天狐と幸村



椿が、好きなのさ。

鍛錬のためだけに造られた道場は武田らしいといえば武田らしいことに、全く花というものはなかった。随所に施された装飾といったものはありはしてもどこか男らしさに溢れる、言ってしまえば大雑把な道場である。しかし本来の目的通り、ただ鍛錬のみを行う場として道場に通っていた幸村がそのことに気付くはずもない。そもそも目的からいえばそのような華美の装飾はむしろ幸村にとって破廉恥と呼ぶべきもので。
「…天狐殿、それは一体、どうされたので。」
構えていた槍を下ろし足元に槍先を向けた幸村に、仮面を被った不思議な忍びは幸村の忍びとよく似た声で笑った。笑い方まで同じだと幸村が不満げに呟くと、天狐はそれはしかたがないとまた笑う。笑う天狐は一輪の椿を手に持って、その色や匂いを確かめるように(いとおしむように、)匂いをかいでいるようだった。武器を持ち待ち構えているであろうと思っていた相手が、椿の花なぞを持ち悠々と道場の真ん中で寝転がっているのだ。扉を破かんとする勢いで開けた幸村の、闘志を削るには十分の光景だった。
「なぁに、俺はこの花が好きなんでね。」
無骨な板張りの道場の真ん中で、天狐に愛でられている椿はまるで己を誇るかのように赤々と花弁を色づかせている。
手折ってきたのか、枝の付いたままの椿の花をゆらゆらと揺らす天狐に、幸村は訝しげな顔をして首を傾げた。どうやら目の前の忍びは機嫌がいいらしい。くつくつと楽しげに笑みを絶やすことなく、ただ仰向けになって持ち上げた椿に鼻を寄せている。
「椿が好き、か。」
椿の深い色をした葉をはらりと落とし、天狐は幸村の前に立つ。手に持った椿はそのままで、唐突に現れた天狐の動きに従うように、唯一大きく揺れている。好きと言う割りには存外な扱いだ。
「そ、嫌われてるからね。」
「…変わっている。」
「そうかな。」
首を傾げる忍びは、そうだろうねと一人納得したように頷いて、ひらひらと手を揺らした。すると、遂に耐え切れなくなったらしく持っていた枝から、椿の花がぼとりと落ちる。花の重みか、まっすぐに落ちた花を天狐は一つ苦笑して拾い上げた。
今度は持ち上げたまま、幾分か花が開いた椿に鼻を寄せると端の花弁がひらひらと舞い降りていく。柔らかなその動きに、幸村は何故か城に残っているであろう忍を思い出したが、その花弁を拾う気にはならなかった。
天狐の動きの方が早かったからである。
空中でさらりと花弁を拾い上げ、持っていた枝と椿もろとも窓の外から放り投げるとパンパンと手に付いた花粉を振り払うように手を打ち「じゃあ訓練しようか」と何事もなかったような顔をして手裏剣を構えてくる。
「椿はもう良いのか。」
流れについていけず黙り込んでいた幸村の問いに、天狐は緩やかな笑みを浮かべ肩をすくめた。
「あれは俺のだけど、俺がもらったわけじゃないから。」
口元にゆるく笑みを浮かべた忍の、その笑みは全く違和感がなかった。佐助の友人であるという忍は、佐助とよく似ている。やはり変わった忍であるのだろう。
あの赤い花を佐助も好きなのかと首をかしげた幸村に、忍はくつくつと笑ってさあねと肩をすくめて見せた。



言葉よりはずっと
聞いてご覧よ、ちゃんと答えてあげるから