち、大丈夫だった?」
普段の様子からは考えられないほど取り乱したかすみや、死体を目の当たりにして青ざめていた和也を見ているだけに、潤も心配しているようだ。
「うん、今とりあえず離れの方で休んでる。かすみ姉ちゃんもだいぶ取り乱してたみたいだし・・・」
智がそう言って顔を曇らせる。潤は「やっぱり」と言った顔で短く嘆息した。
「あっ、そうだ。ねえ、ふたりとも上がったら?」
「えっ?」
翔の提案に潤が驚いて目を丸めた。
「だってさ、こんだけ玄関先でしゃべってても、誰一人出てこれないくらい、みんな切羽詰まっちゃてるわけじゃん?カズんち。それ気遣って、こうしてお茶持ってきてもらったわけだしさぁ。どうせなら『本家』のめぐみさんに煎れて欲しいし。ね、智?」
「え、ああ、そう。そうそう、そうして!」
「でも・・・」
うろたえる潤とめぐみを、ふたつ返事で頷いた智が強引に手招きする。
「いいっていいって。遠慮するような間じゃないだろ、俺たち」
智はそう調子よく言って、ニッコリと満面の笑みを浮かべた。

 


 

 広間に香草茶の良い香りが漂い始める。コポコポとポットから慣れた手つきでお湯を注ぎ入れているのは、茶葉を持参しためぐみである。
「ごめんなさいね、いらしたの気付かなくて・・・」
そのめぐみに向かって、詫びを入れているのは理美だった。かなりの疲労の色が顔に表われている。
「いえ、こちらこそ、突然押し掛けてしまって申し訳ございません」
ポットから手を離しためぐみが、深々と頭を下げる。
「いや、ホント気遣いしてもらって・・・悪かったよ」
理美の横に腰を下ろしていた和也が、そう言いながら軽く頭を下げた。しかし、その隣にかすみの姿はない。広間にいるのは、理美、和也、佑実、智、翔、そして潤とめぐみだけである。今日子は、理美が声をかけたにもかかわらず、母屋の自室から出てくることはなく、安則とかすみは、具合が良くないからと言って離れからやって来ることはなかった。
「へ〜、こんな田舎でハーブティー飲めるなんて思わなかったわ」
めぐみから香草茶を受け取った佑実が、声を弾ませながら言う。同じく喜太郎のことに巻き込まれてイライラしていた彼女も、理美の計らいでここに呼ばれたのだった。
「ん〜!イイ香り!」
一口啜り、佑実は満足げに宙を仰いだ。それを和也は複雑な表情で睨み付ける。
「あ、あの・・・」
めぐみがおずおずと口を開いた。
「かすみさんたちの分も煎れましたので、もしよろしければ持っていって頂けませんか?飲むとだいぶ落ち着くことができると思うんですけど・・・」
そう言いながら、そっと3杯のお茶を理美の前に差し出す。
「あらまあ、ありがとう。そうね、じゃあ持ってくわ。確かにこのお茶飲んだら、急にスッキリした感じだし。ホントすごい効き目ね!」
もれなく相伴にあずかった理美が、そのお茶の効き目に驚きながら、言われた通りにいそいそと奥へ運んでいった。それを和也は心配そうな顔付きで見送る。
「カズ・・・かすみ姉ちゃんのこと、心配?」
その姿を見た潤が、そっと尋ねる。翔と智も、和也の反応を伺う為に、お茶を飲む手を止めた。
「そりゃ、心配さ。アイツ、ああ見えて臆病なトコもあるし、気の弱いトコもある・・・。だいぶ参ってるみたいだよ」
やけに大人びた口調で和也が応え、潤は「ふ〜ん」とだけ頷いた。すると、突然佑実が和也にしなだれかかり、けだるそうに口を開いた。
「どうしてボンはそんなにお姉ちゃまに優しいのかしらぁ〜?」
いやらしく尋ねる佑実を、和也は心底迷惑そうにグイッと押しのける。
「当たり前だろっ、たったひとりの姉貴なんだから!」
「ふぅ〜ん・・・」
佑実は見下ろすような顔で和也をジロジロと見つめる。
「『たったひとりの姉貴』ねえ・・・」
そのもの言いたげな口振りに、見ている翔は内心ハラハラしていた。おそらく和也にとって、佑実は1番キライなタイプの女だろう。自分のことに首を突っ込んでくるタイプの人間を、あまり良しとはしない性格であるということも良く知っていた。このままでは和也が『キレ』かねない。慌てた翔が口を開きかけた時だった。
「みんな、かすみ姉ちゃんのことは心配してんだよ!」
突然声を荒げたのは、それまで黙ってお茶を啜っていた智だった。一同はその意外性に目を見張って振り向く。
「あっ!や、そのっ・・・」
急に自分に注目が集まったことにハッとなった智が、慌てて視線を落とす。
「かすみ姉ちゃんは、俺たちにとって、その・・・みんなの姉ちゃんみたいなもんだし・・・だから、その・・・」
しどろもどろになった智が、横面を人差し指で掻きながら続ける。
「ね、姉ちゃんのこと、心配するのは、あた、あたっ・・・当たり前だろっ!?姉ちゃんの心配して、何が悪いんだよ!」
最後の方は開き直ったような口調になりながら、ふんぞり返るようにして佑実を睨みつけた。唇が興奮の為かわずかに震えている。
「な、何よ・・・そんな言い方しなくてもいいじゃないっ」
その異様な剣幕に、今度は佑実が慌て出す。
「ただあたしは・・・っ!」
そう言い出して、自分に突き刺さる冷たい視線に気付き、キュッと下唇を噛み締めた。智も、翔も、潤も、めぐみも、そして和也も、ただじっと佑実を見つめている。
「あーあー!わかりましたっ!あたしが悪うございました!・・・ったく!なんなの!?」
佑実は持っていた茶碗を乱暴に置くと、ガバッと立ち上がった。
「幼馴染みだかなんだか知らないけどね、勝手に『仲良しごっこ』でもしてればイイじゃない!―――そんなにあの女がいいんならね!!」
佑実はそう言うと、フン!とそっぽを向きながら荒々しく広間を出ていった。
「・・・・・・」
翔はその様子に呆気に取られながら、ハッとなって智の方を振り返る。智はまだ興奮が冷めやらない状態で、湯呑み茶碗を握り締めていた。
「智―――」
不意に和也が智を呼ぶ。だが、智は残りのお茶を一気に飲み干すと、その声が聞こえなかったかのような顔で大きくため息をついた。潤は突然変わってしまった部屋の雰囲気に、イマイチついていけない様子でただオロオロとしている。翔もまた、智と和也との間に生まれた不思議な空気に、ただ眉根を寄せて黙っているしかなかった。
 広間に沈黙が訪れる。ただ、そこには香草の残り香だけが、変わらず優雅に漂っていた。

 


 

 夜8時を廻った頃だった。
「じゃあ、そろそろ・・・」
潤がそう言ってめぐみに目配せをする。

 香草茶の効き目か、急に元気を取り戻した理美は、潤とめぐみの為に慌てて夕飯をこしらえた。そしてお茶のお礼にと食べていくことを勧め、ふたりはそれに従い、ついでに翔と智も同席することとなり、結局はこんな時間まで二ノ宮家に滞在することになったのだった。

「あら、もうイイの?」
食後のお茶を運んできた理美が、驚いた風に尋ねる。
「ごちそうさまでした。やっぱりおばさんのごはん、おいしかったです」
潤がニッコリ微笑んでそう応えた。
「なあ潤、もう外真っ暗だから、今日は泊まってったら?」
和也がそう言って窓の外を指差した。確かに外はもうすっかり夜の闇に覆われている。外灯が少ない田舎だけに、その暗さは人一倍だ。その中を、車椅子の潤と細腕のめぐみが歩いて帰るには、少々危険なことと思われた。何しろこの村の土地の8割は田や畑である。うっかりすれば、すぐに畦道を外れて田んぼの中に転げ落ちる危険性もあるのだ。
「え・・・でも・・・」
「そうよー、泊まっていきなさいよ。遠慮なんかする必要ないじゃない」
やけに上機嫌の理美がそう付け加える。
「お父さんはすっかり離れの方で寝込んじゃってるから、母屋にだったら泊まっても何の問題もないでしょ」
理美はそう言ってフフフ、と笑った。だが、急にハッとなって口元を塞ぐ。
「あ・・・でも、やっぱり怖い、かしら・・・」
その場にいた者の脳裏に、不意に喜太郎の無残な死に様が浮かんだ。ブルッと智が身震いする。
「やっぱり、気持ち悪いわよね・・・。離れにいても、なんだか落ち着かない気分がするくらいだもの・・・」
そう言ってうな垂れた理美に、和也がため息混じりにつぶやいた。
「そんなこと言ったら、最初から泊まる予定の智や翔くんはどうなるんだよ」
「あ・・・・・・」
理美は慌てて自分の口を覆って、翔と智の顔を見つめた。翔は戸惑いながら苦笑いを浮かべ、智は口の端を引き攣らせている。
「そうよね、ゴメンナサイ。やだわ、どうしたらいいのかしら・・・」
オロオロと狼狽する理美に、慌てて翔が口を開いた。
「あの、そのことなんですけど、俺たち、もうしばらくこちらに置いて頂けないでしょうか?」
「え?」
驚いて聞き返す理美に、翔がさらに続ける。
「確かにいろんなことがありましたけど、俺たち他に行くトコって言ったら相葉んトコくらいで・・・。でも、ここに置いていただけるのなら、しばらくご厄介になろうって、さっき智と決めたところなんです」
翔の言葉に智が頷く。
「そりゃあ、ちょっとは怖いですけど、なんか他のトコに泊まる方がもっと怖い気がして。こうしてみんなといた方が落ち着く気がするんです」

 そう。例え何があろうとも、この家は懐かしい思い出の場所。仲の良い幼馴染みたちがひと夏を過ごしあった家―――。それはどこよりも安心できる場所なのだ。
 時間が経つにつれ、翔たちは特にその思いを強く感じていた。

「じゃあそれなら、やっぱり潤も泊まってかないとな」
和也がそう言って微笑む。理美もそれに同意して頷いた。その時である。

 「ごめんください」
玄関先に礼儀正しい声が響いた。
「雅紀だ!」
真っ先に潤がその名を叫ぶ。
「あらあら、やっぱりみんな集まっちゃうのかしらね」
理美がそう言って、穏やかな笑みを浮かべたまま玄関先へと向かう。和也、翔、智もあとに続いた。

 案の定、玄関には雅紀と若菜の姿があった。手には大量の果物やら野菜やらの入った籠を抱えている。
「これ、母がお見舞いに持っていくようにと・・・」
雅紀は礼儀正しくそう言いながら、重そうな籠をゆっくりと玄関に下ろした。喜太郎の一件で、二宮家の中が騒然としたことへの陣中見舞いのようなものらしい。雅紀は「母が持っていくように」と言ったが、おそらくこういうことを手配したのは、あの抜け目のない伯母の真奈美だろう。仮にも雅紀は相葉家から二ノ宮家へ婿入りする身、将来の家族に対して誠意を見せるのは当然のことと考えたのだ。
「あらまあ、お気遣い、わざわざありがとうございます。さ、どうぞ上がって」
理美は礼を言うと、にこやかに雅紀たちに上がるよう促した。
「えっ、でも・・・」
しかし雅紀と若菜は顔を見合わせ躊躇った。いくら親戚同士だからといって、夜遅くに家に上がり込むのは失礼に値するのではないだろうか―――。そんな戸惑いの色を見せる雅紀たちに、理美のすぐ後ろに立っていた和也が、小さく嘆息して口を開く。
「雅紀も若菜も、いいから上がれよ。・・・みんな待ってるからさ」
そう言った顔には、いつも通りの穏やかで優しい笑みが浮かんでいた。

 


 

 広間には再び良い香りが充満していた。雅紀と若菜が仲間に加わったことで、めぐみが新たにお茶を煎れ直したのだ。
「おいしい・・・!」
若菜がホッとため息混じりにつぶやいた。雅紀も安堵の表情でお茶を啜っている。
「やー、なんだかんだ言って、こうやってみんなで集まるだけで落ち着くよ〜」
智が笑いながらそう言った。確かに、こうして幼馴染み同士が顔を見合わせているだけで、なぜか心は落ち着きを取り戻していた。翔にもようやく安堵感が押し寄せる。
「じゃあ、翔くんと智はしばらくここにいることにしたんだ?」
雅紀の問いに、翔は頷きながら口を開いた。
「うん。どうせ道が直るのも先の話しみたいだしさ、それならここに置いてもらった方が得策だと思って」
そう言って肩をすくめる。
「案外ちゃっかりしてるよねー」
冗談めいた口調で潤が笑う。すると横に座っていた智が続けた。
「そうそう!でも昔だって、こうしてカズんトコ泊まったり、雅紀んトコ泊まったりしてたじゃん、俺ら。なんかそういう方が落ち着くんだよね〜。みんなと一緒にいる安心感っていうの?」

 確かに、翔が緑翠村を訪れたあの夏、一同は二ノ宮家に泊まったり相葉家に泊まったりすることを繰り返していた。気付くといつも7人一緒で、広い部屋にただ敷き布団だけを敷いて、みんなで雑魚寝(ざこね)をしたこともあった。
 あの頃は、みんながみんな「友達」であり「兄弟」でもあったのだ。年の離れた兄しかいない翔や、ひとりっこの智、実の親兄弟のいない潤や若菜にとっては、それは“特別な空間”だった。夏が終わる頃には、7人でいるのが当たり前のようにすら思えていたほどだった。

「昔っから、こうしてみんなで集まっちゃあ、ゴロ寝とかしてたよね?確かカズのばあちゃんが蚊帳(かや)吊ってくれたりして―――」
ふと翔が昔を思い出した時だった。

 

 ちりり・・・

 耳の奥で小さな音が響く。

(・・・?)

 ちりりん・・・・・

(鈴・・・?)

 翔は眉間にしわを寄せた。頭の隅で記憶の断片が浮かぶ。

 蚊帳の中で眠る子供たち。
 沼遊びに興じる少年たちを、淵から笑ってみている少女。
 田んぼの中で泥だらけになる少年の眩しい笑顔。
 山の中を自在に駆け巡る身体の小さな少年。
 どこまでも続く林・・・。

 ちりり・・ん・・・

(また・・・?!)

 暗闇の中で背後に感じる冷たい岩の感触。
 見開かれた目、恐怖に引き攣る顔・・・・・・。

 

 「翔くん?」
 不意に呼ばれた名前で、翔はハッと我に返った。きょとんとした顔で潤が覗き込んでいる。
「どうしたの?」
「いや、・・・なんでもない」
翔は慌ててそう応えて、手にしたお茶を一気に飲み干した。

(なんだ、今の―――?!)
翔は己の脳裏をよぎった記憶の断片に、正直戸惑っていた。確かにそれは翔が体験してきた子供時代の記憶―――。懐かしいあの夏の「顔」。しかし。
(なんだったんだろう、あの音・・・)
耳の奥で鳴った小さな鈴の音。それに翔は覚えがなかった。

 

 「・・・そういえば、かすみちゃん、具合どう?」
湯呑みを置いた若菜が、恐る恐る和也に尋ねる。
「ん・・・まだ気分が悪いって・・・部屋で寝てるよ」
言葉すくなにそう応えると、和也はすくっと立ち上がった。そしてゆっくりと雅紀の方を振り返り、
「もう遅いから、気を付けて帰れよ」
とひとこと言い残し、そのまま広間をあとにしていった。
「え・・・雅紀たちは泊まらないの?」
驚いた口調で智が問う。翔や潤も同じように驚いていた。てっきりこのまま全員が一緒にいれると思っていたのに―――。
「ん、うちも心配してるみたいだから、今日はこのまま帰るよ。ほら、どうせ家は近いしさ。用があるならまた明日来るから」
雅紀はそう言って、湯呑み茶碗をめぐみに返すと、ゆっくりと立ち上がった。若菜も慌ててそれに従う。その様子を雅紀はチラリと横目で見て、すぐに翔たちの方へ向き直った。
「それじゃ、翔くん、智、潤、めぐみさん。・・・おやすみ」
「おやすみなさい。お茶、ごちそうさまでした」
若菜がペコリと頭を下げる。
「おう!」
「おやすみ、気を付けてね」
智と潤が続けて挨拶する。
「雅紀、外暗いから気を付けろよ」
翔がそう言うと、雅紀は軽く微笑んで、
「大丈夫だよ。地元地元!」
と応えた。智は「そりゃそうだ」と言って笑い、翔は思わず頭を掻く。その時、不意に立っていた若菜がブルリと身を震わせた。
「・・・若菜?」
雅紀がその顔を覗き込む。だが、若菜は慌てて口元を覆い、なんでもない、といわんばかりに首を振った。途端、雅紀の顔から笑顔が消える。そして神妙な面持ちのまま、念を押すようにゆっくりと口を開いた。

「翔くんたちも、気を付けて―――」

 その言葉に、翔は一瞬、胸を締め付けられたような感覚に襲われた。ドクンと心臓が大きな音を立てる。
「なに?大丈夫だよ〜?」
智がいつも通りの呑気な口調で切り返し、潤は笑顔のまま軽く首をすくめる。そんなふたりの態度をよそに、若菜は心配そうな顔でじっと智を見つめていた。
「若菜・・・行くぞ」
小さく雅紀が声をかけ、ためらいがちな若菜を無理矢理引っ張っていく。
「じゃあ、また明日ね〜」
その後ろ姿に、智はひらひらと手を振り、潤もニコニコ笑ったまま見送った。ただ、翔だけはじっと黙ってその姿を見つめていた。言いようのない不安感が、翔の胸に広がって行く。だが、その不安感の正体には、まだ気付く由もなかった。

 


 

 ざわり。

 木々の間を風がすり抜けて行く。すっかり夜の更けた空には、ゆっくりと黒い雲が流れている。

 カタッ。

 小さな音を立てて、その部屋の襖がゆっくりと開かれた。影はするりと室内に忍び込む。布団に眠る塊に足音なく近付き、枕元から顔を覗き込んだ。影はその手を、おもむろに寝込む人物の首へと持っていった。その手には、勾玉を連ねたネックレスが握られている。
 勾玉のネックレスが、不意に眠る人物の首へと巻き付けられた。そしてそれを、影はものすごい勢いで締め付ける。

「・・・っ!」
寝ていた人物の目がカッと見開かれた。
「あ・・・ぐぁ・・・かはっ・・・っ」
首を締めつけられながらも、必死に抵抗をする。だが、影はその手を頑として離そうとはしなかった。ギリギリと勾玉同士の擦れる音が響く。
「・・・!!!」
声も出なくなった人物は、苦しさで大きく身体を仰け反らせた。

 ブツッ!!

 紐の切れるような音がして、勾玉はバラバラと落下する。それと同時に、首を締められていた人物はずるりと崩れ落ちた。

「・・・」
影は大きく肩で息をすると、ゆっくりと立ち上がり、足早にそこをあとにしていった。

 

 空を覆う黒い雲からは、ポツポツと雨が落ち始めた。庭から湿った土の匂いが立ち上る。影の立ち去った後には、再び静寂だけが支配する夜の闇が残っていた。

 

 

>>> to be continued...