師弟
オリジナル -- 三国志・姜→魏

練兵場の一角で、姜維が魏延と手合わせをしている時だった。
魏延の勝ちでとりあえずの勝負がついたところで、
「姜将軍」
とどこかの女中らしい女性に呼ばれた姜維は振り向いた。
若干、機嫌が悪そうに見えるのは、先ほど魏延に敗れたからか、別の理由があるのだろうか。
姜維よりいくらか年かさの女中は苦笑しながら、
「黄夫人から伝言を預かってまいりました」
「黄夫人から?」
姜維は首を傾げながらも彼女に近づいた。
「はい。本日の夕刻、お暇でしたらいらしてください、とのことです」
それを聞いた姜維はぱっと顔を輝かせると、
「是非お伺いしますとお伝えください。わざわざありがとうございます」
と返事をした。
それを見ていた魏延は意外そうな顔をしながら、
「黄夫人っていうのはもしかして丞相の奥方か?」
と姜維に尋ねた。
姜維は嬉しそうな顔をして、
「そうですよ」
「お前は丞相の身内みたいに扱われてるから親しくしてもらってるわけか」
「まあ、そんなところです」
「…妙な言い方だな」
「だって、それだけじゃないですから」
「…どういう意味だ?」
「ヒミツですー」
笑いながら言った姜維に、魏延は思いっきり顔をしかめると、
「白状しろ」
と言って武器代わりの棒を手に取った。
「え、あ、あの、それは……」
若干腰が引けながら後ずさる姜維に、魏延はじりじりと距離を詰める。
「今度は本気で行くから、覚悟しろ。……やめてほしけりゃ白状することだ」
「ほ、本気って、文長殿、冗談ですよね? 文長殿に本気で掛かってこられたら、流石に無理があると……」
「それほど弱くはないだろう。お前だって一応ひとかどの武人ではあるはずだ」
「それ、褒めていただけてるんでしょうか…」
一応とかはずとかいう言葉が気になるんですけど、と言った姜維に向かって魏延は棒を構え、
「行くぞ」
「こ、来ないでくださいぃ…!」
姜維の泣き声染みた悲鳴が、練兵場に響き渡った。

「魏将軍に追い掛け回されたと聞きましたよ。よかったですね。あなたも本望でしょう?」
顔を合わせるなりそう言われ、姜維はげんなりとした表情で肩を落とした。
よく見ればその顔にも腕にも傷やあざが残り、元々色白の姜維の肌であれば、余計にそれが痛々しく映る。
だが、それを見ても彼女は特に痛ましげな表情をするでなく、ころころと至極楽しげに笑って、
「魏将軍ほどの方に、本気で手合わせしていただけるなんて幸せじゃありませんか」
「そりゃ、月英殿ならそう思われるのかもしれませんけど…」
姜維が不満げに言うと、黄月英は楽しげに目を細め、
「そうですね。わたくしも、許されるものでしたら魏将軍と一度真剣で立ち会ってみたいものです」
「…月英殿の恐ろしいところはそれを実際に実行して、かつ勝ってしまわれそうなところですよ」
「あら、いけませんか? 武人たるもの、立ち会う以上やはり、何が何でも勝ちを目指さねばならないと思うのですけれど、わたくしが何か間違っていると思いますか?」
「……」
姜維が黙り込んだのは、それを肯定も否定もしかねるからである。
肯定すれば月英の機嫌を損ね、この後の約束が反故にされることは目に見えている。
姜維としてはそれでは困るし、肯定した後に、
「それではどこが間違っているのか、きちんと説明してくださいませ。出来うる限り分かりやすく、かつわたくしに納得のいくように!」
などとまくし立てられた上に、答えられなかった場合、課題としていつも与えられている兵法や政治学その他の書物の中に更に余計なものを付け足され、苦労させられるかもしれない。
かと言って否定して、つまりは月英の機嫌を取ることを優先した結果として、月英が言った通り、「何が何でも勝ちを目指」され、魏延に手合わせを申し込むばかりか、それを魏延が受けた場合に魏延が薬を盛られたり、その他何らかの妨害に遭う事態を迎えることも避けたい。
結果として押し黙った姜維に、月英はしばらく不思議そうな目を向けていたが、
「まあ、今はいいでしょう。時間も惜しいですからね」
と慈母の如く微笑んだ。
こういう時の月英は本当に優しく、美しい女性でしかないのだが、こと武芸や政治の話となるとそれが豹変する。
かなり取り扱いに注意が必要な人物なのだ。
それこそ、夫である諸葛亮までもが気を遣うほどに。
姜維はかなりほっとしながら、月英の後に続いて建物の奥に進んだ。
奥というよりもむしろ、裏手に近い位置にある台所に入ると、月英は姜維に尋ねた。
「さて、今日は何を作りましょうか」
「あまり難しくないものをお願いします」
「分かってます。……そうですね…やっぱり、お菓子がいいですか?」
「…えぇと、そうですね、やはりその方が食べてもらえる機会も多いですから、お菓子の方がいいです」
「じゃあ、そうしましょう。今夜のお夕食は孔明様の好きな揚げ菓子にするとして、」
そうしちゃうんですか、と口をついて出かけた言葉を姜維は辛うじて飲み込んだ。
尊敬する師には悪いが、ここで止めようとすれば更に悲惨な事態になることは免れまい。
人間、誰しも自分の方が他人より可愛いものである。
よって今日の夕食は決定し、月英が腕をふるう横でそれを見つめ、時には作業を代わってもらいながら、姜維は揚げ菓子の作り方を覚えたのだった。
つまり、ぼこぼこに扱かれながらも魏延に白状しなかったことというのは、月英にお菓子の作り方を習うことというわけだ。
諦観を絵に描いたような諸葛亮の顔を見ていると、流石の姜維も申し訳ない気持ちになる。
せめて少しでも師の負担を減らそうと、夕食と題された揚げ菓子の山を少しずつ削りつつ、姜維はそっと目元を拭った。

それもこれも文長殿のため、なんて、口に出したらまた文長殿に白い目で見られるんだろうな、と思いながら食べる揚げ菓子は、焦がしてもないのにほろ苦かった。