――キタザワタモツ、好きなのか?
その声が鼓膜を震わせたのは、二限目の授業がチャイムによって終わりを告げ、いつものようにバッグから一冊の本を引き抜いたそのときだった。
最初は、誰に向かって放たれた言葉だったのか判らなかった。そのせいで言葉の意味を理解するのが遅れて、声が真っ直ぐに自分に伸びていたことにぼんやり気付く。
それほど自然に投げかけられた問いに祐正は戸惑い、幼く頷くことしかできなかった。咄嗟に答えを選べなかったのは、意表を突かれた、というよりは、誰も知らなかったはずの、心の柔らかい部分に、そろりと暖かくも優しい水を注がれたような気分になったからだ。
「そういやおまえ、苗字同じだよな。写真見るようになったの、それがきっかけとか?」
そう言って楽しげに笑った彼は、祐正が手にしていた写真集を指差した。彼はたぶん、この春はじめて同じクラスメイトになった男子生徒だったと思う。名前
も顔もおぼろげだということは、彼からは初めて話し掛けられたのだろう。一年のころから学校をサボりがちで、それとなく悪い噂が立つようになった自分に、
こうも親しく話し掛けてくる人間はそうそういない。一度だって話し掛けらていれば、もの珍しさから顔と名前を覚えていた。
「……っていうか」
人々の鮮やかな表情ばかりを焼き付けた写真を撮ったのは、紛うことなき己の血縁者だと告げることに、今はどれほどの意味があるだろう。思い直して、祐正は誤魔化すように頷いた。
「……あー……うん。そんなもんだけど。何?」
「いや、何っていうか。休み時間になったらいっつもそういうのばっか見てるから。よっぽど写真好きなのかと思って」
「好きだよ。だから?」
取り立ててすることがないとはいえ、休み時間毎に写真集や写真専門誌を開いては、食い入るように見つめているのだ。写真が好きなのか、なんて、今更判りきったことではないかと、皮肉な思いからではなく、祐正は純粋に首を傾げた。
「あー……だからさ、」
祐正の真っ直ぐな視線を受けた彼は、答えあぐねるように前髪をくしゃりと掻き混ぜ、ほんの少しの沈黙の後、覚悟を決めたように一気に捲くし立てた。
「北沢常保もいいと思うんだけど、俺は葛木蓮次も好きなんだ」
「ああ、葛木もいいなあ。すげえきれいなトーンで」
知った名前に顔を上げた祐正は、思わず顔をぱっと輝かせた。
「俺あの人の造形もわりと好きなんだけど、なんつうか極端で。古臭い空気のもあれば近代っぽい無機質な感じのもあるし。あんな極端に撮れる写真家なかなかいねーよな。ただ、あの写真見てると頭ん中じゃしっかりモノ見て捉えてんだろうなって思……」
視線を上げた先、まだ名を覚えきらない生徒が驚いたように目を瞠り、まじまじと自分を凝視しているのに気付いて、祐正は慌てて口を噤んだ。
しまった、と思う。
しまった。また喋りすぎた。そのせいで思いっきり引かれてしまった。
だからあんなに言われたじゃないか、梶原に。話題にしたこと自体に興味がない人間に、延々と熱弁をふるうのは迷惑というよりも有害でしかない。既に祐正
のそれはマニアの域に充分踏み込んでおり、また少年らしい一途な情熱――つまりは盲目的なのめり込みのせいで、普通に話しているつもりでも、自然と話題は
マニアックなところへ止め処なく向かってしまう。故に、趣味の合わない相手を楽しませる会話などまず可能なわけがない。だから写真の話をするなら相手を選
べ、人様には迷惑をかけるなと、あれほど強く年輩のカメラマンに言われていたにも関わらず。
ふいに、思いがけない話題を振られたせいで、自身を制止することを忘れていた。
「ごめ……」
「――喋った」
相手を無視する形で話を続けたことを詫びかけた祐正に、彼はからりと笑い、どこか安堵を滲ませる声でそう言いのけた。
「……は?」
「いや、ちゃんと喋ってくれたって思って。あー、よかったよ。シカトされたらどうしようって」
「しねーよ、シカトなんか。つかなんでそんなことしなきゃなんないの俺が」
話し掛けられれば答えるくらいの常識は持っているし、そもそも自分がそれほど愛想の悪い人間だと思っていない。心外だと眉を寄せると、彼は笑ったままで他意なく告げる。
「だってお前、自分じゃ気付いてないかもしれないけど。かなり浮いてんだもん。何にも興味なさそうな顔して、そのわりにこういう堅苦しい訳わかんない本ばっかり読んでるから――」
「訳わかんなくて悪かったな」
瞬時にむっと唇を歪めた祐正に構わず、彼は続けた。
「俺はわかるよ」
それから祐正の見入っていた写真集を指差し、背を屈めて開きっぱなしだったページを覗き込む。
「俺もこの写真集好きなんだ。お前が先週持って来てたヤツも持ってるよ。DAT企画のフォトグラフ集。好きな写真家が参加してたから」
「……」
「お前はあの中の、どの写真が一番好きだった?」
呆けた顔をして、ぽかんとその顔を見上げることしかできなかった祐正に、俺にはわかるよと、彼はもう一度、囁いた。
「――柳沢槙の……」
真冬の寒々しい山間の岩壁をふんわりとした陽光で包んだ、厳しさなど微塵も感じさせない特徴的な一枚の風景写真を思い出しながらポツリと告げると、彼はああやっぱり、と朗らかに笑った。
「お前なら、そういうの好きそうだと思ってたんだ」
まるで幼いこどもが、大事な友人と楽しい遊戯に興じるときのような瞳をして。
ひどく大切なことを伝えるように、囁いた。
「――お前には、わからない?」
彼が話し掛けてきた目的は、今や明らかだった。
北沢常保という大層読み難い名前を、簡単に「たもつ」と読んだことや、教室の片隅、自分の席から一歩も動かず、ただ無心に写真を見入っている自分にわざわざ話し掛けてきたことから、気付いていてもよかったのに。
早くに彼の意図を悟れなかった自分を、祐正は恥じた。――自分は、いつの間にこんなふうに、人とのコミュニケーションを取ることが不得手になっていたの
だろう。学校という空間で自分と外部を切り離し、カメラを握り締めることだけをどれほど夢想していたのかということに、改めて気付かされた気がした。
「――お前、宮坂だっけ?」
申し訳なさそうに、それでいて自信なく確かめるように名を呼んだ祐正に、彼はゆっくりと頷いた。曖昧な記憶は、どうやら違っていなかったらしい。やっと祐正からの興味を向けられたことを知って、彼は小さく微笑んだ。
「お前とずっと、話してみたかったんだ」
ずっと見ていたと、はにかむように、宮坂正人は告げた。
腕時計を覗くと、時計の針は十二時五十分を指している。待ち合わせに決めた時間の十分前だ。普段はルーズな自分でも、仕事帰りにまっすぐ待ち合わせ場所に向かえば、遅れようもなかったらしい。
午前中はそれぞれ別行動を取っていた男と落ち合う場所にと指定されたのは、そう大きくはないアートギャラリーの前だ。ビルの一階に設けられたそれは、今
は若手の写真家数名の共同写真展を行っている。若手といっても全員が学生らしいので、サークル活動を少し発展させた程度かと踏んでいたが、窓に張られたポ
スターを覗いて見ると、かなり大きな会社や新聞社がスポンサーについていた。陳列した学生写真家の中には、祐正が見知っている名もある。
(武井……武井。どっかで聞いたことあるな……)
学生ながら既にプロとして活躍しているカメラマンもいるのだろう。詳しい説明は、後でやってくる予定の男に任せることにして、祐正は記憶の巡回を放棄した。
行き交う人々を避けるように佇んだ祐正は、今だ姿を見せない待ち人を「ざまあみろ」と罵りながら、手持ち無沙汰に空を見上げた。待ち人は、祐正が遅れて
くるものだと決め付けている節がある。最近では、待ち合わせ時間に遅れても、文句を口にもせず、わざとらしい溜め息を聞かせてくるだけだ。そんな失礼な男
など、早めに到着した自分を見て泡を食っていればいいのだ。珍しく。
ぼんやり見上げた空は、嘘のように青かった。これを感度のいいポジフィルムで焼き付ければ、もっと嘘みたいに劇的な空が映し出されることだろう。
あれも、こんなふうに、嘘のように青い空が広がる日だった。
――俺には、おまえのことが、わかるよ。
あの言葉が、どんなに自分にとっての救いだったのか、今になって判る。
あのころ、学生だった自分は、写真以外のものを放り投げて生きていた。高校に通うことにも大した意義を見出せず、今すぐカメラを持って走り出したい気持ちを頭ごなしに押し付けられながら、日々を過ごしていた。
だからきっと、教室での自分は、本来の自分とは大きく掛け離れた姿をしていたのだろう。いつも、何かに急いているような気がしていた。急かなければなら
ない気さえした。今ここにいる自分は、一体何をしているのだろうと、青空がきれいに澄み渡る日は強烈に思う。教室でぼんやりと授業を聞くことも、学校行事
に励むことも、意味があるようには思えない。もっと大切で、貴重なものが、自分の人生には関わっているはずだと、信じていた。
それでも大人しく学校に通っていたのは、厳しい父親の監視の目と、信頼する大人である梶原雄高という写真家の説得があったからだ。梶原雄高は、急いただけでいい写真なんか撮れるか馬鹿と、至って辛辣に、ついでに遠慮なく祐正の若さを罵り、真面目に諭した。
その言葉に納得したからこそ、一時期は退学までもを考えていた祐正は、とりあえず平日は学校に顔を出していた。けれど衝動の赴くまま、譲られた安っぽいカメラを片手に授業をサボることは、止められなかった。
とにかくカメラを触っていたかった。たくさんのものを収めたかった。今この瞬間のすべてを、決して色褪せないものに、焼き付けたかった。撮りたい、と祈った瞬間、自分のてのひらに、ノートと教科書が握られていたことが、許せなかった。
――お前ね、もっと力抜いていいんじゃない?
そんな馴染めない日々に、潤滑剤のようにするりと入り込み、学校生活と祐正を上手に結びつけてくれたのが宮坂正人だった。正人はとりあえず自身が所属し
ていた写真部に祐正を引っ張り込み、学校の中でカメラを握る術を教えた。おかげで二年から三年までの二年間、写真部として貴重な写真を撮り続けることが出
来たと、今は思う。体育祭だの文化祭だの、果てには運動部のインターハイの様子など、高校時代でなければなかなか撮れるものではない。
――撮りたいって、今自分が何してるんだろうって思う気持ちも判るけど。
――正人も、そんなふうに思ったりすんの?
――するよ。俺だって色んなものを撮りたい。でも我慢してる。撮りたいって思った気持ちが、後になって役に立つかもしれないしな。
イメージするんだ。俺ならきっと、こんなふうに映し出してみせるって。この空なら、きっと、こういうふうにって。
――ほら、それだけで、楽しくなる気がしないか。
見上げた空には一点の曇りもないけれど、今この手に、カメラはない。今日の仕事は打ち合わせのみで、機材の類は一切持っていなかったからだ。だから祐正は見上げた空に、懸命に目を凝らす。あの日のように。
――嘘みたいに青い空だろ、祐正。
焼き付けるために。
空を長く見つめていれば、眩しさに眼球が痛んでくるような気がして、祐正は影の落ちるコンクリートに視線を落とした。自分の伸びた影の先を見つめている
と、ふいにその影が濃くなる。誰かの影が重なり、そのままその人物がその場で足を止めたことに気が付いて、祐正は漸く視線を上げた。
「……ああ驚いた」
どうしてこの身体が、カメラのように機能しないのだろう。網膜に焼き付けた映像が、身体のどこかから排出されて、色褪せないものに残ればいいのにと、本気で悔やむことがある。
「見間違いかと思いました」
「お前ね人より遅くきといて第一声がそれなわけ?」
「だってまだ五分前ですよ。あんたがそんなに早く来てるって思うわけがないでしょう。――五分前行動が今週の目標でしたっけ」
軽口を叩きながら首を傾げるこの男の表情を、それを形作る唇や目元、少し困ったように下がった眉尻を、今この瞬間、暖かな日差しを受けながら微笑むすべてを、永遠に何かに刻み付けることができればいいのに。
「つうか打ち合わせが早めに終わっただけ。もうちょっとゆっくり歩いてくりゃよかったかな」
待っている時間がもったいなかったと半ば本気で悔やんでみせても、意にも介さない様子で亮は笑い、祐正を促した。
「……俺ももう少し早く歩いてくればよかったですね。外で待ってるのは暑かったでしょう。先に中に入っていてもよかったのに」
片山亮という男のパーツのすべては、恐ろしく綺麗な形をしていると思う。そのことに気付かされるのは、先ほどのように、ふいに彼を視界に入れた瞬間だ。
特別男らしいわけではない、どちらかと言えば中性的な感のする面持ちに何も考えずに視線を向けた際、目を奪われるという自覚もないまま凝視めてしまう。
ただそこにいるだけで人目を引くという点でも彼は人より数段勝っているし、しかも一度引き付けた視線を中々離させない。自覚のあるなしも関係なく、彼がモデルという職業を選んだのはあながち間違いではないだろう。
「……どうかしました?」
見つめる視線を訝しがるように、亮は小さく首を傾げた。
「いや、別に」
ギャラリー内に足を踏み入れると、ひんやりとした冷房が室内を包み込んでくる。少し効き過ぎなくらいだ。真夏ならともかく今を何月だと思っているんだと毒づいていると、入館した亮と祐正の姿を見つけたのか、一人の男が手を挙げ、こちらへ向かってやってきた。
「片山! きてくれたのか」
「ああ。約束通り北沢さんも連れてきたよ。――北沢さん、武井です。今回の展示会の主催者の一人だそうですよ」
慕わしげに挨拶を交わしたあと、亮は直ぐに男を紹介した。ついさっき、聞き覚えがあるように感じた名前だ。目の前の、やや小柄な男を見つめながら、「武井」と口に出して呟いてみる。
「初めまして。お忙しいところ足を運んで頂いてすみません。片山があなたと親しいと聞いたので、無理を承知で頼み込んでみました。お会いできて嬉しいです」
「いや別にそこまで忙しいわけじゃねーのでお気になさらず。……どうも、北沢です。よろしく」
人懐っこい笑みを浮かべながら、武井は祐正に向かって手を差し伸べてきた。それに応えながらも、頭の中は凄まじい勢いで回転している。今まで見てきた写真とカメラマンの名前を照らし合わせているのだ。
――ああ、そうか。
特別奨励。ふいに浮かんだ言葉と、脳裏に甦った写真の映像に、祐正は納得した。
「惜しかったな」
「え?」
「紫竜賞。あれが初応募だったんだろ? ここ何年かで一番元気のいい写真だったと思うけど、俺は」
新人、若手写真家の登竜門とされる賞で、切り口の斬新さに特別奨励賞を与えられた学生写真家がいた。それが確か、武井という名前だった気がする。紫竜賞
の最優秀作受賞とまではいかずとも、奨励賞という枠を特別に設けさせ、二十二歳の若さで賞を贈られたのは快挙と言えよう。
「うわあ、よく覚えていらっしゃいましたね。北沢さんに覚えててもらえてるなんて、嬉しいなあ……!」
はにかむように笑った武井は、それでも少しの謙遜もなく、ただ溢れかえるような自信と誇りを持った声で真っ直ぐに礼を言った。その表情に眩しささえ感じて、祐正は笑みを深くする。――彼と同じ年のころ、決して自分には持てなかった、輝きだった。
「そういえば片山、お前また靖史から探されてたぞ。今度の文化祭用の映画の件で」
「俺が? どうして?」
「出てもらいたいんじゃないの?」
「どうして?」
「いやどうしてって。知らないよ俺は」
(――あ)
ふいに、少し離れた場所に置かれていた写真に魅せられて、祐正はふらりとその場を離れた。どうせ二人は、自分にはわからない世間話に突入している。まあ構わないだろうと勝手に結論付け、祐正は引き寄せられるようにギャラリーの奥へと進んだ。
武井は亮の数少ない大学での友人で、二年ほど前の文化祭で知り合った仲なのだと聞かされていた。確かに武井は、学部も違う上にサークルにも所属していな
い亮が知り合うには、困難な人間だろう。何の共通項もなかった亮と武井を引き合せたのは、大学の映画研究会だったらしい。
入学早々亮に目をつけていた映画研究会の部員が、ある映画祭の学生部門に応募する映画を製作するため、出演してもらえないかと誘いをかけていたという。
そのころ亮も大概のことは無気力に受け入れていたようで、「どうなっても知らないよ」という言葉を前提にさせたまま撮影に望んだらしいが、カメラワークと
脚本がよかったのか、なんとその作品はグランプリを受賞してしまったのだ。
結果大学全体がお祭り騒ぎになった挙句、地元の映画館で上映することになり、その宣伝ポスターを撮影したのが武井だったという。
――っていうか俺はただ単に椅子に座ってただけなんですけどね、延々と。
映画の内容を尋ねたとき、亮はそう言って、少し情けなさそうに笑っていた。亮に与えられた役割は台詞もなく、ただそこにいればいい、という役だったらし
い。映画自体、役者に与えられた台詞がごく少なく、殆どが音と風景だけで進行していたというのだから、別段亮が特別というわけでもないようだ。ストーリー
の概説を聞いても、「よくわからない」と答えるばかりで、どうにも要領を得ない。それがウケたというのだから、審査員や作製側の感覚は、祐正にはよく判ら
なかった。とはいえ元々畑が違うので、敢えて深く考えないことにしている。
武井と亮の巡りあわせについてつらつらと考えていた祐正も、展示された数々の写真を眺めているうちに、散漫していた意識が一点に集まってくる。この瞬間、たぶん自分は思考を放棄して、目だけで生きている生き物になっているのだろう。
ただ目の前にある映像を食い尽くすように見つめて、うつくしい、と感じることすら、網膜だけでやってのける。美しいものを美しいと思うことに、自分の感
性など必要ない。あるものだけを真っ直ぐに見つめ、咀嚼したあと、少し遅れて、いいな、と思う。彼らの若さをそのまま写し込んだような写真には瑞々しさが
溢れているし、何よりも情熱が感じられる。
――そういうのは、嫌いじゃない。
数々の写真の中には、亮の姿もあった。撮影者は武井だろう。さすがにプロのモデルとして活躍しているだけあって、他に比べれば群を抜いて異彩を放っている。
総勢八名の学生写真家の作品で彩られた会場内を一巡し、亮と別れた出口付近に帰ってくると、そこでは数種類の写真をポストカードにして販売していた。五
枚一組で販売されているそれには組み合わせも数パターンあって、少しだけ迷った挙句、一番気に入った写真が入っているそれを買うことにした。裏返してみる
と、そこには小さくF.Takeiと載ってある。――武井文也。あの写真家の感性が、どうやら自分は好きらしい。
そういうわけでかなりうきうきとした気分で二人の元へ戻った祐正を、亮は呆れ半分の眼差しで待っていた。
「勝手にうろちょろしないでください。子供ですかあんたは」
「うるさいよ。お前らがなんか話し込んでたから邪魔しないようにしてやったんだろ」
早速小言である。いい加減に受け流す祐正の手に握られたポストカードを見て、武井が目を剥く。
「き、き、北沢さん、そ、それ……」
「あ、うん。買わせてもらった」
「そ、そんなわざわざ買ってもらわなくても……」
「なんで?」
不本意ながら五枚の中の一枚は亮のポートレートだが、売上金は某団体に寄付される旨が記載されていたし、利益が絡んでこないイベントだからこそ亮の事務
所――というよりも、宮坂社長も口を挟まなかったのだろう。「片山亮」というモデルの宣伝になると考えたのかもしれない。
何よりも自分が武井の写真を気に入ったのだから、購入には何の問題はないはずだ。
「だって失礼じゃないですかわざわざ来てもらったのにその上ポストカードまで買ってもらっちゃって……あああどうすんだよ片山!」
「……俺のせいなのか?」
矛先を向けられた亮が首を傾げるのは最もな話だった。
「欲しいから買っただけなんだけど。だめだった?」
「いいんじゃないですか?」
泡を食っている武井を余所に、亮が笑い混じりの声で答える。
「この人は社交辞令なんかでわざわざこういうのを買う人じゃないから。素直に喜んでおくべきだと思うよ、武井」
武井の動揺など知ったことではない、というよりは、実際はかなりのミーハーである祐正の性質を正しく見抜いた言葉だった。
「……サインでもしとく?」
勘弁してくれと、武井が肩を落とした。
「いやあのね、俺はほんとうに、おまえの写真いいと思うよ」
祐正は笑って、少しだけ声を落として呟く。
「ほんとうに、きれいだ。――もう俺には撮れない。俺だけじゃなくて、他のもっと、いろんなカメラマンだって――今のおまえにしか、撮れないものだと思う。だから、できればこういうものを撮っていってくれればいいと、思うよ」
あふれる若さ。あふれる情熱。
楽しい、嬉しい、美しい。武井の撮った写真は、そういった撮る側の感情が目いっぱいに詰め込まれた、美しい作品たちだ。武井はおそらく、ずいぶん素直な性質なのだろう。
「北沢さん……」
「――って、抽象的すぎて何いってるかわかんねーか。ごめんな、でも感性ってそんなもんだからなあ」
うまく、いえねーや。
そう誤魔化して、祐正はからからと笑った。
――なんだか痛ましげな目をして、彼が自分を見つめているのが、わかったからだ。
まだ歓談を続ける二人を取り残して、祐正はフロアの隅にある喫茶店でひとり時間を潰すことにした。あのあと、武井の元にひとりの男子学生がやってきて、突然亮を熱心に口説きはじめたからだ。
彼が、以前亮が参加したという学生映画を撮った監督だと、話を聞くうちにぼんやりと判った。随分亮にご執心らしいが、本人の心情的にも状況的にも、再びの亮の出演は難しいだろう。
二杯目のコーヒーを啜りながら、祐正は手元にあるポストカードをじっと見つめた。零れた己の笑みに、苦いものが混じるのが判る。
もう、二度と、こんな写真を撮ることはできない。
こんなにも純粋な写真を、自分は、二度と。
ふいに瞼を落とすと、脳裏にある映像が散る。あまりにも突然に、あまりにも鮮明に思い浮かんだそれに、祐正は思わず歯を食いしばった。
――どうして、今、思い出したりなんかするんだ。
一瞬にして、周囲の雑音が祐正から遠ざかっていく。
ざわつく人々の話し声も、かすかに、心地よく流れるクラシックも、このフロアのどこかにいる、亮の存在さえも――
ゆう。ゆうせい。
吐息だけで、あえぐように自分の名前を呼んだ、最後の彼の声を。
――切り落としてくれ、と言ったのは、あいつのほうだ。
もうこの腕がお前の影を写すことしかできないのなら、いっそ切り落としてくれと、彼は自分に懇願した。
恐らくそれに贖いの意味はなく、ただひたすらな、切実な、哀願でしかなかったのだろう。だから自分は、その願いを受け入れただけの話だ。
最後に彼と二人きりで向き合った、あのとき。祐正がその日訪れた屋敷の主人は、もう亡き人となり、そこには空ろなばかりの空間と、故人の、疲れ切った愛弟子だけが息づいていた。彼は突然訪れた自分に驚きも見せず、故人の家の中へ、祐正を招いた。
──全部、あの人に指示されてやったことだ。お前を輪姦したのも、写真を撮ったことも。それを一枚ずつ、お前に送りつけたのも。じわじわお前が絶望していくのを見たかったんだろう。
そして――自分の問いかけに残らず答えてみせた彼は、何もかもに疲れた顔をして、その場に跪いた。
──祐正。あれが俺だと、いつから知ってた?
──ずっと。ずっとだよ。あのときから。……お前が俺を抱いたときから。
祐正は、彼に暴行された、とは形容しなかった。その前に何人かの男が自分を辱めたのはわかっている。けれども一番最後に自分を抱いたのは、間違いなくこの男。その腕の中に、わずかなやさしさと、いたわりを感じたのは勘違いではないはずだ。
ひどい痛みと屈辱にまみれていながらも、そのことに少しだけ安堵したあのときの自分を、祐正は忘れない。
──許してくれ、とは言わない。
祐正の静かな声に正人は絶望し、顔を覆った。
――もう、俺の腕を、切り落としてくれたって、構わない。
復讐も何も、悪意があったわけではない。復讐なら、彼から写真に対する執着とプライドを根こそぎ奪うことで、幕を引いていたのだから。
手にした金属製の細長いあれは、今思えば何だったのだろう。無意識のまま、その部屋にあるうちの中で、もっとも硬質なものを手繰り寄せた。あとから考え
て、ゴルフクラブだったようなきがすると、祐正は他人事のように思い出していた。故人はゴルフを嗜んでいたはずだったから、その屋敷にそれがあったって、
何の不思議もないだろうかと。
引き寄せ握り締めたものの正体を確認するまでもなく、祐正は自分の頭上から彼の右腕をめがけて、それを振り落としていた。
――どうしてと、尋ねることは、愚かだった。
義務的に動かした腕も、避けることすらせずに腕を差し出してきた正人の感情の在り処も。
そのとき、骨の割れる音を、初めて聞いた。
低く呻く男の項垂れた首筋を見つめても、涙は出ない。自分でも不思議に思うくらい、冷たく見つめることができていたのだろう。
ただ強く握り締めたそれの、ひんやりとした感触は、一生忘れることはないだろうと思う。
やがて顔を上げた正人は、ゆっくりと、――微笑んだ。
痛みからか、額にびっしりと汗をかきながらも、とてつもない安堵を笑みに浮かべて、ただ真っ直ぐに、祐正を見上げていた。
──ゆう――せ……
微笑みの形のままの唇がわずかに動いて、それは、吐息のような言葉を落とす。
──愛して……
愛していた。
彼は確かにそういった。
祐正は、微笑んだ。胸の中には、いっぱいの悲しみが満ちていた。
――会いたかった。
ゆっくりと身を屈め、祐正は顔を寄せた。吐息が触れるほどに近付いた顔を、背けもせずに正人もまた見つめ返す。目の奥に、僅かな恐怖を潜めて。その目をまっすぐに見詰めながら、愛の言葉を囁くように、告げた。
今の、このお前に、ずっと、会いたかったよ、正人。
おまえになら。おまえとなら。
あのままなら。
愛してると、言えたのに。
──さようなら、正人。
そのとき、自分たちが過ごした永遠の時間が終わりを告げたことを、祐正はやっと思い知った。
「――…さん。祐正さん。祐正さん!?」
何度目かの呼び声のあと、肩を強く引き掴まれて、祐正はようやく重たい瞼を上げた。
「祐正さん? どうしたんですか、どこか体調でも……」
ゆっくりと目を開いた瞬間、目の前にあったのは、心配げに顔を覗き込んでしまう、彫刻のように整った、美しい顔だった。
浸っていた記憶とギャップのありすぎる光景に、ふいに、呼吸が止まりそうになる。
「う、わ!」
「いや、うわって。ほんとに大丈夫ですか」
心の準備なしにこの顔を間近で見るのは、心臓に悪い。
「わり。寝てた。びっくりしただけ」
「こんなところで?」
訝しげに亮は眉を顰める。何度も呼ばれていたことに、気づかなかったことを誤魔化すには、随分下手な嘘をついてしまった。ほんとだよ、と肩を竦め、祐正は立ち上がった。
あの光景の話をすることは――まだ、できなかった。
こんなに美しい人に、あんなに醜い終幕を聞かせるわけには、いかない。
支払いを済ませ、ギャラリーのエントランスに向かいながら、ところでメシどうします、と、祐正の心のうちも知らず、亮はこともなげに尋ねてきた。
「この間撮影で行ったカフェで、あんた好みのパスタを見つけたんですが。行ってみますか?」
「あー……そうだなあ、なんでもいいけど」
腹はそれほど減ってはいないし、夕食にはまだ少し早い時間帯だが、パスタ程度の軽さならちょうどいいだろう。それに明日はせっかくのオフだ。、少し早め
時間から小坂のところに入り浸ってのんびりするのも悪くない――そこまで思考して、祐正はふと首をかしげた。展覧会ののちの食事だなんて、うっかりすると
素敵なデートプランではないか。
「なんでこんなカップルのデートみたいな会話してんだ?」
「みたいじゃなくてデートのつもりなんですが、俺は」
「ああ、そう」
こういう言葉をさらりと言ってのけるあたりが、さすが元ヒモだ。赤面してしまうような初心さは、残念ながら持ち合わせていない。
「じゃあメシ食って小坂さんとこ行くか」
「いいですね。――今日。ありがとうございました」
「ん? 何が」
「武井、喜んでたみたいだから。あなたを誘って本当によかった」
不愉快さからではなく、祐正は眉を寄せる。改めて礼を言われるとさすがに戸惑ってしまう。
「いや、俺も――楽しかったよ」
嘘偽りなく、祐正は呟いた。
武井の若い感性に触れたことは、祐正の一部を、確かに刺激した。
ただひたすらに楽しかった。
ただひたすらに、その瞬間を焼き付けることだけを無邪気に喜んだ、あのころの自分を重ねた。
それはかすかに、胸に痛い記憶を、思い出させはしたけれど……。
――ほら。嘘みたいに青い空だろ、祐正。
エントランスを抜け、路上に出た瞬間、眩しいと、隣にいた男は露骨に顔を顰めた。
「ああもう、嘘みたいに青い空ですね」
少しくらい曇ればいいのにと、容赦なく降り注ぐ太陽光に嫌気が差したような声で、亮が呟く。
「……ははっ」
「――何か?」
「いんや、なんでもねえ。嘘みたいつったってこれがホントの空なんだから、しょうがねーよなーって思っただけ」
「はあ……」
「嘘みたい嘘みたいって、空もかわいそうだよなって話。せっかくきれいな青してんのにさあ……」
「……そう言われりゃそうですね」
また、祐正は笑った。まったく、素直な男だ――。
「やっぱりこういうのを見ると、撮りたいとか思うもんですか。なんか前も言ってましたよね」
「んー……時と場合にもよるかな。今は……撮らなくてもいいや」
「時と場合?」
「そう」
うなずいて、ゆっくりと歩き出す。
空はもう夕暮れが近づいて、片隅にオレンジ色のグラデーションがうっすらと見えていた。
その寂しげな色が、隣にいる男の顔に、影を落とす。空を見上げるふりをして、祐正はその横顔を、じっと見詰めた。
きれいだ。
おまえは、きれいだ――
焼き付かなくても、いい。永遠になんて残らなくてもいい。
そんなことを思ってしまうのは、プロのカメラマンとして失格かもしれないと、少しだけ苦笑する。それと反する思いで、清々しく祐正は笑った。
誰にも知らなくても構わない、自分だけの大切な感情は、ここにある。
今なら、ただそれだけで、よかった。
醜いばかりではない、嘘みたいに美しい感情が、今、ここに。
――それだけで。
「……おまえは背中まできれいだなあ」
「は? 何か言いました?」
「……いや、別に」
亮の少し後ろを歩きながら、祐正はもう一度空を見上げた。
祐正は、美しいものが好きだ。
きっとそれは、自分の心に、美しさを分けてくれるから。醜くゆがんでいたとしても、少しばかりの清浄を、きっと自分の心にくれるから。
なあ。どこかで見てるか。
どこかで、この空を、見ているか。
今。
嘘みたいに、俺の心は、きれいだろう?