悪戯心 |
涼宮ハルヒの憂鬱 -- 古泉×キョン |
何気なく校内を歩いていると、前方に彼の姿を見つけた。 彼もどうやら時間を持て余しているらしい。 それとも、昼寝する場所でも探しているんだろうか。 いつにもまして気だるげな彼に、悪戯してやりたくなった。 というのも、彼の反応がとても可愛いからだ。 可愛いと言って悪いなら、面白いとでも言おうか。 それに気がついて以来、僕は彼をからかうのがくせになっていた。 だから今日も、気配を消して彼の背後に忍び寄り、いきなり、 「こんにちは」 とその頭のすぐ後ろから声を掛けると、彼がびくんと竦みあがった。 過剰なほどの反応が可愛らしい。 ばっと距離を取りながら振り向いた彼が、 「気配を消して近づくな! 心臓に悪い!」 と怒っているからか、少しばかり頬を赤く染めて憎まれ口を叩く。 その反応が楽しくて、わざとそんなことをしていると、彼は気がついているのだろうか。 「すいません」 僕が口先だけで謝ると、 「お前は俺に心筋梗塞でも起こさせたいのか?」 「そういうつもりではなかったのですが」 ただ、その可愛い反応を見たかっただけですよ、と心の中で付け足した。 そんな風にして、僕は度々彼をからかった。 「彼女ら」の目を盗み、手を変え品を変え、それこそ、彼に嫌われてしまうかも知れないというスリルすら味わいながら。 けれど彼は、不思議と本気で怒らないのだ。 僕が口だけで謝るように、口だけで怒り、拗ねる。 それを可愛いと思うのは、僕がすでに彼のような、少年らしい心やなんかを失ってしまっているからなんだろうか。 それでも、同じことの繰り返しでは慣れられてしまう。 いきなり声を掛けても、顔を近づけてみても彼が呆れたような態度しかとらなくなったので、別の手段に出てみたのは、彼と出会ってから一年ばかりが過ぎた頃のことだった。 「あなたが好きですよ」 僕が言うと、彼はまるでその言葉が理解出来なかったかのように凍りついてから、 「冗談だろ」 「ええ、冗談です」 思ったより面白くない反応だった、と残念がる僕に、 「お前な、俺をからかうのもいい加減にしろよ」 と彼は呆れきった口調で言う。 「からかうだなんて、そんなつもりでは」 大いにあるんですけどね。 「じゃあどういうつもりだ」 「あなたとコミュニケーションをとりたいというだけですよ」 「ボードゲームに付き合わせておいて、何言ってんだ」 「それに、さっきの言葉もまるきり嘘じゃありませんよ?」 「は?」 「友人として、あなたが好きです。あなたは大変好ましい人柄をしておられると思いますから」 それにとても可愛らしい反応をしてくれる。 僕がにっこりと微笑んで見せると、彼は俯きながら深いため息を吐いた。 と、そこで僕は気がついたのだ。 彼の耳が真っ赤になっていることに。 どうやら、平常心を保っているのは表面上だけだったらしい。 俯いたのも、赤くなった顔を隠すためだろうか。 僕は新しいおもちゃを見つけたような心持ちになって、ニヤニヤと笑ったが次の瞬間、 「笑うな馬鹿」 と額にオセロの駒を命中させられた。 それ以来僕は、彼に向かって度々、 「好きです」 とか、 「可愛いですね」 などと薄ら寒いことを言うようになっていった。 そのたびに彼が取る、つれないと言うか、照れているのか気味悪く思っているのかよく分からないと言うか、とにかく曖昧で可愛い態度が見たいと感じるほど、僕はその悪戯が酷く気に入ってしまったのだ。 特に、彼の耳元に口を寄せ、わざと息を混ぜるようにして囁くと、彼が余計に恥ずかしそうにするのが面白く、なんでもない話まで内緒話にしてしまったほどだ。 どうして彼がそんな風になるのかということを、僕が知ったのは、春先のある日のことだった。 鶴屋さん主催ではなく、涼宮さん主催で行われた花見は、途中から長門さんの部屋に移動したことで、花見と言うよりも飲み会とでも言うべきう様相を呈していた。 僕の立場を考えると涼宮さんの機嫌を損ねるわけには行かず、よって飲酒を止めることも難しかったのだが、やはり未成年の飲酒は止めるべきだったかもしれない。 そうでなければ、僕はそんなことを知るはずなどなかったのだから。 例によって例の如く、朝比奈さんが真っ先に酔い潰され、長門さんは酔うという概念すら知らないかのような飲みっぷりを見せた。 彼と涼宮さんがほとんど同じ頃に酩酊状態になるのも、夏の合宿とご同様。 どうしたものかと思いつつ、ちみちみと飲んでいた僕に、彼がもたれかかってきた。 「眠たくなったんですか?」 「ん…」 肯定ととれなくもない鼻にかかった声を彼が上げた。 僕は苦笑しつつ、 「では、涼宮さん、僕は彼を寝かせてきますね。長門さん、お部屋はあちらでよろしいんですたね?」 涼宮さんが、 「悪いわね」 と明るく笑いながら言い、長門さんが頷くのを確認して、僕は彼とともに立ち上がった。 足元のおぼつかない彼を支えて歩けば、当然、彼の言う「顔が近い」状態になるのだが、流石に今は咎められないらしい。 それが少し面白くて、僕はわざとらしく彼の耳元に口を近づけると、 「全く…以前、お酒はもう飲まないと誓ったのではありませんでしたか? 自分で誓っておいてそれを破るなんて……」 とたっぷりと間を取った後、自分でも寒気がするくらいねちっこく、 「…いけない人ですね」 と囁いたのだが、その瞬間、 「んあっ…!」 と、彼がとんでもない声をあげ、そのままその場へへたり込んだ。 「ど、どうしたんですか!?」 何かあったのかと思い、慌てて助け起こそうとすると、彼は畳の上に座り込んだまま、涙目で僕を見上げた。 「お前の、声が良過ぎんのが、悪い…」 向けられているのは、恨みがましい視線。 彼の薄い唇から漏れたのは、拗ねたような声。 でも、それは僕に申し訳ない気持ちを呼び起こす前に、酷く僕の胸をざわめかせた。 なんだ、これは。 戸惑いながら、とにかくこの危険な上目遣いだけでもやめてもらおうと、僕は彼と目線を合わせるべく、膝をついた。 それが失敗だったと気付いたのは、後になってからだった。 余計に近くなった彼の、普段は決して見れないような頼りない表情に心拍数が跳ね上がる。 それを誤魔化したくて、 「自分ではそうは思わないのですが…」 と会話の続きを促した。 「いい声だろ…。聞くだけでぞくぞくしそうなのに、お前、わざわざ耳元で囁いたりするから……。耳レイプもいいとこだ…」 今にも眠り込みそうなとろとろとした声で言う彼だが、その頬が先ほどまでより赤味を増しているのはもしかして、僕のせいなんだろうか。 「そんなに、僕の声がお好きですか?」 「ん…、好き……」 「…本当に?」 どうしてかは分からない。 でも、彼にもっとその言葉を言わせたいと思った。 「好きだっつってんだろ…。しつこいぞ……」 「………では、…僕のことは?」 自分でもどうしてそんなことを問うのか分からないまま僕が問うと、彼は拗ねるように唇を尖らせながら、 「…嫌いじゃ、ねぇけど……からかわれるのは、やだ…」 「すいません。もう、しませんから…」 どうして謝っているんだ。 罪悪感なんて少しも抱いてなかったくせに。 けれど、彼に嫌われたくないと思っているのは事実で、それは………彼が、好きだから? ――その結論に至った瞬間、僕は真っ赤になった。 いい年をして、まるで初めて恋をした高校生みたいじゃないか。 それも、相手が彼だなんて…。 彼は確かに可愛い。 でも、男だ。 それ以上に彼は世界の『鍵』で、残酷だとは思うが、涼宮さん以外との交際なんて許されない。 もしそんな可能性が出てきたら、それをなんとしてでも阻止するということは、僕の役目のひとつでさえあるのに、その僕が、彼を好き? あり得ないと言い切ってしまいたい。 しかしそれは出来なかった。 にこっといつになく無邪気に、そして真っ直ぐに笑った彼が僕を見つめて、 「からかってこないなら、好きだ……」 と口にしたからだ。 相手は酔っ払いだと分かっていてもだめだった。 僕はこみ上げてくる衝動のまま彼の顎に手をやる。 すると彼は驚いたことに、とろんとしていた目を閉じた。 これから何をされるのか分かっていて、それを受け入れるかのように。 相手は酔っ払いだ。 その意味を分かっているはずなどない。 でも、分かっていてほしいとも思ってしまう。 ここしばらくなかったと思うほど、感情が暴走して止められない。 僕は理性をうまく働かせることが出来ないまま、彼の柔らかな唇に触れるだけのキスをして、――未だかつてないほどの、罪悪感に苛まれることとなってしまった。 それから、一月ばかりが過ぎ、いささか厄介な騒動が収束し、そろそろ日常の方も、非日常でありながら一応の通常営業に戻ったと思われ始めた頃、僕は彼に呼び出されていた。 場所は、本館の屋上近くの踊り場で、様々なものが雑多に置かれた中で、僕は彼を待っていた。 「待たせたな」 言いながら姿を見せた彼に、 「いえ…」 と返しながらも、僕は心臓を落ち着け、表情の変化を抑えるのに必死だった。 ここしばらく忙しくしていた間は平気だったが、そうでなくなった今は彼を見るだけで胸が騒ぐ。 本当に、何をやっているんだろう。 彼が今時珍しいくらい純粋なところを持っていることを知っている僕の心情としては、この厄介な恋愛感情を自覚して以来、自分が性犯罪者かロリータ・コンプレックスか何かのようにさえ思えてならないため、彼を見ると余計に申し訳なくて堪らなくなる。 出来ることなら逃げ出したいくらいだ。 しかし、そうすることが出来るはずもなく、僕は努めて普通に、 「あなたがわざわざ僕を呼び出すとは、尋常ではありませんね。なにかありましたか?」 と聞いた。 「いや……そんな重大事件が起こったとかじゃないんだが…」 彼は申し訳無さそうに視線を伏せながら、そっと自分の頭に手をやった。 意外と小ぶりな手が、少し硬めの髪にくしゃりと撫でる。 伏目がちになると、意外に長い睫毛の影がまぶたの下に落ち、普段の彼とは違って見える。 そんな細部も、少しの仕草も見逃さないように見つめてしまう僕は、本当にどうかしているとしか言いようがない。 「…お前、何で最近よそよそしいんだ?」 彼に問われ、僕は驚きに目を見開いた。 彼が気付いていないと思っていたわけではない。 ただ、呼び出しの理由がそのことであることに驚いていた。 それでも表面上はいつもの、彼曰く胡散臭いとしか言いようのない作り笑いを浮かべ、なんともない風を装い続ける。 そんな自分に吐き気すら感じながら。 「なんのことでしょうか」 彼は僕のそんな態度を咎めるように僕を睨みつけ、 「違うとでも言うのか? ボードゲームに誘ってくることも減ったし、誘ってきてもハルヒに不審に思われないようにって考えてるのが見え見えだ。それに……」 と、彼は少しだけ頬を赤くし、 「とにかく、変だぞ、お前」 「……変、と仰られましても、そんな抽象的な言葉では何を指して言われているのかも分からない以上、それが事実であるか否かを確認することも難しいですし、」 僕は殊更慇懃な態度を作りながら、心の中で彼に手を合わせた。 ――すみません、でもこれが僕の選ばなくてはならない道なんです。 「それに、そもそも僕とあなたは他人でしょう?」 近づいてはいけない。 近づけてはいけない。 彼が選ぶべき人はすでに決まっているのだから。 わざと酷い言葉を選ぶようにして告げた僕に、彼はぐっと顔を顰めた。 「確かに他人かもな」 その声に不機嫌さが滲む。 「でも、前よりも距離を取るのは何でだ」 「別に、深い意味はありませんよ? あなたが、嫌だと仰ったんでしょう?」 「……俺が?」 「ええ。からかわれるのは嫌だと」 あの時彼は酔っ払っていたから覚えてないだろうと思いながらそう言うと、彼は考え込む様子を見せた。 なんとか思い出そうとしているのだろう。 黙ったままひとりで百面相をする彼が可愛くて、こんなところで二人きりになるのは危険以外の何物でもないとさえ思いながら、僕は逃げ出せなかった。 唯一の逃げ道である階段には、彼が立っていたし、それ以上に僕は――彼から離れたくなかった。 矛盾した思考の理由は、理性と感情の対立のせいだ。 これ以上彼への醜悪な思いを深めたくなくて、彼から目をそらしたところで、いきなり彼に肩を掴まれた。 真っ赤になった彼の顔がすぐ目の前にある。 「俺は、お前の声が好きなんだ。その、お前の声で、……好きだの、愛してるだのって、言われただけで……どうしようもなくなるくらい、好きなんだよ。だから、」 困るんだ、と告げると思った。 だが彼は、予想外の言葉を口にした。 「…嘘でもいいから、好きって…言えよ……」 切なげな声は彼の意図を誤解してしまいそうなほど甘美だった。 けれどそれ以上に残酷で苦い言葉に、僕は表情を作ることさえ忘れて、眉を寄せた。 「言えません」 「何でだよ。前は、あんなに…」 「嘘でいいからなどと言われて、そんなことを言えると思うんですか。その上、声だけだなんて……あなたは僕を馬鹿にしているんですか?」 それとも僕のこの最低な感情を分かっていて、これまでの仕返しのように僕をからかって、弄んでいるんだろうか。 そうされても仕方がないことをしてきた自覚はあるが、それでも心のどこかが悲鳴を上げる。 彼がそんな人だとは思いたくないと。 期待した後裏切られるのも嫌だと。 「…っ、誰も、声だけなんて言ってないだろ!」 怒鳴るように言った彼に、抱きしめられる。 「え」 「お前にからかわれるのが嫌なのは、本気かもしれないと思っちまうからだ。だが、……き、キスまでしておいて、そんなことを言うってことは、俺の思い上がりじゃなく、……俺を、好きって、こと、だよな…?」 段々語尾が弱まり、最終的には今にも泣き出しそうな不安げな声になった彼を、いけないと知りつつ抱きしめ返した。 理性なんてどこかに逃げ出すほど、彼が愛しくて堪らない。 選んではならない道を選んでも、僕は彼を守れるだろうか。 いいや、守ってみせる。 どんな能力を持っていたところで、涼宮さん個人はただの世間を知らない女子高校生に過ぎないんだ。 それなら、うまく丸め込んでみせる。 涼宮さんさえ何とか出来れば、残りも大丈夫だ。 機関はもとより、彼のご両親だって説き伏せてみせよう。 そんなことを瞬時に考え、かつ結論付けた僕は、彼が好きだと言った声を、わざとその耳元で響かせるようにして、 「…あなたが好きです」 と彼に告げた。 その瞬間、彼は恍惚とした表情を見せ、 「…俺も好きだ」 はにかむようにそう言った。 その唇に、僕はそっと口付けた。 今の決意を忘れないように、誓うように。 |