| 客は薄手の黒いコートを纏った男だった。手にはグレーのスーツケースを持ち、反対の手でたくさんの書類の入った封筒を抱えている。どうやら仕事帰りのサラリーマンのようだ。俯きがちで顔は良く見えないが、よれよれになったズボンに、どことなく中年男性の哀愁を感じさせた。 「お疲れ様です、どちらまで―――」
昌行は後ろを振り返りながらそう声をかけて、ぎくりと顔を強張らせた。ボサボサの髪から覗く顔が予想以上に若かったことはもとより、その色がこの世のモノとは思えないほどに青白かったのだ。
(病人か?!)
だが、すぐにその考えは否定された。わずかに客から漂う酒の香り―――
(なんだ、酔っ払いかよ・・・)
昌行は安堵と同時に新たな不安に襲われた。万が一タクシーの中で具合が悪くなりでもしたらどうしよう、面倒なことになるな―――
しかし内心をあからさまに顔に出すわけにはいかない。貼りついた笑顔のまま、もう一度同じ質問を繰り返す。
「どちらまで?」
だが、客は俯いたまま答えようとしない。
「あの、お客さ―――」
「××町・・・」
ぶっきらぼうに、そして力のない声で男が答え、昌行は慌てて前を向き車を走らせた。
男はぐったりした様子で座席にもたれ掛かっている。だが、手にした封筒だけは決して離すまいとしているように見えた。よほど大切な書類が入っているのだろう。乱れた髪の隙間から見える顔は、相変わらず青白い。よくよく見ると、歳は昌行と同じくらいのようである。
(大丈夫かな〜)
不安を悟られまいと、平静を装った昌行はミラー越しに客の様子を窺う。大方、どこかの飲み屋で酔いつぶれて帰宅するところなのだろう。昌行はそう考え、わずかにため息を漏らした。
「・・・・・・」
男が何やら唇を動かす。だが、そこから声が漏れてくることはなく、車内には不気味な沈黙が続いていた。
「あのっ、ラジオでもつけますか?」
昌行は極力明るい声でそう尋ねたが、男からの返事もなく、気まずい雰囲気はさらに続くこととなった。
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