「夏璃、どうしたの。元気ないじゃん」

「え? そんなことない、よ」


佐藤夏璃を遠くから眺めているのは僕だけではない。

彼女は遠い存在だ。

この学校で、彼女に普通に接することができるのは数人だと僕は把握している。







辛うじて三年生になって同じクラスになったのが幸運だった。
一、二年と彼女に焦がれ続けて、結局三年になっても何も変わらない、なんて報われなさすぎると思う。でもそんな奴いくらでもいるだろうし、そう考えると僕は幸せなのかもしれない。

しかし、『彼女と同じクラスになってじゃあ何が変わったのか』と訊かれると、答えが見つからない。まあつまり僕は、たとえ彼女と同じクラスになったとしても遠くから眺めることには変わりない普通の少年だ。青少年だ。だけど彼女を眺められる時間は前とは比べ物にならないほど増えたし(なんたって授業中も眺めていられるのだ。前といえば休み時間に時々見つけるだけ)、同じ教室にいれば彼女の生の笑い声だって聴ける。僕は彼女のファンにおいては、きっと勝ち組だ。間違いない。

彼女の『夏璃』という名前もとても似合っている。こんな立派な名前、大抵の人は名前負けしそうなものだが、彼女は違う。しかし彼女が、「この名前、初対面の人だと、読み方分からないでしょ?」と言っているのを盗み聞いた。心配するなよ、僕は一発でちゃんと『ナツリ』って読んだよ。と、僕は心の中で彼女に言ってみるが、そんな虚しい行為を繰り返す自分にはつくづくうんざりしたりもする。でもまあしかし、彼女がそれ以上の魅力を持ち合わせているのだから、仕方ない。

「しかも夏璃なんかさー最近もっと可愛くなったよね。なんで?」
「そんなことないってー」

現に今、僕は次の授業の予習をするふりをして、彼女の話を聞いている。

「あ、それに香水変えたよね! やっぱなんかあったんだぁ!」
「なんもないよー。ただちょっと寝不足なだけで……」

こうして、彼女と普通に話ができるのは、三人くらいだろうか。それほどまでに彼女はこの学校で、『お高い存在』の地位を維持している。彼女の友達も、彼女には及ばないが普通に可愛い子ばかりだ。まあ僕には関係ない話だけれど。僕にとって意味がある存在は彼女だけなのだ。

ちらりと彼女を盗み見る。ここは窓際の後ろから二番目の席。窓際の一番前の席を囲って話している彼女とその友達を眺めるには、絶好の位置をキープしていると言える。僕はなかなかくじ運がいい。今まで何回かした席替えで、彼女よりも前になったことがない。だから四月からずっと、彼女をいつでも眺めていられているのだ。

彼女の姿はもう完全に脳が把握していて、いつもいつの間にか目を凝らして、脳の把握している『いつもの彼女』とは違う部分を探り出そうとしてしまう。

「え」

僕は思わず呟いてしまった。

「……あぁ」

もう一度呟く。え、とかああ、とか、まるで僕は異常者だ。
しかしそんなことを言っている暇はない。

眼鏡を掛け直して、もう一度彼女を見直す。ここから見えるのは左向きの横顔だ。茶色のローファー、ルーズソックス、白く細長い足、短いスカート、紺色のカーディガン、ピンク色のシャツ、よく手入れされた栗色の真っ直ぐな長い髪、つやりと輝く唇、筋の通った鼻、綺麗な白い肌、睫毛の長いくっきりとした二重の大きな目。これはちゃんといつも通りだ。しかし僕の心臓は高鳴る。今から僕はこの学校で彼女に一番近い存在である彼女の友達でさえ知らない真実を確認するかもしれない。そう考えただけで、今まで感じたことのなかった不思議な感覚が全身に染み渡る。

それは、子供がこっそり一人で友達のクレヨンを一本盗み出すような気持ちと、一割はそう、恐怖。そして彼女を支配するような優越感。僕は満たされていく気がする。

そして僕は視線をゆっくりと下にやる。目、鼻、耳、口、と下降してゆく視線は、彼女の鎖骨辺りで止まった。長い髪が絡まることなく伸びている。その僅かな隙間から、僕は『跡』を見つけ出した。仄かに紅く色づいた、『跡』。僕の中を思考がまるで閃光のように駆け巡る。どくんどくん、彼女の秘密を知ってしまった。僕と彼女の関係が確立されたのだ。彼女の知らないところで、僕という存在が蠢いている。それに彼女が気付いたら、どうなるだろう。どうなるだろう。

『ありふれた存在』でなくなった僕は、拳を握りしめた。彼女はまだ、友人達からの執拗な質問攻めを受けている。その答えは僕と彼女、しか、ここには持っている人がいないのに。

僕は手の甲を力強く摘んだ。そしてそれを引っ張ってみた。何秒かそのままにして離してみると、彼女と同じような『跡』が生まれた。

僕と彼女を繋ぐ跡は、消えない。



end.



040523