竜は一寸にして昇天の気あり | |
※栴檀は双葉より芳しと同じ意味 黒陸最北の村、柳荘。 その村長は田舎者にしては進歩的な考え方の持ち主で、村の子供たちには分け隔てなく、教育を施していた。 といっても、基本を教えた後は子供たちの自由にさせていたため、学校と呼べるほどの状態でもなかったが。 そんな、村長の家の一角にある勉強部屋にはいつも幾人もの子供が出入りしていた。 そのうちのひとり、楊斈は、肩が凝って動かなくなってしまうほど長いこと、机に向かっていた。 机一杯に広げてあるのは、硯と墨、筆、余り質のよくない固い紙、そして「兵経」と呼ばれる書物だ。 楊斈はそれを写本している真っ最中だった。 まだ、齢八つ。 文字など書けないどころか読めもしない子供が多いだろう歳にして、楊斈は既に自在に筆を操り、複雑な書物の内容すら理解しつつ、写本を進めていた。 「神童」と、大人たちは呼ぶ。 田舎の小さな村ながら、彼の将来に期待を掛ける者は少なくない。 楊斈は、それを分かっているのかいないのか、至ってマイペースに、己の望むまま、知識を吸収していた。 だが、同世代の子供たち――あるいは若干年上の子供たち――にしてみれば、楊斈の頭のよさは気味が悪いほどだった。 楊斈が、伝説や伝承の英雄譚や冒険談には耳も貸さず、表に出て遊びもせず、ひたすらに机に向かう小さな子供だったからだ。 普通ならそれで、いじめられたりするだろうに、楊斈にそれがなかったのは、代わりの生贄がいたからだ。 「こっち来るんじゃねぇよ、捨てられっ子!」 意地の悪い少年の声に、楊斈はちらりと視線を上げたが、すぐに写本に戻った。 目に映ったのは、楊斈より十近く年上の少年が、入り口に立ちはだかっている姿だった。 その向こうには、楊斈とそう変わらない子供がいる。 雪のような白い髪。 明るい褐色の肌。 金色の目は、いつものことながら、困惑にすがめられていた。 「捨てられっ子」と呼ばれた子供は、歳にも外見にも似合わない、大人びた口調で言った。 「俺はここに用があるんだ。通してくれないか?」 「親にも捨てられるような奴なんかが何を学ぶってんだよ」 「いかなることも。ここで学べることならば全て学びたいと思っている」 少年は声を立てて笑った。 「お前なんか勉強するだけ無駄だ!どうせ誰かの小作になって生きるしかねぇんだからな」 「そうとは限らない。先のことは分からないはずだ」 「馬鹿じゃねぇの」 そうせせら笑いながら、少年は道を譲った。 「せいぜい無駄なことをするんだな」 「ああ、やっと通してくれるのか。すまないな」 子供は気にした風もなく、少年の横を通り過ぎた。 転ばせてやろうという悪意を持った少年の足を、平然とかわして。 子供――屹ヨウはきょろきょろと室内を見回すと、小さく、 「……笘鏈はいないのか。また山にでも行ってるのか…?」 と呟いたが、すぐに書棚から「典礼経」を取り出してきて、座った。 極自然に、楊斈の隣りに。 一瞬、鬱陶しそうに顔を顰めた楊斈に、屹ヨウは笑って尋ねた。 「柳春を見ていないか?朝から静かなんだが…」 「…柳春なら、昨日から熱を出して寝込んでるはずだよ」 ぶっきらぼうに答えた楊斈にも構わず、屹ヨウはにこやかに言う。 「あいつは体が弱いからな。無理して出てこなくてもいいのに、無茶をするし」 「柳春が無茶をするのが誰のせいか、分かってて言ってんの?」 じっと楊斈が睨んでも、屹ヨウは肩を竦めるばかりだ。 「俺のせいか?」 「他に何があるって言うのさ」 「あいつの意思だろ。俺はあいつに帰れとしか言ってない」 「それで聞くわけないだろ。全く、あんたもそこいらの連中と同じくらいの頭しかないわけ?」 楊斈は軽蔑し切ってそう言ったのだが、屹ヨウには大して堪えていないようだった。 まだ何か話そうとするのを無視して、楊斈は写本に戻った。 しばらくして、口を開いたのは楊斈の方だった。 「あんた、向こうに行ってくれない?」 「なんでだ?お前はそこいらの連中と同じように俺を構うほど暇じゃないだろ?」 「それはそうだけどね、その『そこいらの連中』があんたに何かする気らしいから、僕としては巻き込まれたくないの。だから、僕に被害が及ばないところに行ってくれない?」 「残念だが、もう遅いらしい」 悪びれもせず、屹ヨウがそう言った時、ひゅんと何かが楊斈の鼻先を掠めて行った。 石墨だ。 ぎょっとする楊斈の目に、悪辣な笑みを浮かべた年嵩の連中の姿が映る。 リーダー格の少年、黄准が言った。 「どうせあのちびも気にくわねぇんだ、一緒にやっちまえ!」 それを合図にいくつもの石墨や硯、筆などが飛んでくる。 驚いた楊斈はとっさに「兵経」と写しかけの紙を胸に抱え込み、机の下に隠れた。 だが、屹ヨウは逃げも隠れもせず、悠然と呟いた。 「ふむ、お前にまで仕掛けてくるのは予想外だった。お前の近くにいれば安全かと思っていたんだが…」 飛んでくる物を最小限の動きでかわしながら。 楊斈は机の下から叫んだ。 「のんきなこと言ってないで責任取れよ馬鹿ーっ!!」 「責任?」 「お前が寄ってこなけりゃ僕は安全だったんだからな」 「それはどうだろう。遅かれ早かれ、こうなっていたと思うがどうだ?」 「どうでもいいっ!」 「仕方ない」 と屹ヨウは背後にある木戸をがらりと開けた。 そこには庭があり、村の広場へと続いている。 「走れるか?楊斈」 「っ、好きじゃないけどね!」 やけっぱちな気分で楊斈は机の下から出て外へ飛び出した。 あまり足が速いとは言えないなりに、必死になって襲い来るつぶてから逃れようと走る。 木戸を閉めてから追いかけてきた屹ヨウはすぐに楊斈に追いつき、小さく笑って言った。 「お前、足遅いな」 「うるっさい!!」 「追いつかれるぞ」 そう言いながら、屹ヨウが楊斈の腕を掴んだ。 「ぅわっ!?」 「引っ張った方が楽だろ」 「楽、かも、しれないっ、けどっ……ちょ、速いって!!!」 思わず涙目になる楊斈の手から、紙の束が音を立てて落ちた。 「兵経」と写本だ。 「っ!!!」 楊斈はとっさに屹ヨウの手を振りほどくとそれを拾いに戻った。 「楊斈!危ない!!」 屹ヨウの声に楊斈が思わず顔を上げた瞬間、鈍い音と共に、楊斈の視界が真っ暗になった。 楊斈が目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは青々と茂る屹の木だった。 木陰を渡る風が心地よい。 ずきずきと痛む頭を押さえつつ、楊斈が体を起こすと、すぐ側のあばら家から屹ヨウが顔を出した。 「お、大丈夫か?」 「……一応」 「落とし物はちゃんと拾っておいたからな」 と屹ヨウが紙の束を突き出してきたのを受け取り、楊斈はほっと息を漏らした。 「よかった……」 「黄准たちは今柳靖伯父に説教されてる。俺たちに関してはお咎めなしだそうだ」 その言葉に違和感を覚え、楊斈は尋ねた。 「僕たちが叱られないのは当然じゃないの?」 「いやー……俺は危なかった。次にやったら今度は問答無用で拳骨が飛んでくるな。うん」 「?」 首を傾げた楊斈は、痛む頭で考えた。 屹ヨウの今の言葉。 それから柳靖の屹ヨウに対する、どこか他の子供へのそれとは違う厳しい態度。 ――楊斈は怪訝そうに屹ヨウを見て言った。 「まさかとは思うけど、わざと挑発してた訳?」 「ばれたか」 言いながらも、屹ヨウに悪いと思っている様子はない。 「いつもいつも邪魔をされるのが鬱陶しくてな。さっさと片をつけさせてもらった。下手にやりかえすより、柳靖伯父の小言の方が効くだろう?」 楊斈は、いままでずっとただの変な奴だと思っていた屹ヨウを唖然として見つめた。 いつも妙にまっすぐで、大して脳のない奴と思っていたから、ここまで策略をめぐらすとは思わなかったのだ。 屹ヨウは悪戯っぽく笑って言った。 「もしかして、お前も騙されてくれてたのか?」 「っ、悪かったね!」 赤くなって怒鳴った楊斈に、屹ヨウは言う。 「そう怒るな。お前だけじゃないからな」 「なんでっ、なんでわざわざ頭がいいってことを隠すんだよ!」 「そりゃ、その方が便利だからだ。親がないってだけで叩かれるんだ、他にも叩かれそうなことがあるなら、隠すべきだろ」 「……まるで、僕がとんでもない馬鹿みたいじゃないか」 悔しくてそう唸るように呟いた楊斈に、屹ヨウは苦笑した。 「楊斈は賢いと思うがな。足りないのは――体力か」 にっと笑って、屹ヨウが言った。 「気が向いたら、今勉強に使ってる時間の半分を体錬に回さないか?今の体力じゃ、何をやっても持たないぞ」 「余計なお世話だ!」 そう叫んで、楊斈は屹ヨウの側を離れた。 その後、楊斈はどうしたか。 楊斈は恥ずかしさで憤死しそうになりながらも屹ヨウの言葉に従ったのだ。 そうして、勉学ばかりでなく武芸にも励んだ結果、楊斈は槍の名手となった。 そのようにして、屹ヨウらと親しんだ結果、黒陸を大きく変える大仕事に関わることとなるのだが、それはまた別の話である。 | |
written by 織葉[眠り月] 2007 |