「きみはなんにもしらないね」
「しりたくもないわ」
追いかけて
彼女は知っていた。もうすぐ彼が旅立つことを。
無機質な日々の中で、二人は僅かな愛とすべての悲しみと共に暮らしてきた。それが、ようやく終わる。きっと彼女はそれを望んでいたけど、いつしか懼れるようにもなった。
「しっていると思うけど」
そんな中、彼は口を開いた。彼女の胸が、ざわめく。
「ぼくはここを出るよ」
いとおしい日々だったのだ。彼女が彼と共に過ごしてきたいくつもの季節は。それを知ってようやく、彼女は涙を流した。知っていた。彼が旅立つことは。知っていた。愛してしまっていたことも。知っていた。きっともう、二度と会えないということも。
「きみはやっぱり、ほんとうになにもしらない」
彼は彼女の涙を拭いはしない。ただ古ぼけたテーブル越しに、流れ続ける小さな水を眺めていた。ああ、きれいだ。
でも彼女は知らない。ぼくのきもちなど。彼女は一生知ることもない。あまつさえぼくを愛してしまったきみは、ほんとうに愚かだと神様も仰っているだろう。
彼は何も言わずに席を立った。床の軋む音に、弾かれたように彼女は顔を上げる。そしてゆっくりと背を向けて歩き出した彼に、掠れた声で叫んだ。
「しりたくもないわ!」
その声に、彼は足を止めた。しかし振り向きはしない。
「しりたくもないわ――しりたくもない!もうなにも!あなたがどうしてここをでるのかも、わたしはどうやってこれから生きていくのか、死ぬとしたらどうやって死ぬのか!なにも、なにも、しりたくなんかないわ!!」
彼女の涙は枯れない。平べったい頬を、静かに流れ続ける。両目に湛えた水のせいで、彼女は彼が見えなかった。
「しりたくもない……」
彼は悲しかった。それがなんのせいなのか、自分でもわからなかった。ただ、背に投げかけられた声は酷く掠れていて、それが胸を痛めた。
「なにも、しらないね……」
呟くように、彼が言った。彼女はそれでも涙を流していた。
「ぼくも、きみも」
彼女は俯いて、ドアが閉まる音がしたのは、それから少ししてからだった。
彼も、彼女も、ほんとうに無知であった。
お互いの名前も、生まれた国も、愛していることを伝える言葉も、なにも知らなかった。
そして彼女は最後まで、彼の望みを、知ることはなかった。
そして彼は最後まで、自分の望みを彼女に伝える術を、知らなかった。
二人は共に生きて、誰よりも近くにいたけれど、誰よりもお互いのことを知らなかった。これは、誰よりも臆病者な二人のお話。
彼は最後まで、彼女が追いかけてきてくれることを、頑なに望み続けていたけれど。
end.
040521
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