「鰯が食べたい。そろそろ黒陸では美味い鰯が大挙して押しかけているんだろうなぁ…」
 職務を終えた途端、玉座に座ったままそうのたまった屹ヨウに、一同は怪訝な目を向けた。
 楊斈は首を傾げ、
「陛下、今なんと仰られました?」
「職務中以外は陛下と呼ぶなと言っているだろう」
 そう言いながら、屹ヨウは玉座から降りて床にじかに座り込んだ。
 楊斈は眉を寄せて言った。
「では屹ヨウ、今なんて言ってくださりやがりました?」
「楊斈は複雑な敬語を使うな」
 笑ってそう言った屹ヨウに月斉が言った。
「屹ヨウ、確かに今は鰯の旬ですが、北の黒陸から黄陸の中央にまで運ばせては傷んでしまいますよ」
「そう言って、もう随分と生の魚も食べてないんだがな…」
 よし、と立ち上がった屹ヨウは玉座の影に向かって声をかけた。
「西雲」
「へーい」
 と軽い返事をしてそこから姿を現したのは屹ヨウの影武者、西雲だった。
 西雲は影武者のくせに屹ヨウにあまり似ていない。
 髪は明るい黄色、肌は白、目に至ってはなんと深紅という派手さである。
 唇を楽しげに歪め、彼は言った。
「北へ行っている間、俺が代わりを務めろってこと?」
「そういうことだ」
「俺は構わないが、」
 と言った時には既にその姿は屹ヨウそっくりになっていた。
 声も、屹ヨウのそれそのもの。
 西雲は変装の名人だった。
 ただし、唇には相変わらずの笑みが浮かんでいる。
「楊斈や月斉は承知しないのではないか?」
「承知しなかったら逃げるまでだ」
 笘鏈は呆れたように、
「お前、堂々とそんなこと宣言するなよ」
「麗瑾も連れていく。心配するな」
「いや、だからな?いくら西雲がいるっつっても何が起こるか分からないんだから、軽はずみな行動は止めてくれねぇか?」
「笘鏈は本当に心配性だな。それとも…頭がよくなったというべきか?」
 そう言って屹ヨウは楊斈に目を向けた。
 屹ヨウと笘鏈が話している隙に、楊斈は城内の警備を増やし、監視用の間者も増やしたらしい。
「うまく時間を稼がれた…というべきかな?」
 そう笑っている屹ヨウは未だに余裕である。
「西雲、手を貸せ」
 言いながら掴んだのは火のついていない灯台だった。
 それを棒の要領で振り回し、西雲に渡す。
 西雲は西雲で腰に帯びていた組み立て式の棍を伸ばし、屹ヨウに投げ渡した。
 ふたりが構え、屹ヨウと西雲は楽しげに笑って言った。
 御丁寧にも声を揃えて。
「強行突破だ!」
 楊斈が外に向かって命じる。
「陛下と西雲を捕縛しなさい!」
 わっと人が雪崩れ込む中、棍と灯台を時折交換しつつ屹ヨウと西雲は兵をなぎ倒す。
 大した怪我はさせず、動きだけ封じるようにするのはある意味流石と言うべきか。
 やがて、どちらが屹ヨウか西雲か分からなくなった頃、一方が外に飛び出した。
 手にしているのは棍だ。
「ではな!」
「屹ヨウ!!――誰か、あれを捕まえなさい!多少の怪我はいたしかたありません!!」
 楊斈が追うように命じたのも虚しく、屹ヨウは逃げていった。
 残った西雲はへらりと笑って、
「残念だったな」
 と言って楊斈を悔しがらせた。
 その夜のことである。
 西雲が屹ヨウとして寝ていると、地下の隠し通路からひょっこりと屹ヨウが顔を出した。
 西雲は体を起こし、
「御苦労」
 と言った。
 その途端、屹ヨウは西雲に戻る。
「いいえー。でもこういうのは初めてだから結構楽しめましたねー」
 西雲が化けているはずだった屹ヨウはにやりと笑い、
「そうだな」
 と言った。
 ようするに、あの時逃げ出したのは西雲の方で、残ったのが屹ヨウだったのだ。
 西雲は警備が厳しいため城外には出ず、城内に留まった。
 屹ヨウは西雲であると言うことにして大人しくしていた。
 そして、残っているのは西雲だと安心している警備の隙をついて、入れ替わる。
 屹ヨウは旅装を整えて地下通路に入った。
 その先にあるのは獣舎である。
 既に目を覚ましていた錦芳と共に、屹ヨウは北へ飛んだ。

 小さな漁村で捕ったばかりの鰯を焼いて食べながら、屹ヨウは錦芳に向かって言った。
「追っ手を振り切って食べる鰯は美味いな。だが…俺は結局、ああやって逃げるのが楽しいのかもしれんな」
「…楊斈たちも苦労をするな……」
 本当に気の毒そうに錦芳は呟いた。
 ちなみにその頃、からくりがばれた西雲は楊斈によってメタメタにお説教をくらっているのだが、それはしょせん北の大地にまでは届かないのだった。