「――でさ。俺はそんなににーちゃんと仲悪くはないんだけど、……あ、両方のね。けど上二人の仲は最高に悪いわけよ。なんでだろーねー」
「……さあ……?」
「三人兄弟の真ん中って孤立し易いらしいんだけどさあ。ニ番目の兄ちゃん、雅也って言うんだけどね、雅兄が一方的に嫌ってるっていうの? あのひとのこと。いわゆるコンプレックス?」
「……さあ」
そんなこと尋ねられたって判るはずもない。会ったこともない相手のことなんて判らない。
ほぼ一方的に喋り捲る相手に曖昧な相槌しか返せなくても、目の前の男は戸惑う和秋を少しも気にした様子はなく、好き勝手に捲くし立てた。
「俺なんかコンプレックス感じる前に完全に負けを自覚したけどねー。そっちのが楽じゃんねー。ていうかこんだけ歳離れてると勝ち負けていうのも何だか」
男は咥えていた煙草をコンクリートに落とすと、踵で火を揉み消した。部屋の前で煙草の吸殻なんか落としたら怒られそうやのになあ――和秋はぼんやりと思う。
男と言うほどの年齢ではないのかもしれない。もしかすると和秋と同年代か、ひとつやふたつ年上か、きっとそれくらいの歳なのだろう。少年の顔で、彼は笑った。
「にーちゃん帰って来ないねー。俺レポート提出あんのにさあ、困るよね」
柔らかい喋り方をする彼は、あまり困っていない様子で首を傾げた。自称「弟」のこの人と、肩を並べて梶原雄高の帰宅を待っているという奇妙な状況に、なぜか和秋は陥っている。
「和秋君はさー、なんで兄ちゃんのこと待ってんの。そんなに急用?」
問われて、はっと我に返る。
危うくここを訪れた本来の目的を忘れそうになっていた。
「――ええと、」
しかしそれを説明するにはやや骨が折れる。
仕方なく、「忘れ物」と和秋は下手な嘘をついた。
梶原雄高の弟こと梶原千種は、納得したのかしていないのか、ふぅんと短く頷く。
顔は余り似ていないように思う。何よりも雰囲気が全く違う。あの人はこんな風に髪を明るくしていないし、跳ねさせてもいない。話し方もまるで違う。千種の髪は金髪というよりは黄色に近くて、故意的に跳ねさせた毛先はひよこを思い出させる。
しかし、真面目な顔付きのときの横顔だけは、ほんの少し――あの人に似ていた。
そもそも誕生日というものを、それほど重要だとは思っていない。
七夕で七月七日というよっぽどのことがない限り忘れられない日に産まれてしまったせいで、それこそ自分の誕生日を忘れることはなかったし、祝われれば嬉しいことは確かではあるが、別段誰からも祝われなくとも寂しいとは思わない。それが当然だと思うのだ。
つまるところ、他人の誕生日なんかいちいち覚えてられるか、というのが和秋の見解だ。
母親の誕生日をどうしても覚えなくて、少し前に非難されたことがあったがお互い様だと思った。母親は和秋の誕生日を忘れることこそなかったが、まともに祝ってくれたことなどないからだ。
だから和秋は誕生日というものがそれほど重要だとは思えなかったし、ただ単にひとつ歳を取る、それくらいにしか意識していない。あんなものは記念日でもなんでもない。誕生日を記念日だと称するのなら、結婚記念日の方がよっぽど禧い。
しかし今年の誕生日は、少しだけ違った。
気の好い友人の何人かは零時ジャストにメールをくれたし、義父の恵史は電話で祝ってくれた。ここまでは何ら変わりがない、恒例行事だ。
だから和秋は、うっかり失念していたのだ。梶原雄高という人物の存在を。
普通に学校へ行き普通にバイトに励んで帰宅した夜の十時過ぎ、その男がアパートの前で待っていたものだから、和秋は強烈に驚いた。
何か急用かと問うと、全くもって不本意そうな顔で「馬鹿かおまえは」と小突かれた。小突かれた意味が判らず、暫く首を傾げていると、要るのか要らないのかどっちだと問われて、差し出されたものは見覚えのある四角い箱だった。
愛らしい人形が入口に飾られている、少女のキャラクターで知られている某洋菓子店の箱だ。
そこで漸く、雄高が自分の誕生日を祝ってくれるつもりらしいことに思い至った。
雄高はワンホールケーキをわざわざ持って来て、しっかり十七本の蝋燭を立てて祝ってくれたのだ(危うく歌も歌われそうになったがそれは恐ろしくて必死に止めた)。
しかし、『かずあきくんおたんじょうびおめでとう』とデコレーションされていたのは、間違いなく嫌がらせだと思う。
もちろんワンホールのケーキを二人きりで食べ切れるはずもなく、残りは次の日まで持ち越された。
翌日、朝っぱらから二人してケーキの欠片を突付いているのが可笑しくて、どこかふわふわとくすぐったかった。
誕生日というものはそれなりに重要だということを、和秋は初めて知った。
九月十七日。
和秋は指折り数えてその日を待った。
癪ではあったが、神城からこっそり情報を入手したのだ。
未だに神城とはよく顔を合わせる。神城は雄高のことを、暇があれば友人のところへ入り浸る仕方のない人だと揶揄うが、神城とて似たようなものだ。近くに寄ったからお茶を一杯だの理由をつけて、神城は良く雄高の元を訪れている。
良く良く考えれば、恋人の元婚約者の実兄というとんでもない人と顔を合わせていることになるのだが、神城も雄高も気にしている様子はなかったから、和秋もそのうち考えることを止めた。
――あの人、誕生日いつなん?
そう尋ねたのは、確か八月のことだと思う。
神城はあの人の好さそうな笑顔で(しかしそれが人の悪い笑顔だと知っている和秋はやや不安を抱いた)、暫く考え込んだ後、
――確か十七日だと思いますけどねえ。九月の。
素直に教えてくれた。
くがつじゅうななにち、と口の中で繰り返した和秋を横目に見て、神城はにっこりと笑い、
――ちなみに僕はねえ、十月の、
――や、別に聞いてへんから。
酷い酷いと執拗に繰り返した神城の喚きに、和秋は危うく覚えた日付を忘れそうになった。
九月十七日当日、無事その日付を忘れることもなく、学校帰りに寄った雄高の部屋は、予想に反して無人だった。
たまたまマンションの中から出て来た人と擦れ違ったおかげでオートロックはクリアしたものの、雄高の部屋のチャイムを鳴らしてもうんともすんとも言わない。
せっかくバイト休みを取ってまで来たのにと思いながらも、和秋はのんびりと雄高の帰宅を待った。
「――五時、か」
時折携帯で時間を確認する。そういえば――唐突に思った。
平日の昼間、あの人が何をして過ごしているのかを、和秋は驚くくらい知らない。
休日はバイトがなければ和秋は雄高の家にいるし、雄高も外に出かけることはなく専ら自宅での仕事を片付けていたから、てっきり今日も自宅にいるものだと思っていた。しかしそれは自分のためだったのかもしれないと今更気付く。
良く考えれば、自宅で片付けられる仕事ばかりのはずがないのだ。
ならば今日、彼が不在であっても何の不思議もない。
雄高は必ずこの部屋にいることを疑いもしなかった自分が少し恥かしくなった。
そして部屋の前で待ち始めてから三十分ほどが経過した頃、見慣れぬ人物がエレベーターから降りてくるのが見えた。その人物は真っ直ぐに雄高の部屋へと歩いてきて、扉の前でしゃがみ込んでいる和秋を見つけると、掛けていたサングラスを僅かにずらし、不思議そうに首を傾げて言った。
「――にーちゃんの友達? えらい若いけど」
雄高の弟の千種と、待てど帰らぬ男を肩を並べて待つはめになったのは、つまりそういう経緯である。
雄高が三人兄弟の長男だと言うことは何かの折に聞いたことがあった。
千種は三人兄弟の末っ子で、雅也と言う次男と雄高は仲が悪いらしいというプチ情報まで手に入れてしまった和秋は、何だかなとひとり首を傾げる。
弟も自分と同じように兄の誕生日を祝いに来たのかと思ったものの、どうやらそれは違ったらしく、千種はさっきから遅い遅いと愚痴を零してばかりいる。
「レポート書く資料、にーちゃんのトコに置きっぱなしだったんだよねー。早く持って帰って書かなきゃいけないのにさー」
今日が兄の誕生日だという意識は全くないらしい。
「千種――さんは、大学生?」
「さんじゃなくていーよ、クンでも呼び捨てでも好きにして。ちーちゃんとかさ。可愛い名前だよね。……て、何の話だっけ。ああそう大学生。いちねんせい。和君は高校生だよねー、しかもその制服って桜ケ丘? にーちゃんと同じとこじゃん」
いつの間にか呼び名が和秋君から和君に縮められてしまっている。かと言ってそんな小さなことを気にする性格でもない和秋はそれを聞き流して頷いた。
「何年生? いちねんせい?」
「二年生」
「そっか、じゃあ受験もうすぐだよねー。志望校決めた?」
ジーンズのポケットから飴玉を取り出し、要る?と小首を傾げながら千種が尋ねる。
「や、まだ。決めてるヤツもおるけど、この辺の大学良ォ判らんし。もうちょっと調べてから決めよ思って」
有り難く飴を受け取り、包みを破る。それを口に放り込みながら、やはり和秋は内心首を傾げた。どうして自分は今、雄高の弟と世間話をしているのか。こんなことをしてる場合じゃない気がする。――自分も彼も。
「地元で進学すんの? て、君はここが地元じゃないのか、じゃあ帰らないんだ、あっち」
「それもまだ判らへんけど……。親とも話さなあかんし」
親は――多分、帰って来いと言うのだろう。
和秋自身は、ネックだった陸上に何の未練も残していない。走ることは好きだったが、走れない今、無理に陸上を続ける必要もないと思う。ならば和秋がここで暮らす理由はなくなってしまう。
しかし和秋はひどく自然に、進学先をこの土地で探している。大阪に帰るという選択肢は自分の中にはない。心地好いこの場所を手放す気には、どうしてもなれない。
複雑だねー、と相槌を打って、千種は頬張んだ飴を奥歯でガリガリと噛んだ。
「あんま難しく考えなくても良いと思うけどね。大学で人生決まるわけじゃないし、あ、決まることもあるか。専門学校っていう手もあるし」
「んー……けど別に、なりたいモンがあるわけやないし」
「なら余計に今迷っても仕方ないよー。大学通ってるうちに見付かるかもしんないしさ。ていうか俺未だに将来どうしようって思うもん。三年生になるまでには決めなきゃいけないんだけどね、どうしても」
「千種くん、何学部?」
「文学部の英文。英語ちょっと得意だったから行ってみた。けっこうそういうつまんない理由」
いつの間にか進路相談になってしまっている。しかし進学就職と進路を迫られてきたこの時期、先輩の意見を聞けるのは有り難い。
「英語得意ってすごいやんか。俺日本語も良う判らへん」
「得意って言っても翻訳の仕事とか出来るほどじゃないしねー。微妙、中途半端。今から頑張れば何とかなるかなー。和君は得意な教科とかないの?」
「――……体育?」
「あははは。じゃー体育大だー」
千種は呑気に笑っている。そういう問題でもない。
「……俺、進学出来るんかなあ……」
「進学はね、出来ると思うよ。学校択ばなきゃ。ただ将来のこと考えると選択肢が狭くなっちゃうからねー。アレならウチ来る? 楽しいよーウチのガッコ。愉快で。ジョージが」
「ジョージ?」
「英文の教授。愉快」
ジョージが幾ら愉快でも進路を決める決定的な理由にはならない。ううん、と和秋が唸りながら考え込むと、千種は至って気楽に笑い、
「資料請求してみてー。俺が大学案内したって良いし。食堂、うまくて安いよー」
と纏めた。
「あ、そうだ。もうちょっとでウチの母さんが来るからさ。母さん合鍵持ってるから中入れるよー」
「………!」
「え、なに。どうしたの」
母さん――その単語に思わず勢い良く立ち上がった和秋を、千種が不思議そうに見上げる。危うく顔が引き攣ってしまいそうになるのを堪えながら、和秋は一言「帰る、」と告げた。
「えー、なんで? ついでに中でにーちゃん待ってれば良いじゃんか。大丈夫だよ、ちゃんと入れたげるからさー」
「……や、……そういう問題やなくて」
それは気まずい。気まずすぎる。
知らん顔で「息子さんにお世話になってます」とでも言えれば良いだけの話だが、それにしたって後ろ暗いところのある自分には、母親とご対面なんて出来るはずもない。しかも当人のいないところで会っていたとなれば、雄高だって複雑に違いなかった。
「忘れ物取りに来たんだろ、帰っちゃったら無駄足じゃんか。もーちょっとだから待ってようよ。てか俺をひとりにしないでー」
千種にがっしりと足を掴まれてしまったせいで身動きが取れない。まさかこの腕を蹴って逃亡するわけにもいかず、和秋は途方に暮れた。この辺のマイペースさというか自己中さは兄に通じるものがあるのかもしれない。
「あ、ほら来たし」
和秋の足にしがみついたまま、千種がのんびりと告げた。その指が差された方向へ、和秋はまるでロボットのようにぎこちなく首を回す。千種が指差すエレベーターの扉から、女性がやはりのんびりと歩いて来るのが見えた。
――ヤバい。もしかしてこれはものすごくヤバいんじゃないか。
思考回路はやや混乱気味に超高速で動いている。しかし逃げ出したい心境とは裏腹に、足にしがみ付いた千種が動くことを許してくれない。
「あら」
女性は見知らぬ少年の足に抱き付いている息子の姿を見て、驚いたように目を丸めた。
「あらあらあらあら」
ぱたぱたと軽快な足音を響かせて扉の前までやって来たそのひとは、慌てたように鍵を使って扉を開けると、和秋の背中をぐいぐいと押した。
「え、あ、あの……っ」
中に入れと言うことらしいが、行動にいまいちついていけない和秋は戸惑って女性を振り返った。合鍵を持っているところを見ると、このひとが雄高の母親であることは間違いないのだろう。
「ごめんなさいね、お待たせして。今お茶でも淹れるから――ちいちゃんもそんなところに座ってないで早くお入りなさい、そのズボン誰が洗濯すると思ってるの」
はぁい、と間延びした声で千種が返事を返す間にも背中を押されていた和秋は、ちゃっかり玄関に上がり込んでしまった。
「座って待っててね」
和秋の戸惑いに気付いているのかいないのか、その人は強引に和秋をリビングに押し込むと、言葉通りお茶を淹れるためかキッチンへと消えて行った。
「ね、大丈夫だっただろ」
いつの間に上がってきていたのか、背後で千種の声が聞こえる。
「大丈夫ていうか――」
――普通は。
扉の前で高校生が自分の息子を待っていることを怪訝に思ったり、末っ子が何故か見知らぬ少年の足に抱き着いていたことを少しくらい不思議に思わないものだろうか。
「――大丈夫なん? ……や、色んな意味で…」
千種は少しだけ肩を竦め、「大丈夫なんじゃない?」と気楽に笑った。
――マイペースな息子の母親は、やはりマイペースだということを、学習した気がする。
「まー、座ってなよ和君。どうせにーちゃんまだ帰って来ないんだしさ、あ、忘れ物だっけ。何? 一緒に探してあげよっか?」
「え、……ええと、や、俺のはどうでもええねんけど。千種くんの用事の方が大事やん、ほらレポート、早よ書かなあかんのやろ?」
あーそうだったそうだった、と千種はソファに座りかけた腰を再び上げて、どこだっけ、と呟きながら本棚を漁り出した。漁ると言う言葉に相応しく、本棚の中の本を手当たり次第に引っ張り出している。あれを片付けるのはだいぶ骨が折れそうだが、彼がそのときのことを考えているのかどうかは判らない。
千種の代わりに腰を下ろしたソファの座り心地は、なぜかいつもと違うように感じた。落ち着かないのもそのはずで、この状況は余りにも不意打ち過ぎたし不本意すぎる。それなりに心の準備くらいは欲しかった。
雄高の母親がトレイに乗せたカップを持ってきたのと、千種が無事資料を見付け出したのはほぼ同じだった。
「見付かったの?」
「ん。やっとレポート書けるー」
手にした分厚い本を掲げて、千種は嬉しそうに笑った。無邪気だ。
「こんなに散らかして、お兄ちゃんに怒られても知らないわよ」
「うん後でねー。喉乾いた」
どうやら典型的な末っ子タイプらしい千種は、甘えた口調で母親が手にしているトレイからカップをひとつ奪う。もうひとつのカップを手に取ると、それを和秋の前に置いた。
「ブラック平気?」
「うん。飲めへんことはない」
珈琲を飲むなら砂糖入りの方が好きというくらいで、飲めないことはない。
「ぁー……ありがとうございます」
今更ながら珈琲を淹れてくれた母親へと頭を下げると、その人はおっとりと笑って目を細めた。余り顔は雄高に似ていない。
「どういたしまして。雄高のお客さんよね、随分待ってくれてたみたいだから勝手に上がり込ませちゃったけど」
強引に連れ込んだ自覚はあるらしい。
和秋は曖昧に笑って、とりあえず頷いた。お客さんであることは間違いない。
「ちいちゃん、お兄ちゃんに携帯で連絡取ってみた?」
「――ああああっ、そうじゃん! 携帯鳴らせばよかったんじゃん!」
そしたらこんなに待たなくても済んだのにねーと和秋に向かって言いながら、千種はポケットから携帯を引きずり出す。和秋は仕事中だったらどうしようだの忙しいときにかけたら迷惑かもしれないだの色々と考え込んでかけることが出来なかった電話も、さすが弟と言うべきか、千種はいとも簡単にボタンを押した。
電話はすぐに繋がったらしい。「にーちゃん?」と千種が間延びした声で問いかけるように言った。
「俺行くって言っといたじゃんか。なんでいないのー、すげー待った。今どこ?」
「――その制服、雄高と同じ学校よね。じゃあ雄高の後輩さん?」
千種の声に聞き耳を立てていると、母親の声が割って入る。和秋は慌てて首を振った。
「ああ、ええと、そういうことになるんかもしれへんけど、学校関係の知り合いやないです。俺のバイト先――」
「あら、そうなの。由成君のことは知ってる?」
予め用意しておいた言い訳を答える前に、彼女はあっさりと話題を転換させた。テンポが掴めない。
「……部活が一緒で」
「そう」
雄高の母は何故か嬉しそうに微笑みを返した。良く考えれば彼女が楠田由成のことを知っていても不思議はないかと、和秋は妙に納得してしまった。家族ぐるみの付き合いというやつだろう。
「うそっ、恭ちゃんとこいるの!? 俺も行く、どうせ飲んでんだろ。仲間に入れてよ」
殆ど叫ぶような声で千種が反応した。
その声に、和秋は一瞬凍り付く。そしてまたか、という諦めにも似た淡い想いが胸に沸き上がって来た。
恭ちゃん、というのはつまり。楠田由成の兄のことだろうと、あっさり予想がつく。
――別に少しも構わない、構わないが。
自分が長々と帰りを待っている間に、友人宅で飲み明かしているというのは如何なものか。今日が何の日か、あの男は判っているのだろうか。
「ってことで、母さん、俺恭ちゃんとこ行って来るから!」
通話を切った千種は、慌しく玄関に向かい振り向き様に一応、と言ったように母親に告げる。
「あらあら。やっぱり恭ちゃんのところだったの。――レポートは良いの?」
「良くないっ、良くないけど! だって俺も恭ちゃんと遊びたいー!」
子供のような理屈を捏ねると、そのまま千種はリビングから姿を消した。急いでいる割には扉が閉まる直前に、和君またねと手を振ることを忘れなかった。割りとまめな人間なのかもしれない。
「――ごめんなさいね慌しくて。誰に似たのかしら。育て方を間違ったわ……」
まるであれは嵐の去り方だ、なんて思っていると、静かな声で母親は笑った。
「きっと上二人が甘やかしたせいね。私は特に手をかけた覚えはないんだけど」
この人を何と呼ぶべきか、散々迷った挙句、和秋は取り敢えず「おばさん、」と呼びかけてみた。友人の母親のことは皆「おばさん」と呼んでいるのだが、どうしてもこの母親にその呼び名は相応しくないように思えた。
「ふふ。椛さんの真似してみようかしら。――おばさんじゃなくてね、陽子さんって呼んで頂戴」
軽やかな声で笑いながら、おばさん――陽子は、おっとり微笑んだ。言った後、「ちょっと厚かましかったかしら、」などと口を押さえる。和秋は首を振った。
「陽子――さんは、会いに行かへんでもええんですか、雄高さんに」
まさか母親は息子の誕生日を忘れはしないだろう。千種はすっかり忘れていたようだが、陽子は雄高の誕生日が理由で寄ったのだろうと和秋は尋ねた。しかし陽子はあっさりと首を振る。
「渡し物があったのよ。別に本人がいなくても置いていけば良いだけだから、――ああ、千種に預ければよかったわね」
「渡し物?」
「そう、今朝渡し忘れちゃって。親子でもこういうところはきちんとしないとね」
呟くように言いながら陽子は鞄から茶封筒を取り出した。
「今朝まであの子、うちに帰ってたのよ。父親の仕事を手伝ってくれててね。手伝いっていっても、事務処理とか経理とかの簡単な仕事だけをやってもらってるだけなんだけど、昨日から忙しくて。深夜に急に呼び出して、そのまま朝まで働いてもらっちゃったから」
バイト代、と陽子は朗らかに笑った。朗らかに笑って言える内容だろうか。言っていることは結構鬼畜である。つまり雄高は今日、不休で不眠ということだ。
「結構酷使しちゃったから、今日は大人しく家にいるもんだと思ってたんだけど。相変わらずだったわ」
疲れているくせに、その疲労を微塵も見せず友人宅へと向かったということだろう。
きっと自分と会っていても、疲れているところなんて見せてはくれないのだ。
あの人らしい――そんなふうに思えてくる自分が、馬鹿らしかった。
「――雄高さん、良く実家の手伝いされてはるんですか?」
「そうね、結構頻繁に。お父さんの仕事が立て込むと来てもらうわね。最近あの子も忙しいみたいだから、前ほど頻繁じゃなくなったけど」
陽子が雄高のことをあの子、と呼ぶのが不思議な気分だった。そうかあの子か。雄高でも母親の手にかかればあの子扱いなのかと、当然のことが妙におかしくなってくる。
それにしても穏やかに微笑む目の前の女性は年齢不詳だ。下手をすると和秋の母親よりも若く見える。和秋を若くして生んだ母親は、今年で三十六だ。まさか雄高ほどの年齢の子を持つ陽子が三十六以下ということはありえない。
「ええと――」
「あ、矢野です。矢野和秋です」
「和秋君? 良い名前ね」
そうだろうか。和秋にしてみれば夏生まれなのに名前に「秋」という漢字が入っていることが納得いかない。名付けた母によれば、亡くなった実父の名に「秋」という漢字が入っていたことが理由らしいが。
「ご実家は関西?」
「大阪です。この間こっちに転校してきて――」
「あら、お父様のお仕事の関係?」
「や、俺一人です」
何だか面接を受けている気分になりながらも、和秋は素直に答える。別に隠すことではないし、陽子の問いかけには下世話な興味は含まれていないように思う。
「一人暮らし? 大変ね――」
陽子はしみじみと呟くと頬に手を宛てた。女性らしい仕草が似合う人だ。自分の母親に爪の垢を煎じて呑ませてやりたい。
「和秋君に雄高は迷惑かけていないかしら。あの子節操無しだから」
「――……や。」
節操無しとはどういう意味だろうと和秋は一瞬言葉に詰まる。雄高の節操があまり無いことは身を持って知っていても、まさかええそうですねと頷くわけにもいかない。
「節操無しに人を構うのが好きだから。鬱陶しくなったらちゃんと言ってあげてね、本人気付いてないから」
ひどい言われ様だ。
節操無しの意味は理解出来るものの、さすがに鬱陶しいとまでは思わない。
「……迷惑かけてるん、俺の方やし、鬱陶しくはないです」
余りフォローにもなっていないような気はしたが、和秋は取り敢えずやっとの思いでそれだけを言った。そもそも雄高の母親相手に世間話を出来るような度胸は持ち合わせていない。
陽子が尋ねてくることや話すことに相槌を返すのがやっとである。
「和秋君、ここで雄高を待っておく? おばさんはそろそろ出なきゃいけないんだけど」
「あー……」
一人この部屋に残るのも何だか妙で、どうしようと考え込んでいる間にも、陽子はさっき鞄から取り出した茶封筒を和秋の手に握らせた。
「雄高が帰ってきたら渡してくれるかしら。きっともうすぐ帰って来ると思うから」
優しく穏やかに、しかし有無を言わせない陽子に圧されて、和秋は頷いてしまっていた。
「これからお父さんとデートなの。年に三回の」
陽子は上機嫌に言うと、腰を上げて玄関に向かった。
「年に三回?」
「そう。息子の誕生日はお父さんとデート。仕事がちゃんと片付いて良かったわ」
まさか旦那とデートをする予定の今日、仕事を片付けておくために雄高は狩り出されたんじゃないだろうか。恐ろしいその予想は口を出すことが出来ず、和秋は大人しく陽子の後を着いて玄関まで見送った。
陽子が玄関の扉を開いたその瞬間、黒い影が扉の向こうに見える。
きゃ、と短い少女のような悲鳴を上げて、陽子が影を見上げた。
「――びっくりした。良いタイミングだけど、母さんもう帰るとこよ」
逆光のせいで黒く見えた影も同じく、反対側から扉を開けようとしていた瞬間らしい。その割には驚いた様子は微塵もなく、母親に向かって静かに口を開いた。
「父さんが下で待ってる。駐車場で鉢合わせた」
「あら。もう来たの? せっかちね――」
声をどこか弾ませて、陽子は玄関を潜った。
「和秋君、今度はうちにいらっしゃい。独り暮らしだと食事が偏るでしょ、美味しいご飯食べさせてあげるから」
陽子は和秋に向かってそう言い残すと、パタパタと軽やかな足音を響かせて去って行った。千種と言い陽子と言い、見ている人々だけで予想すれば、きっとほのぼのした家庭なのだろうと思う。
「来てたなら電話しろ」
「――あ、ちゃうわ、この人ほのぼのやなかったわ」
何の話だと眉を寄せて、陽子と入れ替わりに部屋に上がった雄高は、どう見ても一人ほのぼのではない雰囲気を醸し出しつつ、微かにアルコールの匂いを漂わせていた。
「――うわ、酒臭」
「そんなに呑んでない。晩酌程度だ。――メシは?」
「まだ。――あんた、帰って来てよかったんか?」
呑んでたんやろ、そう問い掛けながら後を追ってリビングへと戻ると、雄高はどこか不機嫌そうな声で「千種が、」と呟いた。
「――おまえの携帯番号を聞くのを忘れたと言っていた」
「千種くん? なんで?」
「一度会ったら友達、二回会ったら親友」
何かの歌のようだ。要は人懐っこいのだろう。
「進路のことで迷ってるみたいだったから、話を聞いてやりたいと言っていた。――気が向いたら連絡しとけ。どうせ役には立たない」
そう言って雄高は小さなメモ用紙を和秋に寄越した。書かれているのは千種の携帯ナンバーとメールアドレスだろう。ほんの少ししか話をしていないのに、和秋の進路を気にしてくれているらしい。印象とは違い、世話好きな面があるのかもしれない。
「あんたが帰って来たのと千種くんと何の関係があるん」
「――部屋の前で千種と一緒に小一時間ほど俺を待つ桜ケ丘の制服を着た高校生に、今のところ心当たりはおまえしかない」
「――ああ、」
つまり、自分が雄高を待っていることを千種が教えてくれたのだろう。
「……恭一さんとこ行ってたんやろ。帰って来てよかったん」
「代わりに千種を置いて来た」
千種が代わりになるのかどうかは謎だが、雄高の中ではそれで問題ないらしい。
「どれくらい待った?」
「え、」
唐突に投げ掛けられた問い掛けに、和秋は何のことかと目を丸める。
「学校帰りにそのまま寄ったんだろ。――だいぶ待ったんじゃないのか」
雄高の声に含まれているのは、僅かな苦々しさだ。
「――別に、そんなに待ってへん」
「千種が一時間待ったと言っていた。おまえ、それより前から待ってたんだろ」
「……別に……」
雄高の視線から逃げるように顔を伏せて、和秋は呟いた。
正直に言えば、雄高を待ったのは二時間と少し。後半の一時間は、弟やら母君やらの出現で慌しかったせいか、あまり待ったという感じがしないのも本当だった。
そもそも待っていたのは自分の勝手で、雄高の言うように連絡さえしなかったのも自分だ。
待っていた時間を正直に告げたところで、何になるだろう。
「――何か急用か?」
軽い溜息混じりに言われた言葉に、どこか面倒臭そうな響きが込められているような気がして、カチンと来る。
「――用がないと来たらあかんのか」
「そうじゃない。無駄に待つくらいなら事前に連絡をしろと言ってる。何とか調整するから」
そうは言うものの、雄高だって和秋のアパートを訪れるときは殆どアポなしだ。自分と違い、雄高はほぼ定期的な和秋のスケジュールを把握しているせいもある。
「今日は特にな。――名目上俺のために集まって来てるヤツらだから、抜けるのが申し訳ないんだよ。一応今日は誕生日なんだ、俺の」
――そんなこと知ってる。
そう叫んで噛み付きたい衝動を抑えて、和秋は掌を握り締めた。
和秋が雄高の誕生日を知らないとでも思っているのだろうか。――それは、あんまりだ。
「あいつらは集まって呑む理由が欲しいだけだから、俺がいてもいなくても大差ねえんだけどな」
呟くように言って、雄高はソファに腰を下ろす。
雄高だって連絡なしに和秋の誕生日を祝ったくせに。
自分の誕生日は友達と飲み明かそうとするなんて、何だか期待されていないみたいじゃないか。
祝う気があった自分が馬鹿みたいだ。
――これでいて一応恋人のつもりなのだが。
和秋はその顔に向かって、ポケットに仕舞っていた小さな箱を投げ付けた。
「そんなん知っとるわっ、ぼけ! やから待っててんっ」
当たればそれなりに痛いであろう小箱は、雄高の額に命中することもなく、その目前で掌にキャッチされる。本気で当てようとしただけに、あっさり受け取られてしまったことに腹が立った。
「――死ねっ」
子供染みた捨て台詞を残して、雄高に背を向けたその瞬間、驚いたような、ひどく気の抜けた雄高の声が聞こえた。
「――…開けて良いか?」
今まさに玄関へと向かおうとしていた和秋の足は、ピタリと動きを止める。帰りたい。帰りたいのに足が動かない。――だって。
見たかったのだ。
ほんの少しでも喜ぶこのひとの顔が。
「……好きにしたら?」
短い言葉を返すと、包装を解いて箱が開かれる音がする。
ケーキというイメージでもなかったから、選ぶのには苦労した。社会人相手のプレゼントなんて今まで考えたこともない。同年代であればそれなりに思い浮かびはするものの、社会人と言えばネクタイかタイピンくらいしか思いつかない。しかし残念ながら雄高はネクタイなんて使わない。
だったら、これしかない。
あまりもありきたりなプレゼントで、どうかと思う。――風が吹いても消えないライターを。
あげるからには少しでも良い物をあげたくて、できれば長く使ってほしくて、なけなしの小遣いを叩いた。銀色のそれが、雄高の趣味かどうかなんて知らない。
「……高かったか、」
「――高いもんなんか、あんたに買うか。金が勿体無い」
雄高が小さく笑った気配がした。
「……ありがとう。大事にする」
幾度かライターを鳴らして、手元で遊んでいる音がした。和秋はそっと振り返る。
伺い見た雄高は困惑したように、それでもほのかに口元を緩めて微笑っていた。
「……段々、誰が自分の誕生日を覚えているかなんてこと、気にならなくなってくるんだ。だから学生時代のダチ連中と飲み明かすのが恒例行事になっていたんだが――」
噛み締めるように雄高がそっと落とした呟きに、和秋は唇を噛み締める。――卑怯だ。
「――今年はおまえがいたんだな。悪かった」
そんなことを言いながら手を伸ばしてくるこの人は、卑怯だ。
横のものを縦にも動かさないこの人は、座っているだけで自分を動かしてしまう。
立ち上がりもしないで、自分を抱き締めようとする。
「――待ったか、」
静かに尋ねて来る声に言いようのない感情が溢れてきて、和秋は差し伸べられた腕に飛び込んだ。
背中を抱きしめてくる、優しいこの腕を待っていた。
「待った。めちゃくちゃ待った。なんでおらへんかってん。俺、待ってたのに」
「――……ああ、悪かった」
多分、距離があるのだと思う。
自分にとって雄高の腕はとても遠くて、手に入れようとする度にいちいち躊躇ったり、戸惑ったりしてしまう。
雄高には多分、それがない。雄高にとって自分は腕を伸ばせば届く距離にいるのだろう。
それが少し悔しい。
掌で躍っている。しかも自ら望んでいる節があるのだから救われない。
「外で待たなくて良いからな」
和秋の背中を宥めるように撫でながら、雄高が囁いた。
「今度、合鍵を作っておく。……だからもう外で待つな」
心配になる――そう囁いた雄高の声があんまり優しくて暖かくて、危うく零れそうになったものを和秋は目をきつく閉じて堪えた。
まだ、少しだけ擦れ違っている。
外で待たされることなんて、何の苦痛でもない。帰って来てくれれば良い。必ず帰って来てくれればそれで良い。
ただ今日みたいに、自分を忘れられていることが、寂しかった。
「待ったなら、待ったって言えよ。不満なことは全部口に出して言え。じゃないと――判ってやれない」
器用に見えてその実不器用なこの人も、探している。
多分――自分との距離の取り方を、探している。
そう思うと、大きく開いているはずの距離が少し近くなった気がした。
「――千種くん、あんたに似てるな。顔」
雄高は顔を顰めて、さっさと寝ろと冷たく言った。
「眠たないねん。……陽子さんは似てへんかったけど。父親似なん?」
「父親ともあまり似てない。……陽子さん?」
「そう呼べって言うてはったで。おばさん呼ばれるんが厭やって」
シーツの心地好さにごろごろと寝返りを打ちながら答えると、雄高は「厚かましい。」と忌々しそうに呟きを落とした。
「千種は母親似だろうな。育て方を間違った」
「それ、陽子さんも言うてはった」
全く同じ台詞を繰り返す雄高に思わず噴き出して、ベッドに腰掛けたまま書類らしきものに目を通している雄高を見上げる。その横顔は、やはり千種と似ている。
「甘やかしてたんやって? 雅也さんと一緒に」
「――そんなことまで聞いたのか」
盛大に顔を顰めた雄高は、これ以上ないくらいに厭そうな顔をしている。
面白くなって、和秋は笑いながら雄高を揶揄った。
「兄馬鹿やな。かわええやん、千種くん。無邪気で」
「大学生にもなってあのノーテンキさはどうなんだか。……良いから寝ろ」
「眩しいと寝られへん。雅也さんはあんたに似てんの? 顔」
「――クローン」
溜息を落とした雄高は、部屋の照明を落とすとベッドに潜り込む。和秋に付き合って寝ることにしたらしい。
「げ、うそ。超見たい」
「止めとけ。あまり面白いもんでもない。性格は違う」
それこそ面白そうやねんけど――もごもごと口の中で呟いた和秋の独り言は、雄高の欠伸に掻き消される。
「……そういやあんた寝てないんやっけ。陽子さんからバイト代預かってんで」
「ああ……じゃあそれで明日メシでも食いに行くか」
寝る体勢に入った雄高は、そういえば、と思い出したように呟いた。
「――めでたく親公認」
「――いやそれはどうやろな…」
小声でツッコミを返しつつ、和秋は重要な一言を言っていないことを思い出して、閉じかけた眼を慌てて開ける。
既に目を閉じて眠りに就こうとしている雄高の耳元で、こっそりと囁いた。
「――おめでと」
照れ臭い台詞を短く縮めて囁くと、片目だけを薄らと開いた雄高が擽ったそうに小さく笑った。