世界の果てまで / 涼宮ハルヒの憂鬱(古泉×キョン)


「クローズド・システム・アプローチ、というものをご存知ですか」
ずっとだんまりを決め込んでいたはずの古泉が、不意に口を開いたのは、もうそろそろ卒業式が近づいてきつつある、2年の冬のある日のことだった。
「……知らん」
というのが俺の返事だ。
「そうでしょうね」
という笑いを含んだ古泉の言葉に、思わず睨みつければ、古泉は小さく笑って、失礼、と短く詫びとも取れない言葉を呟いた。
「経営学の用語のひとつです。組織というものを、外界からの影響を受けず、確定的で予測可能なシステムとして捉えるものを指し、その逆をオープン・システム・アプローチと言うのだそうです。たとえるなら……そうですね、これくらいの、小さな丸い水槽に入れられて売られている、小さなえびを知りませんか?」
知らんね。
「水槽には、水を入れるための小さな穴しかないんです。エサは要らず、適正な水温とほんの少しの光があれば、その小さな世界は続いていく…。その中で、この自然界と同じような循環が起こるんです。光を受けて、藻が育ち、えびは藻を食べ、えびが排泄したものは水中のバクテリアが分解し、分解したもので藻が育つというように。そのように、閉じた世界があるのです。あるいは、閉じた状態で管理された世界が」
「随分ちっぽけな世界だな」
「仰る通りです」
と古泉はかすかに声を立てて笑った。
「ただ、こんな話もあります。例えば我々が当たり前のように観測しているこのコインがありますよね」
と言って古泉はテーブルの上に手を伸ばし、そこに放り出してあった十円玉を拾い上げ、それを手の平の中に握り込んだ。
「こうして、観測出来ないような状態に対象物を置いた時、それがどうして、観測している時と同じ状態を保っていると証明出来るでしょうか?」
「……なあ、お前、何が言いたいんだ?」
いつにも増して何が言いたいのかさっぱり分からん、と白旗を上げると、古泉は愉快そうに笑って見せた。
「少し、思っただけですよ」
それから、握りこんでいた何の変哲もない十円玉を元に戻すと、
「水槽の話に戻りますが、その世界において、予想外に藻が増えすぎても、あまりに生育環境が整いすぎてえびが増えたとしても、それは世界の崩壊を招くだけかもしれません。そうは、思いませんか?」
「だから、何が言いたいんだ?」
うんざりしながら問えば、古泉は小さく首を振った。
「……お前が何を言いたいのかさっぱり分からんがな、」
言いながら俺は古泉を軽く睨んだ。
いつもと変わらず、苛立つほどに綺麗な顔に、憂いの色は似合いかも知れんが、たとえ美形であってもそんな不景気な面をされていると見てて気が滅入るんだよ、こっちは。
「俺たちは別に閉じ込められてるわけじゃない。違うか?」
「どうでしょうね」
投げ出すように、古泉は呟いた。
「さっきも申し上げた通り、所詮我々は自分が観測出来る範囲のことしか正確に把握出来ないものです。自らの目で見て確認出来る範囲がとても狭い我々に、どうしてこの世界が完全に閉じた世界ではないと、言えるでしょうか。あるいは、我々の過ごすこの街だけが、この世界の全てなのかもしれません。その他の場所は、あるという情報だけが存在する、仮装のものかも知れません。それは誰にも否定は出来ないんですよ。また、誰がどう言葉を尽くして否定したところで、我々当人が観測しない限り、それもまたまったく意味をなさないのです」
それに、と古泉は薄く笑って、
「実際、我々の観測するこの世界は、時間的に閉じたことすらあるんです。空間的にもそれが起きていないと、言い切れますか?」
「――分かった」
と苛立ちを込めて呟いた俺は、古泉に背を向けた。
「そんなに気になるなら、いくらでも付き合ってやろうじゃないか」
「…それは、どういう意味でしょうか」
戸惑うように言いながら、古泉が俺の肩に触れる。
「自分の目で観測したいんだろ? だったら、どこまでだって出かけてやる」
「え」
驚いたように絶句した古泉の、間の抜けた顔を想像しながら、俺は続けた。
「世界一周でも宇宙旅行でも何でもいいが、俺がそのための資金を貯めるまで、十年でも二十年でも待てよ。お前の方から妙なことを言い出したんだからな」
「……あなたの側で?」
くすりと笑った古泉の吐息が耳に触れる。
くすぐったいんだよ、ばか。
「他のどこで待つつもりだ?」
問い返せば、抱き締められる。
「他にあてなんてありませんよ。…あなたの側にいられるなら、いつまでだって、どこだって、そこにいたいです」
「……なら、いろよ」
「…はい」
幸せそうな声が耳をくすぐる。
「というか、古泉、」
「はい?」
「今日の話はピロートークとしては、過去最悪だったな」
ふふ、と笑った古泉の手が、素肌を滑る。
「そうですか?」
「そうだろうが」
何であんな話になったんだ、と問おうとした俺に、
「でも、」
と古泉が囁く。
「耳まで赤くなって、こんなに可愛らしいあなたを見られたので、僕としては大満足です」
「――っ、も、黙ってろ!!」
人がせっかく背を向けたってのになんてことを言いやがるんだ、こいつは!
「愛してます」
おまけにそんな言葉で火に油を注ぐなんて、たちが悪い。
「お前なんか、嫌いだ」
と裏返しの言葉を吐くついでに体を反転させると、同じくらい顔を赤くして古泉の顔が見え、思わず笑った。

written by 織葉(眠り月)