静かな静かな里の秋 / 毛利×元親
written by 織葉
真夜中に突然飛び起きた元親に起こされた元就は、怪訝そうに元親を見た。
「どうした、若子」
一瞬びくりと竦み上がった元親だったが、それが元就の声だと認識するとほっとしたように笑った。
「なんでもない…。変な夢を見ただけだ」
「ふん、夢だと?下らぬ」
「ああ、くだらないよな。でも……怖かったんだ…」
ぶるりと身を震わせ、元親は布団に入りなおした。
それでもまだ寒かったのか、元就の布団に潜り込みつつ、元親は言った。
「何が怖かったのか、なんかどんどん朧気になってくんだけどさ、死ぬより怖いと思ったのだけは忘れられねェ……」
「死ぬより怖い…か。我もそなたも、何度となく死ぬような目に遭ってきたと言うのに、今更死より恐ろしいものがあるのか」
「ああ…。恐ろしかった。……俺のために、どんどん人が死んでくんだ。俺のために戦った兵士、家臣、息子たちに菜々まで…」
「菜々?」
「俺の嫁だった人だ。織田方の人間だったから今も多分無事に暮らしてるんだろうな」
「……まだ未練があるか?」
「まさか」
と元親は笑った。
嘲笑うでなく、ただ明るくまっすぐに。
「菜々は確かによく出来た嫁だったけど、無事でいてくれるんならそれだけで十分だ。出来れば俺なんかよりずっとイイ男の所に嫁いでもらいたいけどな」
ところで、と元親は意地悪く笑って尋ねた。
「お前はどうなんだよ。郷里に心残りはねぇのか?」
「ふん、あるはずがなかろう。我はあの地に想いを残すような物はない」
「まあ、お前ならそうかもな」
「そなたはさぞかし心残りが多いのだろうな」
「うーん……多いといやあ多いだろうが、ちょっと気になるくらいだしなぁ…」
「薄情な奴だ」
「………そのセリフだけはお前に言われたくない…」
と元親は嫌そうな顔で言った。
さて、コトが起こったのはその数日後のことである。
領主である伊達 政宗が部下を引き連れて入り浸るために徐々に有名になった料理屋を元親がいつものようにてきぱきと切盛りしていると珍しくも女性がひとりやってきたのだ。
市女笠を被り、衣を垂らして顔を隠しているところからして旅の途中なのだろう。
疲れ、掠れた声で女性は言った。
「あの……こちらで土佐の料理が味わえると聞いたのですが……」
元親は元気よく、
「ああ、やってるぜ。まあ、魚なんかは違ってるけど…」
「あなた!!!」
そう叫んで、女性は元親に抱きついた。
「え……」
硬直する元親。
それを睨む元就。
好奇心に満ちた客の目。
そんな中、女性は笠を振り落とし、元親の胸に頬をすり寄せた。
「会いたかった…」
「っ、な、な、菜々ぁ!?」
「はい」
と元妻はにっこり微笑んだのだった。
いつもなら夜半を過ぎても呑んだくれている客を、今日ばかりは早々に追い出し、がらんとした店の中で三人は黙って座っていた。
菜々は所在なさげに店内を見回し、元親はその向かいに座ってため息をついている。
元就は元親の隣りで菜々を観察していた。
まず口を開いたのは菜々だった。
「元気そうですね」
「あ、ああ…」
後ろめたいことがあるからか、元親の声にはどこか精彩がない。
それでも菜々は嬉しそうに、
「よかった。もしどこかでのたれ死んでたらどうしようかと思ってたの」
「菜々は……どうしてこっちに来たんだ?」
「あなたを探して」
「え!?」
「というのは半分冗談で、」
と菜々はころころと笑った。
「本当は、諸国の名刹を回る旅の途中なんです」
「なんでまた…そんな旅を、それもひとりでやってんだよ」
「私に出来る数少ない供養ですし、それに…旅の間は新しい結婚相手とやらを見なくて済みますから」
「再婚相手を決められたのか?」
「まだですけど、いずれ、明智の家臣の何某か、良くても織田の家臣の誰某と決められるのでしょうね」
でも、と菜々は俯き加減で言った。
「それが、今の時代ですもの。今更逃げるつもりはありませんでした」
「……そう…か」
「ただ、心残りだったのは、あなたのこと。北に流されたと聞き、寒がりのあなたがどんなに心細く思っているかと考えるだけで悲しく思っていました。けれど、旅をするうちこの土地に至り、こんな北国で土佐の料理の噂を耳にしたのです。きっとあなただと思って、こうして探し尋ねてきたのです」
「…菜々、その……」
「私は、」
菜々は元親に皆まで言わせまいとするかの如く言った。
「この店の噂を聞き集めるうちに色々な話も耳にいたしました。根も葉もなく思えるものから真実らしいものまで様々に。そうして、思ったのです。あなたはもうこの土地にしっかりと根を張っていて、あなたなりに幸せなんだって。だから、」
と菜々は目元を袖で隠した。
「…連れ帰ろうとか、一緒に逃げたいなどとは思いもいたしませんし言いません。ただ一夜、かつてのように酒を飲み、言葉を交わして過ごせませんでしょうか」
最後の言葉は元親でなく、元就に向けられていたように思われた。
元就は小さく鼻を鳴らすと席を立った。
そうして、
「若子、我は奥で寝る。貴様らはそこで好きにするがいい」
元親は一瞬腰を浮かしかけたが、すぐ、
「…悪いな、恩に着る」
と曖昧な笑みを浮かべた。
菜々も微かに微笑み、
「ありがとうございます、毛利様」
元就は何も言わず、奥の部屋へ姿を消した。
元親と菜々はしばらく黙って酒を飲み交わした。
静かに、時は流れていく。
菜々は杯を置き、小さく笑って言った。
「あなたは、幸せそうですね」
「そうか?」
照れたように元親は笑った。
菜々は頷き、
「毛利様は冷徹な方と聞いていましたけれど、お優しいところもあるようですし。……安心しました」
「俺も、お前が元気そうで安心した。お前たちがどうなったのかが気がかりだったからな」
「あなたは半死半生で安土に送られましたものね。皆、元気にしておりました。あなたの帰りを待ちたいと思いながら、織田から下された新しい主に嫌々ながら従って…」
「……菜々、もし出来るなら、あいつらに伝えてやってくれ。俺に忠義を尽くすことなどもう必要ない、自分たちが生き残ることだけを考えてくれって」
「ええ、出来るかどうかわかりませんが…なんとかしてやってみせましょう」
「…本当に、お前には苦労ばかり掛けたよな」
「それも楽しいものでした」
「……ありがとう」
「いいえ。私も、あなたの妻として、幸せでしたから」
「……その、色々な噂を聞いたって言ってたよな。それなら分かってると……思うんだが…」
言いよどむ元親に菜々は微笑む。
「ええ、分かっておりますわ。何しろ、大層有名になっていますもの。『男同士の夫婦者がやってるが、料理はうまいし酒もいいのを見つけてくる』とか『一度政宗様が若子とかいうのをさらったら旦那が城まで乗り込んで連れ戻した』とか」
「う……」
「愛されてますわね」
「……」
「うふふ、そんな、黙らなくってもいいんですのよ?顔は真っ赤になってますし」
「いや…、だって、なあ?」
「ええ、分かりますわ。でも、…本当によかった。あなたが幸せそうで。あなたが不幸にしていたらどうしようかと、そればかり考えていたのよ、私」
「俺も…お前に幸せになってもらいたいってずっと思ってた」
菜々はにっこりと笑った。
「私は幸せになってみせます。誰の妻になっても、どこへ行っても、必ず。だからあなたも、幸せでいてくださいね」
「ああ」
元親も明るい笑みを返した。
翌朝、出立するという菜々に元親は言った。
「もう少しいてもいいんだぞ?」
「いいのよ、そろそろ帰らなくてはいけないし、あまりお邪魔をするのも心が痛むから」
「そうか…」
「また、お手紙でも送りますわ。新しい旦那様がどんなにいい人か、いっぱい書いて送ります。あなたも、こちらの暮らしのこと、教えてくださいね」
「ああ。……菜々、元気でな」
「はい」
晴れやかに笑って、菜々は出て行った。
その決意を表すかのように、一度も振り返らず。
「……帰ったのか」
背後で元就がそう呟いても、元親は驚かず、
「ああ。…気を使わせて悪かったな」
「…ふん」
「どうせ今日は休みだ。ゆっくり寝てようぜ」
「それは誘いか?」
「…さあ?」
元親はにっと笑い、店の中へ戻って行った。
こちらもどこか晴れ晴れとした様子で。
以来、菜々と元親は何度となく手紙を行き来させた。
それは小さな料理屋として結構な出費でもあったのだが、元親がやりくりをして続かせたようだ。
しかし何より不思議なことは、元就が一度も反対せず、手紙を覗きもしないことだと、元親は思うのだった。