ぼくのすきなひと


 思い出があるからいけないと気付いたのはつい最近だった。そうだ、だからいけないのだ。忘れられないからいけないのだ。忘れることを許せないからいけないのだ、だから人は、悲しいのだ。自分とあの人は哀しいままなのだ。

「母さん、」
 充は吐息に掠れた声で女を呼んだ。もう何度目になるか判らない。四度、叫ぶように呼んだことは覚えている。それ以降はもう数えていない。何度呼んだとて叫んだとて、女の獣のような咆哮は止まなかった。そしてそれは、これから当分止まないことを、充は経験上嫌というほど知っている。運命だと諦めて、首にかかる指の力を感じながら充はそっと瞼を落とした。鼻先にかかる吐息は酒臭い。女が泥酔しているのは赤らんだ頬と充血した目玉を見れば明らかで、この状態がそう長くは続かないことも充は理解している。精々十分か二十分。我を忘れたように泣き喚き、充の姿を認識した途端に攻撃してくる、まさに手負いの獣になった母の衝動は、十分か二十分、自分が我慢してやれば収まるものなのだ。そうほんの、たったの、十分や二十分。一日は二十四時間、二十四時間は千四百四十分……その中の十分や二十分くらい。
 ただ左の視界が真っ暗で、そのことだけが気になった。段々と狭まる呼吸器官に、酸素を求める脳が眩暈を起こす。けれど幸いかもしれない。意識を失うことが痛みを手放すことに繋がるなら、それはきっと、幸いなのだ。

 僕の好きな人が泣いていました。悲しそうに泣いていました。
 僕の好きな人が笑っていました。悲しそうに苦しそうに笑っていました。

 目覚めると、ソファに横たわった母の背中と、床に散らばった無数の空き缶や空き瓶、そして壊れた家具が見えた。どんな暴漢が入ったのかと疑ってしまうくらい酷い有り様だ。おかしくなって充は笑う。ふ、と笑みの形を造ろうとした唇は、無様に嗚咽を漏らした。この家は、定期的に無様な始末になる。こうなることを避けるため、姉や父は力を尽くしてくれているが、それでも避け切れない要因が重なった時々に事態は引き起こされた。今日は――仕方がなかった。多分、仕方がなかったのだ。充は母がこの家にいるとは思っておらず、母も充が帰って来るとは思っていなかった。思っていたとしても、ここまでアルコールに溺れることになるとは彼女自身予想していなかったのだろう。
 充が帰宅したとき既に充分な量のアルコールを体内に収めていた女は、充の姿を目にした瞬間、硬質な灰皿を投げて寄越した。狙いは上手く定まったのだろう。重たい灰皿は丁度左目に追突し、床に転がって割れた。あまりにも急な衝撃に、充はその場から逃げ出す手段すら思い浮かばず、そのまま散らばる灰皿の残骸の隣に蹲り、左目を押さえた。痛い。ただそれだけの焼けるような痛みも、華奢な指に奪われる酸素に薄れ、やがて意識を失っていた。女は、まだ眠っている。
 一日のうちの、二十四時間のうちの、千四百四十分のうちのほんの数分が漸く終わった。しかしそれは終わりの見えない闇のようでもあった。
 充は、母親の行いをアルコールのせいにはしない。何故なら彼女の意識にそういった願望があるからこそ、泥酔するごとに自分を傷付けるのだと信じていたからだ。だから、アルコールを言い訳にした暴力を、充は決して許さない。許せることではないと理解する。そう思うことすらまるで他人事のようだった。
 ずきずきと痛む左目は、まだ視界を取り戻さない。母親の背中すらぼやけて見えたのは、涙が滲んでいるせいではない。明らかに左目が痛みと共に異常を訴えている。姉に連絡をして、病院に連れていってもらうのが最善であろう。充は鈍く立ち上がった。
 あの男の顔に似ていると言ってあの男の目に似ていると言ってあの人は。そんな目で見ないでと泣きながら首を絞めたから。
 立ち上がった充は、キッチンへと足を伸ばした。シンクの下にある戸を開くと、滅多なことでは使われない包丁が行儀良く並んでいる。この家の住人は全員外食が多いからだ。しかし定期的に手入れはされているらしく、充の手に握られたそれは充分なほど凶悪な輝きを放っていた。
 どうしてだろう、どうしておれはあなたの血を受け継がなかったのだろう。父さんの血だけ色濃く受け継いだのだろう。あなたが嫌うあの人もおれは決して嫌いではなかったけれど仕方ないね。あなたが嫌うのも仕方がないね。
 捨てられないんだね。
 足音もなく近付いた母の身体の上に、鋭く輝く刃物を掲げる。今まさに振り下ろそうとした瞬間、指先が震えた。
 仕方がない。幼い思考で考える。殺される。このままじゃ、いつかおれは殺される。拙く、しかし胸に迫る恐怖は、充の喉を引き攣らせた。おれが、父さんに似るのも仕方がないんだ。だっておれは子供だから。あなたとあの人の子供だから。
 死にたくない。
 おれは、まだ、
「……母さん、」
 もう何度目になるかは判らない。嗚咽に紛れて呼んだ。女は目を覚まさない。空ろだった。なんて空ろな殺意だろう、充はまるで他人事に思う。ただ痛い。左目が、絞殺されかけた首の痕が痛い。焼けるように痛い。痛くて、視界がはっきりしないのに、それでもまだ涙が流れるのは、まだ目が機能しているからだろうか。
 右目にも溢れた涙が母の背を霞ませた。見えないまま、その小さな背中に刃を振り下ろそうとした瞬間、玄関が慌しくなる。「充!」聞き慣れた声に呼ばれた。叫ぶように声を上げたのは恐らく姉だろう。血の繋がらない優しい姉は、真っ直ぐに充と母の元へ飛んできた。振り翳した刃に顔色を変えた姉の顔を正面に見据え、充はただ泣いた。泣きながら、身体中から力を抜く。握り締めていた凶器が呆気なく掌から零れ落ち、凶器はただの器具になる。堪え切れず「う、う」と子供のように嗚咽すると、優しい腕が身体を抱きしめてくれるのを感じた。
「病院に行きましょう」
 言われて初めて、己の流した血がフローリングへ滴っていることに気付いた。どこから流れているものだろうか。灰皿がぶつかって割れた瞬間、皮膚のどこかを抉ったのかもしれない。恐らく額か、それとも目か、もうどうでもよかった。どうせ痛む箇所など数え切れない。
「充は優しい子ね。母さんを傷付けなかったのね」
 姉は微かに声を震わせた。やさしい女の声は身体中を包んで、痛みを癒してくれる。充はこの人のことが好きだ。自分よりも華奢な体躯で、手をいっぱいに広げて抱きしめてくれる。女は強い。女は守ってくれる。
 ――あの人だって。あの人だって。そう、あの幼かった日々、抱きしめてくれたのは、やわらかな両腕で抱きしめられていたのは、いつだって思い出すのは嬉しかったあの日々、

 その夜、高熱に魘されて嘔吐した。暴力を奮われたあとはいつもこうなる。何一つ抵抗しなかった自分への嫌悪か、それとも母そのものへの嫌悪なのか判断できない。過去なんてものはなければいいと本気で思った。好きだった人たちを、やさしかった日々をなくすことが出来たらいいのに。咽び泣きながら祈るように思っていた。

 

 

 

 

 

ぼくのすきなひと。