そんな言葉はもうイヤだ

 日曜日は地獄だ。両親が揃って家にいる。二日酔いで不機嫌な親父に朝っぱらから殴られる上に、土曜の夜、母親の小言を繰り返し聞かされ続けた身体が、睡眠不足のせいか気だるい。背中が壁にぶつかる鈍い音がしても、こういうとき、母親はひどく怯えて、寝室から出て来ない。聞こえているんだろうか。聞こえてるんだろうな。別にいいけど。親父がパチンコに出かけたときくらいに、こっそり出てきては、またなんか言うんだろう。金切り声は鼓膜に痛いから嫌だ。
 歯磨きのついでに口をゆすいだら、ただの水道水がピンク色になって口から出て来たのが、ちょっと笑えた。
 そういうのって、DVって言うんじゃないの。ウチの裏にあるマンションの七階に住んでいる、幼馴染みが少し前にそう言った。聞きなれないその言葉が、なんだか不思議な気分がして、「でーぶい」といったら、間抜けな響きになった。もちろんそれは、故意にそうしたわけだけれど。痛みも苦しみも、名前がついたら、なんだか軽くなっちゃうんだな。それは、なんのための分類なんだろうと思って、首を傾げた。
 自分が変わらなければ誰も変わってはくれないのだと、誰か、えらそうな、人がいっていた。この家で、変わってほしいと願っているのは、たぶん僕だけだろう。だから僕は少しだけ我慢をした。お父さんにありがとうを。お母さんには労わりを。変わってほしい僕が一番さいしょに、変わろうとした。愛していると、何度も胸の中で告げた。どうか愛してほしいとも。
 僕が痛みを我慢するくらいでは、誰も、ひとりも、変わってくれないので、僕は努めていい子であろうとした。
 だけど侮蔑の言葉は、まだ少しだけこの胸に痛い。
 神様から愛されなかった日曜日。
 昼過ぎになると、僕は決まってウチの裏側にあるマンションの七階に逃げ込んだ。
「我慢って、どんだけすりゃあいいんだろうね」
 幼馴染みは決まって僕を迎え入れたあと、冷凍のごはんをピラフに変えて、昼食をごちそうしてくれる。食欲は大抵ないのだけれど、彼の手前、僕は遊ぶようにしてピラフをちまちま口の中に放り投げていた。そして彼は、僕の取り留めのない下らない話を聞いてくれる。
「我慢して我慢して我慢して……でもそれって、自分が「我慢してやってる」っていう意識があるうちは、まだぜんぜん、駄目なんだろうね」
「しんどいな」
「しんどいね」
 まだ足りないのか、何を補えばいいのか、どう利口になればいいのか。
 ときおり、それを考えるのがひどく嫌になる。
「でも、「変わって」っていって、変われる人間なんてひとりもいやしないんだから。――俺がさいしょに、態度で、示さなきゃ駄目なんだろう」
 愛してるよ。愛してよ。
 胸の中で何度も繰り返して、優しくあろうとした。
 なんだかとてつもなく、虚しくなっても。
 俺が駄目だから駄目なんだ。
 俺がもっと変わらなきゃ、なんにも、変わらないんだ。
「――なんかの本にそう書いてあったんだもん」
「出ていくか」
 かさかさのピラフを飲み込んだのと同時に、彼が、ちいさな声で呟いた。
「おまえの親父さんとお袋さん、ぶっ殺して、どっか逃げるか」
 ちいさな声だった。
 まるで僕の心の声みたいだった。
 むりやりかさぶたを剥がしたみたいに、心臓がひりひり痛んだ。――嫌だ。
「……そんな物騒なこと、言うなよ」
 そんな言葉は、もう嫌だ。
 そんな言葉を吐き出すような自分は嫌だ。
 悲しくなって嬉しくて僕はいびつに笑う。
「そんな後ろ向きなこと言ってないでさあ……なんか他に、あるじゃんか。大丈夫、とか。いつか報われるんじゃねえの、とかさあ――なんかそういう、救いのある、明るいこと言えよ」
 悲観的なだけの言葉なら、もう何度も繰り返した、何度も胸に切り込んだ。だけど一向に悲しいのは晴れてはくれない。ただ暗い影を落とすだけ。だからそんな言葉はもう嫌だ。嫌だ。
「そんな無責任な言葉言われて嬉しいのかおまえ」
 呆れたように彼がいう。そうじゃないけど、と僕は首を振る。
 ――ほんとうは、少しも嬉しくない。悲しいだけの言葉も。だけど殊更に明るいだけの希望の言葉も。
 たぶん僕は救われない。
 たぶん誰も変われない。
 だけど祈るくらいならいいじゃないか。
 祈るだけなら無料じゃないか。
「せめておまえくらいは、言ってくれよ」
 大丈夫だよ。
 神様に愛されなくっても。
 日曜日が地獄でも。
 大丈夫。大丈夫だよ。
 飲み込んだピラフがやたらしょっぱいと思ったら、涙が出ていた。ついでに鼻水を啜ったら、「汚い、」と彼が嫌そうに顔を歪めた。そのくせ、彼の指先はティッシュを取って、僕の鼻を乱暴に拭っている。
「何年後かに、結婚するかなって思ったときにさ、――すっげえ選んで、いい嫁さんもらえよ」
「うん」
「そんで、ものすごい幸せな家作れよ。嫁さんといっしょに。日曜日がちゃんと、嬉しくなるような子ども育てて」
「うん」
 頷いて、だけど少しだけ悲しくなって黙り込んだ僕を、彼がじっと見つめる。
 彼の話す未来図に、何かが欠けている気がした。
 彼は少しだけ言い淀んで、結局再び口を開く。
「俺は――おまえの子ども産めねえし、おまえも俺の子ども産めねえけど。ずっと傍にはいてやれると思うし」
「……うん」
「ガキがいなきゃだめだっていうんなら、養子でもなんでも貰って。三人で」
「――馬鹿じゃねえの」
 馬鹿みたいな未来図だった。
 どっちが嫁なのかとか、どっちが旦那なのかとか、色々と言いたいことがあったのに、どれも口からは出てこなくて、僕は俯いて泣いた。
 それは、さっきの――まだ見ぬ奥さんとの幸福な未来図よりも、丸く、すべてが美しく収まっている気がした。
 僕は。
 彼に出会わなければ、やさしいおうちがほしいと、いつまでもひとり、思っていたんだろう。
 夢のようにぼんやりとした現実を抱いていたんだろう。
 懸命にスプーンを運んでむりやりピラフを食べ終わったあと、「ごちそうさま、」と小さな声で呟くと、彼はほっとしたように口元を緩めた。
 神様に愛されなくても構わないと思った日曜日。

 

 

そんな言葉はもうイヤだ

 

20061030