佐助と幸村



佐助が生まれたのは鷲塚の家だったが、故郷と問われて佐助がまず思い出すのは人の住む家ではなく、猿や猪、鹿たちと駆け回った鳥居峠そのものだった。
そのことに気づいた時には我ながら薄情なものだとさすがの佐助も思ったが、やはり故郷といわれて思い出すのは父母や姉の顔ではなく、名前もない動物達や突然あらわれ佐助に忍術を仕込んでいった白雲斎の姿であるのだから仕方がない。
(あの人もよく分からない人だからなあ、)
ただ掴めなさという点では今の主とていい勝負ではあるのだが。
その主は興味津々といった様子で後ろから佐助の手元を覗き込んでいる。文台に向かい墨の付いた筆を持つ佐助は忍装束ではなく人の中に紛れるように簡単な着物を着て、幸村の部屋で何故か書などを書いている。さらさらと筆を滑らしていくと、一々感嘆するように幸村はため息をつく。その姿がまるで手習いを始めたばかりの幼子のようで佐助は小さく苦笑した。
「はい、これが旦那の字。」
今しがた書かれた文字と、手本にと並べていた文字を見比べて幸村はほおと息をつく。
「見事なものだな。俺の字だ。」
「そりゃどーも。本人にそう言ってもらうと自信つくよ。」
笑って筆を置くと幸村がところで、と首を傾げた。
「お前の字は?」
「ないよ。」
何枚か床に広げられていた半紙から驚いたように目を上げた幸村に苦笑して、そりゃそうでしょと佐助は笑う。
「誰の字でもない字ってのは書けるけど、俺の、はないよ。」
そもそも、忍はどこの者であるか特定される痕跡を徹底的に消すものだと佐助は幸村に言う。常々その辺りは武士と忍の決定的な違いだと思っている佐助は特にそれ以上考えたことはなかったのだが、幸村にとっては違ったらしい。不満げな顔をする幸村に、こりゃまずいなと胸中で呟いて佐助は肩をすくめた。
「そりゃ中には持ってる奴もいるかもしれないけどさ、俺にはないの。」
「…何故だ?」
「必要なかったから。」
佐助にはじめに字を教えたのは白雲斎だった。忍として生きるための技術はそのほとんどが師匠から教わった。その中で、白雲斎が佐助に最初に教えた字は誰のものでもない字だった。あえて言うのであればそれが佐助の字ということになるのかもしれなかったが、佐助は師匠から与えられた文字の形をただ真似て書いただけである。それでは己の字はと言えないだろう。
そう考えてみると佐助はほとんど何一つ、自分のものを持っていない。親も兄弟も、字も名前すら。
気がつけばそういう風になっていたのだから、全く里の教育力には恐れ入るばかりだ。小さく苦笑した佐助は、それを隠すように小さく肩をすくめてへらりと笑う。幸村は静かにそうかと頷いて、佐助の書いた字をじっと見下ろしている。てっきり駄々をこねられるものだと思っていた佐助は、その反応に拍子抜けしてまじまじと幸村を見た。気がつけば、幸村も大人になったということなのだろうか。まるで親か何かのような感想に佐助はそりゃないだろと考えを打ち消しつつ、ただと呟いた幸村に首をかしげた。
「お前の字を見てみたかったのだが、仕方ない。」
「お見せできなくて悪いね。」
苦笑した佐助に幸村はまるで子どものころ、というには少々邪なものが過ぎった笑みを浮かべて、そうだなと続ける。
「では俺がお前の字を決めようか。」
なに、名を与えることに比べると軽いことだと、軽く笑った幸村に佐助は呆気にとられて、幸村しか呼ぶもののいない佐助の名を楽しげに笑いながら墨で綴った。



そしてまた繰り返す
っていうか旦那、俺の話聞いてないだろ