触れたときはむしろその柔らかさに驚いた。それほど体格は違わないはずの男の身体は想像していたようなものではなく、丁度よく腕の中に収まる。少しも痛
くない、硬くもない、ただひたすらに柔らかいだけの肉にそっと包み込まれる。だらしのない、淫猥な動きで咀嚼されて、このまま身体ごと呑み込まれてしまう
と思ったときには、自分はただの男に成り下がっていた。
それから朝に目が覚めて、白い背中を向けられているのに気付いた瞬間、体中から血の気が引く。
――だから嫌だったんだ。
自己嫌悪に似た感情で、噛み締めるように思う。
こんな獣染みた衝動は、死ぬほどに、嫌だった。
自分よりも少し遅れて目を覚ましたその男は、ふいに、鼠をいたぶる猫のような目をして笑った。
「セックス、嫌いなんだろ」
面白そうに笑う横顔が酷く憎たらしくて、敢えて答えようとはせず、亮は無言を貫き通した。無性に煙草がほしくなって、けれどこの場面でそんなものを口にするのは厭味すぎるかと我慢する。
彼は動くのも億劫だと言わんばかりに壁に背を凭れ、引き寄せたシーツを抱き込んでいる。長い横髪から覗く眠たそうな瞳は思ったよりも幼い。
「なあ、」とからかう口調で、二度、彼が問うた。
「――別に」
低く殺した声で応えても、自分より一つか二つ年長であるはずの男は子供のように笑って、「俺のパンツ取ってくれる?」と無遠慮に指図してくる。自分で尋ねておいて、人の話を聞いてはいない。
かといって亮自身にもそれに文句を言える気力が残ってはおらず、言われた通り、床に落ちた衣類を拾い上げて投げ付ける。受け取ったパンツのポケットを漁り、彼はライターと煙草を取り出した。
「ヤってたら判るんだよ、そんくらい。何我慢してんの。嫌々ヤってもらったって面白くないんだけどこっちも」
「――煙草、一本貰えますか」
「吸うの? おまえまだ二十歳前だろ」
「いえ、二十一歳です」
「あぁ、そう。……おッかしいな、十九だか二十歳だかって聞いたんだけど。今、大学二年じゃないの?」
煙草を挟んだ指で、彼は頭を掻いた。それは決して、彼の記憶違いではない。
「俺、一浪してるんで」
「あぁ、だから二年で二十一? 誕生日早いのな」
こんな話は、こんな朝に相応しくない。――そう感じているのは自分のほうだけらしく、余りにも気の抜けた相手の態度に、亮は面食らってしまいそうになった。
朝っぱらからこんなふうに、どうでもいい雑談じみた、詰まらない話なんて。
「いい身体してんな。なんかスポーツやってた? 俺陸上やってた人知ってんだけど、あの人はこんなに筋肉付いてなかったもんなあ」
ふいに、煙草を持つ手とは逆の指で、彼が手を伸ばしてきた。丁度腕を伸ばせば届く距離の背中を、指先で突付く。つ、と柔らかく爪先でなぞった肌には、きっと昨晩、彼自身が残した爪痕でもあるに違いない。
「バスケなら、中高で少しかじった程度ですけどやってましたよ。陸上なら筋肉の付き方が違うでしょう、種目にもよるけど……」
「何つってたっけな。短距離だっけ」
まるで労わるようなやさしさで、彼はほんの少しだけ沁みる爪痕を指の腹で撫でた。そっと。不似合いなやさしさで。
「俺にも判ることがありますよ」
何、とゆるく首を傾げた男の無防備な表情に、疑いたくなる。多分自分たちは、知らないところで、様々な思惑が絡み合って出会ったはずなのに。まるでこの時間が準備された運命の舞台なのだと勘違いしそうになる。
「あんた、男相手にするの初めてじゃなかったでしょう。でも、俺が触る度に緊張して、震えてた。怖かったんですか? 例えば嫌なことでも思い出して――」
全くの、根拠のない言葉でしかない。なのに初めて男の表情が崩れる。ひどく軽い、取ってつけて無理矢理張り付けたような笑顔を浮かべていた顔が、初めて自分の目の前で崩れて、凍り付いて、唖然とした色を帯びていくのを、どこか遠くで見ていた。
「――レイプでもされたんですか」
「だったら何だっつーの」
指先の震えが煙草に伝わり、真っ直ぐに立ち上るはずの紫煙を歪ませる。動揺は真実を垣間見せたかのようだった。
「可哀想つって頭撫でて抱き締めてくれんの? ――ばッかじゃねーの」
「そんなことしませんよ。気持ち悪い」
「どうでもいいけど、おまえモデル向いてないよ。止めたら?」
いきなり転換された話題を切り付けられ、ほんの一瞬言葉に詰まる。体勢を立て直そうとしているのか、彼は返事がないことも一向に気にせず、言葉を続けた。
「モデルっつーかああいう仕事は向いてない。おまえの空気が強すぎて、全然商品の宣伝になるような写真撮れねーもん。主役がおまえに負ける」
「……そういうもんですか」
「そういうもんだよ、俺がどんだけ苦労したと思ってんの。まして今回はおまえを売るんじゃなくて商品を売るための仕事だろ。下手したらモデル降板もあったかもな」
「あなたなら撮れるでしょう。俺が幾らこの仕事に不向きなモデルでも」
そうでなければ天才の名が泣く。
言わず、胸の中でだけ続けた言葉を読み取ったように、彼は薄く笑った。彼ほどに恵まれたカメラマンは早々いない。スタジオ入りの時間を大幅に遅れてやってきた上、それが容易に許されるような立場にある、二十代前半の若手カメラマンなど、彼以外においては。
「おまえんとこの社長も、もうちょっと回す仕事考えりゃいいのに」
「正式に契約してるわけじゃないですから。俺は文句なんて言えません」
「いいご身分で」
面白くなさそうに言い捨てると、彼は添え付けの灰皿に短くなった煙草を押し付ける。すぐに火の消えた吸殻を灰皿に落とすと、彼はシーツに包まり再び背を向けた。もう一度眠ってしまうつもりなのかもしれない。
「今日は仕事はないんですか」
「夜。……そういやおまえ学校は?」
「さあ……」
「……ほんっといい身分だよな。ムカつくくらい」
お互い様だと胸のうちで笑い、腰を上げた。このまま学校へ向かうとしても、シャワーを浴びるくらいの時間ならあるだろう。結局吸わず仕舞いだった煙草を一度ローテーブルに置き、気だるい身体を引きずりながら歩く。もう、彼の背中は振り返らなかった。
自分が「いい身分」であることを、亮は十分承知していた。片山亮という人間が学生であることに対して使われた言葉ではない。芸能プロダクションの女社長
に見初められ、言ってしまえばヒモ同然の生活を送っていることに対して向けられた、ただの嘲笑だ。そのことに対して、亮は何の感慨も抱かない。悔しいとも
情けないとも思わず、ただ流されるように、気が付けば現在の位置に収まってしまっていただけだ。
昨日知り合ったばかりのカメラマンに告げた通り、亮は正式に契約を結んだ事務所の商品ではないが、時折は小さな仕事を宛がわれる。例えば通販のカタログ
に載るようなものから、紳士服のチラシ広告に載るような小さな仕事まで、やれと言われれば大人しく従った。それくらいの仕事でも宛てていなければ、若い男
を囲っている社長の体裁が悪いのだろう。
ただ今回の仕事だけは、いつもと事情が違っている。亮にしてみれば、お膳立てされすぎた舞台に立たされてしまったのだ。
つい先日、既に名の通っている貴金属・アクセサリーを取り扱う大企業が若手デザイナーを数名援助独立させ、新ブランドを打ち出すことを発表した。ター
ゲットは主に十代後半から二十代の男女のため、シックな高級感を持つ割りには価格が抑えられている。ピアスからアンクレットまで、全身を彩るあらゆるアク
セサリーをプロデュースするそのブランドは、元々の人気デザイナーが中心となっているせいか、既に風評だけでかなりの人気を博しているらしい。
それに伴ない、あらゆるメディアへの広告が張り出されるのも当たり前の話であるし、クリスマス商戦を狙って今から殊更宣伝に力を入れるというのも、理解できる話だ。
そこまでは、亮にとって他人事の話だった。その筆頭となる商品の広告モデルとして、生温い檻から狩り出されることになるまでは。
――新しいものには、新しいものを。
その方針に従って、ブランドの第一の顔となるモデルには、まっさらで無名の誰かが選出されることになった。業界の注目度も高いこの仕事を、喉から手が出
るほど欲しがっているモデルなど、幾らでもいるだろう。他人事のまま通り過ぎていくはずだった出来事に、思いもよらない形で関わることになってしまったの
は、亮にとって青天の霹靂である。
ともかく偶然が重なってこの仕事を受けることになった亮が、一抹の不安を抱きながら向かったスタジオに、一時間半遅れで到着したカメラマンが、彼、北沢祐正だった。
『いい仕事なのよ』
実年齢よりもずっと若々しい唇を、薄く上げて笑った女の顔が蘇る。
『撮影は北沢祐正だし、商品的にも話題性が十分でしょう。北沢祐正が撮るってだけでもすごいことなのに、うちにとっても充分価値のある仕事だわ。本当にラッキーだったわね、亮』
上擦った声で、うっとりと呟く社長――宮坂沙希には、今何を言っても、通じそうになかった。
『あんなに小さな広告を見たデザイナーが、直々あなたに声をかけてくるなんて、今のご時世早々ある話じゃないわよ』
『ラッキーは、あなたにとって、でしょう……』
きっかけは、本当に小さな、小さな仕事だった。多分、紳士服のちらしか何かの仕事だっただろう。着慣れないスーツを着て微笑んでいただけの広告の片隅
を、たまたま目にした代表格のデザイナーが、是非亮にモデルをと要請してきたらしい。亮がどれほど困惑しても、依頼を二つ返事で受けたこの女は、サクセス
ストーリーだと、喜ぶだけだ。
確かに自分は、まっさらで、無名のモデルではある。その条件だけはきれいにクリアしているものの、亮の感性自体は、素人というよりももはや凡人に近い。
『ええ、ラッキーよ。北沢祐正にウチの子をとってもらえるなんてね』
『……随分お気に入りなんですね、そのカメラマン』
『お気に入りなんてものじゃないわよ!』
正直に言えば、北沢祐正という名前には全く聞き覚えがなかった。それほど業界に興味のなかった亮を笑って、社長は上機嫌に『天才よ』と告げた。
『確か祖父が有名なカメラマンで、最初はスタジオカメラマンじゃなかったみたいだけど、ここ何年かで趣旨替えしたみたいね』
祖父の名の影響もあってか最初から期待はされていたカメラマンだったらしいが、新人カメラマンの登竜門と呼ばれる賞を最年少で受賞してからというもの、完全にその実力が確立され、誰からも一目置かれるようになったのだと社長は続けた。
『それに、彼は余り仕事をしないことで有名なのよ。一年の殆どは外国を飛び回って遊んでるって噂でね、気が向いたときにしか撮らないの』
――なんて嫌なやつだろう。内心の苦味を、亮はそのとき、僅かに眉を寄せるのみに留めた。甘い状況に胡座を掻き、与えられた仕事をしないなんて傲慢にもほどがある。
自分のことはとりあえず棚に上げ、そのとき亮は、心から北沢祐正を嫌悪した。
『だから北沢祐正の名前があるだけでも、充分すぎるほどなの。このまま北沢がうちを気に入って、仕事を引き受けてくれるようになればいいんだけど……』
だから失礼のないように気をつけてね、と笑顔で付け加えられ、亮は益々困惑した。
『……それなら、俺じゃなくても』
『いいえ、あなたじゃないと駄目』
沙希は、思う以上の強さで、きっぱりと亮の申し出を拒絶した。
『だから――その、北沢祐正と繋がりを持ちたいんなら、俺じゃなくたっていいでしょう』
元はグラビアアイドルを輩出することに長けているこの事務所には、女性のモデルなら幾らでも所属している。そのうちのひとりを北沢祐正とやらに紹介して、自分ははいさようならで構わないじゃないかと、亮は本気で思っていた。
『だって貴方以上の男前がうちにはいないんだもの』
誰だって、面倒臭いことには、できるだけ、関わりたくはない。
本気で願っていた亮の思いを、沙希は笑って打ち砕く。
どういう意味だと眉を寄せた亮に向かって、社長は信じられない言葉をあっさりと叩き付けた。
北沢祐正は、ゲイなのよ。
シャワーを浴び、部屋に戻ると、変わらない姿勢で横になった祐正の背中が目についた。寝入ってしまっているのかもしれない。
眠りに就いた人間の傍にいることに、多少の居心地の悪さを感じながら、ベッドを軋ませて腰を下ろす。吸わず終いだった煙草に手を伸ばして、同じくテーブルに置かれたライターを拾い上げる。
亮は、社長に言われた通りのことをやって退けた。あれは、言外に北沢祐正と寝てこいと言われたも同然だ。仕事を終えると飲みに誘い、その後合意でホテル
に連れ込んだことで一応の使命は果たした。あとは彼の機嫌次第である。自分を気に入るも気に入らないも祐正次第だが、とても気に入ってもらえたとは思えな
い。
そういえば、と思いついて、亮はそっとシーツを捲った。思い起こせば眩暈を感じそうなほどの甘美さで自分を包み込んだ身体とはいえ、知りもしない無謀な行為に、彼の身体が傷ついていないかと心配したからだ。
「……寒いんだけど」
寝入っているものと思っていた祐正の声が、くぐもって耳を打つ。
「すみません」
素直に謝ってから、亮はシーツを元通り祐正の身体に被せてやった。心配した通り、白いはずのシーツに、赤い液体が痛々しくこびりついていた。眠りたいわけではなく、起き上がれないだけなのかもしれない。
「……レイプされたって本当だったんですか」
「つまんないこと言い出したのはおまえじゃねーか。嘘も本当もあるかよ」
咥えた煙草を吹かしている合間に、思いついた問いをそのまま口にする。デリカシーなど欠片もありはしない問いかけに、やはり祐正はくぐもった声で応えた。否定もせず肯定もしない。曖昧な返答に、亮は話を変えた。
「……どうして俺と寝たんですか」
「おまえ、社長に言われたんだろ。俺に取り入ってこいって」
自分なんかより長く業界の水に浸かっている祐正には、そんなことまでお見通しなのだろう。今度は亮が黙り込む番だった。
「……俺も、おまえのところの社長には借りがあんの。乗っかってやっても、そう悪い話じゃない」
吐息のように吐き出して、祐正は心地好い体勢を探すように身じろぎした。シーツが僅かに下がって肩が露になる。それを持ち上げて直してやりながら、亮はまた問いを重ねた。
「北沢さん、痛くありませんか。……血が、出ていた」
吐息だけで笑う音がする。そんなことを訊くなんて馬鹿じゃないかと、嘲られているのだ。構わず、亮は静かに口を開いた。
「俺の彼女もレイプされました」
ほんの微かに反応して、祐正の肩が揺れた。唐突に選んだ不自然な話題に内心首を傾げながら、亮は伸びた灰を灰皿に落とす。今までのどの話よりも、不似合いで詰まらない話なのに、何の関係もない話なのに、なぜ今この話が口を突いて出てくるのだろう。
「彼女は黙って俺の前から姿を消しました。あんまり腹が立って、悲しくて、……気が付いたら社長のヒモにまで成り下がっていた。――あなたの言う通り、俺はセックスが嫌いなんだと思う」
強姦されたと告白を受けた後、彼女の身体を一度だけ抱いた。可哀想なくらいに強張って、凍り付いて、抱き返してもこなかった身体を思い出す。それが最後
だった。そうさせたのが男という性だと思うと、自ずから湧き上がる情欲にさえ嫌悪した。なのに泣きたいくらいの官能を齎した、たった一度のセックスだっ
た。
「……すみませんでした」
思えば、そのときの彼女と、祐正の反応が似ていたような気もする。だから、まさかと思ってしまったのだ。気のせいかもしれない、それでもまさか、万に一つでも。――万にひとつでも。
「言っただろ。借りがあるって。――これっきりじゃないんだろ?」
不自然に強い声音で背を向けたまま祐正が告げる。強い、なのに、震えた声で。
「俺が、おまえに力をやる。そうすればおまえの社長は満足するんだろ。満足させた分はきっちり返してもらう。俺は俺のためにしか動かない。もう、二度と謝るなよ――」
天才でも奇才でも何でもいい。ゲイ。震えた背中。レイプ。強張った頬。凍り付いた表情、柔らかな肉。そのどれもが彼に関する真実で、なのに、曖昧で確かではない。
「――惨めになる」
「北沢さん……」
彼は応えない。顔を見せないように背を向けているのに、なぜかその背中が泣いているような、そんな気がした。
まさかと思う。
けれど、泣いているんですか。
そうとは聞けず、亮はそっと手を伸ばした。色の抜けた髪に覆われた頬に触れると、指に感じた思わぬ冷たさに驚いて、掌を引き戻してしまいそうになる。濡れた感触が皮膚から伝わった。これを涙と呼ぶのなら泣いている。彼は確かに泣いているのだ。
「……祐正、さん」
亮には亮の考えがあり、祐正には祐正の考えがある。それが何かは知らないがお互い納得ずくの行為はずで、泣かれる覚えなどありはしない。なのに痛むのは
なぜだろう。彼が泣いてしまうくらい、彼の胸を痛ませているのは。そして自分の胸を痛ませているものの正体は。