「旅をはじめたばかりの頃、不思議な老人に王佐の才があると指摘されたと言っていましたな。」 「何だそれは」 曹操はここぞとばかりに筆を止め、荀攸を見つめた。その目は戦場で出会えば腰でも抜かしそうなものだったが、荀攸は慣れたものと涼しい顔のまま。 「殿の筆が進むのでしたらお話しましょう。」 荀攸がぷいと横を向いて催促した。曹操のペースに載せられて、そこから抜け出せるものはほとんど居ない。ならば最初から自身のペースにだけ忠実で居れば問題ない。 「旅の事は全部忘れたと聞いたぞ」 「はい。今、叔父上は本当にお忘れのようですね。」 旅の途中、まだ記憶の新しい頃に荀攸の元を訪れた荀ケが語ったのだ。 天下の曹孟徳はその事を察し、流れるように筆を動かしながら続きを促す視線を荀攸に送った。 それを横目でちらりと見た荀攸が口を開く。 「見渡す限り砂ばかりで、他には岩しか無いような所を進んでいたそうです。砂嵐に巻き込まれて周りが見えなくなったかと思うと、異国の町の中にいたとか。」 荀攸はまだ少し幼さの残る姿で、嬉しそうに語った年下の叔父の姿を思い出した。 「目の前には小さな老人が居て、君には王佐の才があるといったそうです。」 「で。荀ケはそれになんと応えたんだ?」 三本目の書簡に筆を走らせながら曹操が聞いた。 荀攸は片眉を上げ、少し悩んでから答える。 「叔父上に直接お聞きになってはいかがですか。」 「むむ!ここまで引っ張っておいて、それが主に対する対応か!?」 「別にいいではありませんか。それに、叔父上のことは殿の方がお詳しいのでしょう?」 ニタリと笑う荀攸。曹操の知らない荀ケを知っているという優越感がにじみ出ている。荀ケのことならば、どんな些細な事でも聞き出したい曹操は筆を握った手に思わず力がこもった。 ただ書類仕事を片付けていただけの室内が、真剣な軍議のように張り詰めた雰囲気に変わる。 「答えろ」 「早くその書片付けてくださいね。叔父上の所へ、持っていかないといけないので。」 「……荀攸お前、他にも俺の知らない話があるんだろう」 「どうでしょう。仕事が暇にでもなれば思い出すかもしれませんね」 荀攸に、大事な叔父を奪った男に゛王に仕える喜びを誰よりも知っているつもりです゛なんて喜びそうな言葉を教えてやる気は無かった。例え仕えている相手でも。 その後しばらくは文官の仕事に暇が出来たとか出来ないとか。 |