蝉の翅 ―――――― 氷室恭夜
初めは、雲の中に居るのかと無邪気に喜んだ。
ふわふわと白い靄に包まれたような視界は、ゆっくりと目を瞬くうちに、焦点が合ってくる。
見慣れた天井の木目、今朝早くに活け直されたらしい花。
何重にも見えていた線が一つに重なってゆき、そして。

「障子、開けて下さい」

掠れた小さな声ではあった。
それでも聞き付けた誰かが、するすると障子を開けてくれる。
主の所望に応えるように、しかし身体に障らぬよう、少しだけ。
それでも初夏の風の清涼感が心地良く感じられた。
手を付きながら身体を起こし、枕元に置かれた水差しから硝子のコップに水を注ぎ入れる。
喉を潤して、漸く人心地がついた。

悪い夢を見ていたが、起きた後のうつし世も似たようなものだ。
少なくとも、この身にとっては同じことである。
いつになれば、この障子の向こう側へ行けるのだろうか。

手を延べても、指先が届くことは決して無い。
二つの世界は透明な硝子で隔てられているかのようだ。
以前は容易かった事柄すら儘ならない焦燥と、 先のことを想う度に何故か感じる喪失感。
話し相手もなく、ただ自分ばかりが生かされ、時間ばかりが過ぎてゆく。

「蝉が、…」

空虚な呟きの続きは咳と消え、焼けつくような喉の痛みに耐えようと布団を握り締める。
恨みがましく見上げた空は五月晴。

どこまでも、どこまでも青かった。